2008/12/30

15.北総石仏 印西船穂Ⅰ

印西教育委員会発行「石との語らい」をテキストに石造物を見て回ります。このコースは道路の付け替えや区画整理で石仏が移動しており、位置表示もかなり変化しているので見つけるのに一苦労です。 
15-1.宗像神社の神道系庚申塔群 
県道4号(千葉龍ヶ崎線)を南進でくれば船尾交差点を東方向へ左折するとすぐに宗像神社があります。その東角に神道系庚申塔を中心に14基が集められています。下の写真真中は明治36年の自然石庚申塔は道標になっており右側面「左 作場道」左側面「右 松崎道」の表示があります。左端は大正10年子安観音です。その右隣は無残にも削られています。 石塔群の右半分はまさに神道系庚申の塊で猿田彦大神の集団ですね。左は文久二年(1862)猿田彦大神、次は文化十四年(1817)不明石祠、右端は万延元年(1860)猿田彦命塔。後列不明石祠の後ろは文久二年(1862)の猿田彦像塔です。 野田の須賀神社で見た猿田彦像と同じようなミニ猿田彦命がのぞいています。アップだとこうなりますが像塔を見れるのは貴重です。 それではうっそうとした宗像神社に入ります。天照大神の近代的な御社があります。近代建築でいえば耐震補強済みみたいな感じです。 宗像神社本殿の後ろには石祠の団地があります。8基が並んでいますがかなり荒れています。残念ですが地主である宗像本社から店子としてあまり紹介されていないのかな?古いものでは元禄七年(1694)~安永八年(1779)まであるのですが御神体のブランドが分からないのが寂しい。 もっともちゃんと碑文が刻銘されているけれど自分の勉強不足で読めない碑がありました。左端のこの写真ですが明和五年(1768)「大己貴尊」??? だとすると神道系の子待塔(日本石仏事典第二版207頁)ということになり珍しいものです。今度先輩にご教示頂くつもりでアップしておきます。15-2.中郷三叉路の石仏
宗像神社を出て左折し道なりに坂を下り新道に出て約700m、中郷への道を左折すると三叉路となります。山下にあたる曲がり角に三基の石仏があります。左から昭和24年の文字馬頭観世音碑、寛政七年(1795)刻像馬頭尊、明治40年の不明石碑です。小さいながらも昭和24年のまだ豊かでないときに造立した当時の親たちの純粋さに敬意を抱きます。 
 15-3.中郷山上の庚申塚(勝手に命名)
 この三叉路では迷いました。テキストでは次は「山ノ下庚申塚」の表示ですが、実は山上にあるのです。ここは真中の細い道を山上に向かいます。山上に出ると左の作業場があるところ塚上に庚申塔があります。何れも大きくて立派です。左から文化七年(1810)文字「庚申」三猿塔、明治5年と享保三年(1718)の笠付合掌型青面金剛塔です。右端のものは片足ずつ邪鬼を踏まえる2邪鬼です。珍しい。反対側にも庚申塔があります。左は安永六年(1777)「大青面金剛童子」三猿塔で碑文が珍しいものです。三猿も彫がしっかりしています。真中は寛政六年(1794)、右端は文化四年(1807)の青面金剛尊塔です。この塚を通り過ぎると墓地が広がります。丁度墓地の出口(南方)から入った形です。 15-4.中郷山上墓地入口の石仏(テキストは山ノ下庚申塚と表示)
 北方入口に当たるところに石仏群があります。14基並んでいます。二十六夜塔1、二十三夜勢至菩薩塔1、同文字塔2、青面金剛像三猿塔1、文字庚申三猿塔1、文字庚申塔6、猿田彦塔1、馬頭観音像塔1となっています。良品や珍しいものをあげておきます。これは享保五年(1720)二十三夜塔勢至菩薩です。彫も深く立派。これは嘉永三年(1850)二十六夜塔であまりお目にかかれません。実にシンプルなものです。 これは元文五年(1740)の三猿合掌型青面金剛塔です。像塔は別段普通のものですが、下部三猿が全部横向きなのが可笑しいです。テキストにあった一石百庚申塔は見当たりませんでした。今回はここまでとしましょう。

2008/12/27

14.北総石仏 印西木下Ⅲ

印西教育委員会発行の「石との語らい」をテキストに木下地区の石仏巡り3回目ラストです。 前回の飯田家墓所から更に500mほど南進します。墓地と木立が右手に見えてきます。別所地蔵寺と熊野神社です。道路よりに神社があります。
14-1別所熊野神社 
訪ねてみると下の写真のように地蔵寺と熊野神社が並んで建っています。実際は熊野神社が少し後方ですが境内に同じ規模で建っているのを見ると不思議な空間を訪ねた気持になります。寺社ともに無住なので一層静かなワンダーランドです。 熊野神社には瞽女(ごぜ)の奉納手水石があります。享和三年(1803)別所村瞽女キヨと常州鹿嶋の瞽女ヒデが木下宿・発作村・惣深村のパトロン達の支援を得て手水石を奉納しました。「農村娯楽の貴重な資料」と解説が付いています。 又、道路よりに庚申塔が3基建っています。左は享保八年(1723)の青面金剛塔、真中は嘉永六年(1853)の庚申道標で「北きおろし道」「東小林道」等の表示があり、右は寛政三年(1791)の青面金剛塔が並んで道路を向いています。 14-2.別所地蔵寺の胎蔵界大日如来
同じ敷地といえこの大日如来を探すのには苦労しました。本堂裏に歴代住職の墓所の表示があります。その区画の三段目の後列左に「房総の石仏百選」に掲載されている大日如来がおわします。悲しいかな百仏本に収録された時と違い前列の如意輪観音と間隔を空けず設置されています。今では正面からの撮影は出来ません。寛永九年(1669)御時念仏講により設立された由緒正しい石仏であります。湯殿山本地仏である大日像はふっくらと量感豊かに衆生を見守っておられました。この区画には十九夜塔2基や筆子塔と呼ばれる住職の供養塔がありました。写真のような台座の表示「筆○○合」がそうらしいけれど私には読めません。勉強しなくちゃ。境内には近世の子安塔5基が子沢山のブロンズ地藏と並んでいたり印西大師第二十番社があったりします。獅子舞も無形文化財です。 14-3.別所宝泉院の石神
更に南進して50mほどで宝泉院の参道が右側にあります。入って左手の元文四年(1739)庚申塔は下の写真のように「庚申尊供養」塔と表示され笠付縦長のスマートな形です。その並びに明治22年の線彫り不動明王石碑もあります。テキストに表示された石神様(男性象徴)はなかなか見つかりません。表示もないしと帰り際に「もしかして破損?」と気付いたのが下の写真です。多分これかも・・・・・祠の下の円柱と傍の丸い石造物に注目・・・・合掌テキストにあったこのコース最後の別所青年館が見当たらず、子安塔などは回ることが出来ませんでした。このコースはこれにてお仕舞いとします。

2008/12/22

13.北総石仏 印西木下Ⅱ

今回は石仏よりも石造物が盛り沢山のコースです。テキストは印西教育委員会「石との語らい」を手にして回ります。 
13-1.木下貝層(国指定天然記念物) 
木下特産貝化石の地層は天然記念物に指定されています。国道356号竹袋交差点に小山のような木下公園があります。道路から階段を上がると解説版つきでこの天然記念物の木下貝層を見ることが出来ます。勿論、無料です。 13-2.竹袋観音堂の石仏群
国道356号の竹袋交差点を横切って県道64号(千葉臼井印西線)を南下します。およそ800mで少し右路地を入り竹袋青年館のある竹袋観音堂の広場に着きます。観音堂の手前に加蘇山塔など5基が並んでいます。下の写真の左に出羽三山・西国・坂東・秩父巡拝の嘉永四年(1851)、明治元年の2基があります。残り3基は写真左から文政十三年(1830)の西国巡拝塔、明和九年?(1773)尾鑿山塔、明治27年加蘇山塔となっています。また、この広場には少しはなれたゴミ収集所のならびに12基の十九夜塔などが並んでいます。左端は元禄十三年(1700)十九夜塔です。 テキストの寛文八年(1668)阿弥陀如来はこれでしょう。寛文元年(1661)の石仏はこの写真ですがこれは正観音像と見えます。テキストに「寛文元年の庚申塔」の記載があるので他に寛文元年塔や庚申塔らしきものは見当たらずいささか混乱しました。庚申が観音塔でもありえますが、碑面を確認する余裕がなく再確認の必要がありそうです。13-3.竹袋稲荷神社の石祠群
観音堂の隣が稲荷神社です。観音堂正面からみると右手のほうからやってくることになります。鳥居は大正十四年です。神使の狛狐は檻に入っています。大正十年生まれから入っているわけではないでしょうが、目つきが暗くて可哀想ですが上等の出来と思います。前回の山根山不動尊にあった筆子塔の師匠古結大観先生の書で力強い天保二年(1831)月讀塔があります。境内に石祠28基は数え切れませんでした。明治43年の蠶影山塔は大きくて立派ですが写し損ないました。残念。 
13-4.竹袋三宝院の筆子塔 
稲荷神社を出て100mも進めば左手に三宝院がある。参道が奥まっているので車だと通り過ぎてしまいますが、お参りするにはしみじみとした雰囲気があって気持が休まります。 この参道手前では左に享保二十年(1735)の地蔵菩薩が立っています。並びに天明七年(1787)の時舟講中と読める三石六体・六地蔵と明和四年(1767)の十九夜塔が迎えてくれます。 向かい合って右手は「総州六阿弥陀第五番札所」の石柱が立っています。境内に入れば印西七福神・恵比寿神が目につきますが、お目当ては本堂裏手にあります。お寺の方にことわって左手から本堂裏にある住職墓地へ参ります。ここでミステリーですがテキストは「二十七世住職の筆子塔」となっていますが、それが昭和62年製の目茶新しいものでした。???と思いながら帰ってきましたが、テキスト略図はぼんやりと「二十三世」となっており形も自然石形で違っておりました。若し、テキストを見てたずねられる場合には誤植にご注意を。というわけで写真はありません。 代わりに立派な宝篋印塔を三基ばかり、左の寛永十五年(1638)塔は時念仏塔として建てられた大変立派なものです。 三宝院を出て南進し30mで右手に墓地が見えます。 
14-5.飯田家墓地側の庚申塔 
道路沿いには四基と奥にも四基並びます。前列左が天保九年((1838)青面金剛塔、文久元年(1861)文字庚申塔、弘化四年(1847)と明治二年の二十三夜塔です。後列は文政十三年(1830)二十三夜塔、享保十年(1725)文化二年(1805)文政五年(1822)の青面金剛・文字庚申塔です。又、この並びの墓地入口には馬頭観音塔が6基ほどあります。文化年代・嘉永七年?・明治・大正7年・昭和4年塔と連綿と信仰が続いていることがうかがえます。この墓地入口に写真のような「犬供養」が見られました。民間信仰が生きているのを肌で感じました。ビックリ犬供養とは「千葉県や履城県の利根川下流域をはじめ,栃木,福島,宮城の諸県にかけて行われる女の行事。この行事には,動物の死を弔うという性格と人間の安産を祈願するという性格とがある。福島,宮城では前者の,利根川下流域や栃木では後者の性格が強くみられる。利根川下流域では十九夜講やユサン講などの講員である若い嫁が,毎年2月から4月ころにかけて定期的に行うが,雌犬が死んだ際に臨時に行うこともある。犬卒塔婆とよぶ Y 字形の塔婆に握飯を入れた藁苞(わらづと)をつけて,村はずれの川や三差路まで鉦(かね)・太鼓で送っていき,そこに立ててくる。これは無事に子どもが生まれてくることを願う安産祈願の行事である。同時に,犬供養は犬卒塔婆を村境まで送っていって立てることから,虫送りなどと同じく,村の中の災厄を村外に送り出し,再び入ってこないようにする行事ともいえる。」:世界大百科事典から引用

2008/12/14

12.北総石仏 印西木下Ⅰ

木下と書いて「きおろし」と読みます。千葉県の北西部をJR成田線が走っていますがその中の木下駅が出発点となります。このコースも印西教育委員会の「石との語らい」をテキストとして回ります。今回も色々な種類の石造物に出会えました。出発! 
12-1.山根山の不動尊の石仏群 
木下駅前入口交差点を右(東)方向へ進み突き当たり三叉路木下三角交差点を左にとって、駅から600mほど進めば民家の間の細い参道を見つけると不動尊が正面に見えます。隣が町営の子供の遊び場となっているのでこれを目印としても分かりやすいでしょう。 手前に古そうな狛犬と奥に新しい狛犬があります。新しい狛犬の右手に見えるのは何でしょう?出ました!! 木下特産の貝化石です。 右に見えますのは大森コースでお見せした貝化石石祠の親分ともいえる貝化石灯篭であります。年代不詳ながら当地特産木下貝化石層から作られた灯篭が圧倒的な存在感を示しています。左の昭和50年・聖徳太子講碑なんかまるで相手にしていないかのようです。実はこれより小ぶりですがもう1基が手前左側にあります。 その奥に並んでいるのは下の写真ですが左が明治35年の子安塔、右が文久二年(1862)の十九夜塔であります。
又、参道の左側に明治42年加蘇山塔、大正12年子安塔、天保十二年?(1841)猿田彦命塔、安永四年((1775)十九夜塔などもあります。本堂左手裏には次のようなラインアップで並んでいます。 左から「???」・・・・なんじゃこれは。多分、明治13年「唐犬濱之墓」と読むと思います。ペットのお墓と解するのが妥当?それにしても昔からペット好きの人はいるもんだと思いました。 隣は江戸末期の書家の筆子塔のようです。次が平将門の愛妾「子宰相」の碑、明治24年に念仏講中で建てられました。
墓碑を一つ置いて右端は文政九年(1826)の如意輪像を冠した十九夜塔です。私には珍しい。
本堂右手は庚申塔2基で左から昭和8年・51年物と、右端は安政四年(1857)の普門品供養塔です。 他に線彫不動明王や古い狛犬は石工の刻印入りだったりします。様々な記念物が集まっている不思議な空間ですね。 元の道から来た方向へ戻り駅には寄らず踏み切りをこえて更に進むと右手に上町の観音堂があります。 
12-2上町の観音堂 
参道の形跡も薄く広場の周りに石碑や石造物が雑然と集められた感じです。道路沿いに十九夜・一石六地蔵・庚申塔などがあり、参道と思しきあたりは二十三夜塔・廻國塔など、入口道路沿いは庚申塔で広場内側は印西大師第30番・印西七福神寿老人・・・という具合に、こちらは石造物の老人健康施設みたいな印象です。正面から見ると赤い観音堂が見えます。上の写真左に見えるのは元禄十三年(1700)の道標を兼ねた合掌型邪鬼三猿付青面金剛塔です。下の写真側面に「右 江戸みち 東 ・・・みち 左 さくらみち」となっています。(・・・は初心者の為読めませんでした、勉強しておきます)この並びに天明二年(1782)如意輪観音像を冠する十九夜塔道標があり、宝暦十一年(1761)青面金剛尊塔や石祠などが続きます。 境内の右手は写真のように印西大師第30番、大正5年南無大師供養塔、大正9年子安塔、明治36年普門品十万遍供養塔、印西七福神寿老人が並んでいます。又、この反対左手はバス道路ですがその柵沿いは文政九年(1826)十九夜塔や安永二年(1773)一石六地蔵などが並んでいます。尚、この観音堂の銅造十一面観音立像は県指定文化財に指定されています。 12-3.下町浅間神社 
 観音堂を出て南下30m程で左折する道路に入り、100mほどで住宅街の中の右手角の区画に窮屈に鎮座しているのが下町浅間神社です。 ガイドには木花開耶姫命の大型美形石祠と表現され期待して行ったのですが、正面から見ただけではそう見えません。裏に回って文久三年石祠とご対面となったのですが・・・・勝手に大型像塔だと思ったのが早とちりでした。窮屈な空間に下のような庚申塔が右側3基左に青面金剛刻像塔2基とお住まいでした。尚、写真左手の三猿塔は正面に「奉献」と表示されただけの弘化二年(1845)の変わった庚申塔でした。 ここは他に出羽三山三十三度大願成就塔なんかもありました。明治6年にも元気な人がいた証でしょう。今回はこれまでとしましょう。