2009/01/30

22.北総石仏 印西草深Ⅱ

印西教育委員会・平成4年「石との語らい」をテキストに石仏を見て回ります。前回は草深小学校のそばにある丸山観音堂・大師堂までやって来ました。次は内川青年館の分岐まで戻ります。分岐を左折して直進約1kmでセブンイレブンのある信号に出ます。 
 22-1.南内川路傍の廻國塔
コンビニのある信号に出る手前で、U字をした曲がり角に道標と石仏3基があります。左から大正8年(1919)道標、万延元年(1860)文字庚申塔、元禄六年(1693)笠付合掌六臂青面金剛塔、享保六年(1721)舟形如意輪観音塔です。珍しいのはこの如意輪塔ですが、前回紹介した廻國塔として造立されていることです。観音の右頭上に刻まれた文字が見えますか?「奉回国六十六部」と刻まれているようです。市内唯1基とテキストに載っています。道標も見ておきましょう。「西 多々羅田 舟尾道 向一丁左折 結縁寺道」「北 當区内川ヲ経テ別所 古新田道」「南 松崎」と読めました。この道標は本来道路反対側にあったものだそうです。置かれていた方向を推理するのも楽しいものです。
22-2.大日塚の大日如来 
 コンビニの信号を直進して500mで結縁寺の表示をみて左折します。左折してすぐ左手住宅が途切れるところに、大日塚の小さな表示があります。畑の中にある大日塚の表示板を目指して畑の畝を伝って進みます。下の写真は道路側から見た大日塚です。石仏の後姿になります。右端の大きな石碑は昭和26年の出羽三山塔です。後から写真が出てきます。塚の前に詳しい説明板があります。この文面をチェックしていて誤り(だと思われます)を見つけました。石仏関係者なら常識としてすぐ分かると思いますが、さて何でしょう?答えは後ほど。明和二年(1765)大日如来はこの写真です。夕暮れで逆光の木陰というハンデキャップ付なので見難いですが、上部に真言が刻まれている貴重な石仏が分かりますか?湯殿山本地仏として智拳印を結ぶ明和二年(1765)金剛界大日如来が写っています。その左にみえる文字三山塔は文化三年(1806)造立で写真では月山と読めます。つまり写真左隣にある三山塔の正面主尊は湯殿山で、右に月山、左に羽黒山となっています。下の写真明治8年塔ですがこういう感じでしょうか。時代が下がってこの石仏群の右端3基を紹介すると、下の写真で明治32年・明治33年・昭和30年の出羽三山塔となります。前の写真と違う点がわかりますか。実は、上の三山塔の主尊(碑面の中央)は全て月山となっているのです。つまり時代が下ると(明治になって神仏分離令以降)湯殿山主尊が月山主尊に変わってしまうのです。明治時代になると「官幣大社月山神社」「国幣小社湯殿山神社」などと表示されたりして体系整備された造りに変わっていくことになります。先ほどの「大日塚の碑」の写真説明で「刻銘も湯殿山上位型に変化し、明治の神仏分離過程を・・・」は間違いで「刻銘も月山上位型に変化し云々」が正しい説明となります。月山上位型に変化した分かり易い実例として全景写真右端にあった昭和26年塔を載せておきます。石仏知識「湯殿山主尊の三山塔は月山主尊のものより古いもの」と理解しましょう。追々勉強してもっと詳しく確実な知識を身につけておきたいと決心した次第ですが、こういう間違いを発見することがあるので石仏巡りは止められません。「ウフッ」 
22-3.結縁寺横の庚申塔群
大日塚から300m南下すれば結縁寺です。道路沿い左手に庚申塔など3列で10基並んでいます。前列左端は不明石祠、前列右端も不明石塔であとは文字庚申塔4基・青面金剛像塔2基・青面金剛文字塔2基の計10基となります。 興味深いものでは写真右から2基目の享保十年(1725)二童子付六臂ショケラ持青面金剛塔です。 「ショケラ=女人」と思ってください。この用語は訳あって日本石仏事典にも収録されていない用語ですが、今では一般的に使用されている用語と理解しています。こういう知識に詳しいディープな研究家が石仏業界に沢山おられるので、これも今後知識補強しておきます。 次は碑面に三猿+台石に三猿=六猿の安永二年(1773)六臂合掌青面金剛塔です。 しかも台石の三猿が立ち上がっている変わったデザインです。別の台石を付け足したかも知れません。この塔は道標も兼ねています。又、前列右から2番目の文化十二年(1829)青面金剛文字塔は側面に「西 江戸 東 成田」と刻んだ庚申道標となっています。22-4.結縁寺青年会館の二十三夜塔 
 この庚申塔群に隣接して結縁寺青年会館があります。結縁寺手前の池からその様子を展望すればこんな景観です。真中電柱の左方は先ほどの庚申塔群と五輪塔のある墓所、右方は青年会館と並べられた十九夜塔・子安塔・宝篋印塔などがあります。丁度電柱のところに並ぶ子安塔二十三夜塔など写したのが下の写真です。年代は昭和など新しいものが多いです。下の写真は笠石のとれた寛文十一年(1671)勢至菩薩立像の二十三夜塔です。下の写真では「子安供養塔」という表現が珍しいと思いました。22-5.結縁寺の六面石幢六地蔵 
 庚申塔群と道を挟んで結縁寺があります。池を回りこんで先ほどの撮影地点に来ると、そこが結縁寺の正面入口になります。印西地区でも貴重な六面石幢に六地藏が浮き彫りになっています。結縁寺の由緒はこちらの説明を参考にしてください。22-6.船尾ゴルフセンター脇の名馬塚
結縁寺から300mほどでゴルフセンターです。道路沿いで金網に囲まれるようにして名馬塚があります。先ほどの結縁寺由来にも書かれていますが、源頼政の首を運んできた名馬がこの地に葬られたとかかれています。その縁で馬頭塚がこのように十数基集められています。存在感十分なものは下の写真=馬頭観世音の道標ですが正面に馬頭観世音と刻まれた両脇に(右)船尾(左)江戸道と表示があり、右側面は「南 結縁寺道」と刻まれています。裏は「北 泉新田 大森」「東 惣深 成田」となっています。下の写真は寛保二年(1742)馬頭観音で彫もしっかりとして八臂は珍しいと思います。こちらは明和六年(1769)馬頭観音で冠上の馬印や馬口印も鮮明で形よく私は好きですね。 22-7.船尾ゴルフセンター先の路傍子待塔
名馬塚から県道4号(千葉竜ヶ崎線)へ出る角はセブンイレブンですが、その手前で右手電柱側に二十三夜塔・庚申塔・石祠など8基が建っています。右から「奉待二十三夜塔」・元文二年(1737)青面金剛塔・明治8年「金毘羅太神」塔・宝?暦五年猿田彦大神塔・享保七年(1722)二十三夜塔・文化十二年(1815)大己貴命(おおなむちのみこと)石祠・安永六年(1777)「○○法師」塔・不明石塔となっています。興味あるものを見てみましょう。 左の石祠は子待講中と刻まれた大己貴命(おおなむちのみこと)の石祠です。大己貴命は大国主の若い頃の名前なんですね。調べてみるもんですね。甲子または子の日に夜遅くまで精進供養をする行事を子待ち(ねまち)・甲子待ち(こうしまち)といいますが、その子待講で造立されたのがこの石祠です。礼拝本尊は大黒天(大国主神)です。小さいけれどこの信仰が行われていたことを示す市内でも珍しい貴重な石造文化財です。 又、右の写真は勢至菩薩像を頂く享保七年(1722)二十三夜塔です。これは元文元年(1736)二童子・笠付青面金剛塔です。道端に豪華な石仏がさりげなく起っているのを見ると、昔の北総の地の豊かさに感心しますね。最後になりますが、この石仏列の左端に下の写真の石仏がありました。さて、なんでしょうね。写真ではちょっと見難いですが、徳利に杯をかぶせたデザインで「○○法師」と書かれています。酒好きな坊さんを偲んで造立されたのでしょうか?多分江戸時代のものと思いますがそんな頃の人の世がちょっと楽しく思えますね。 今回も盛りだくさんでお疲れさまでした。印西市はこれでおしまいにして、次回から白井市オリジナルコースを回ります。

2009/01/21

21.北総石仏 印西草深Ⅰ

ホームグラウンド房総に戻ります。印西教育委員会「石との語らい」をテキストに印西最後のコース草深(そうふけ)を回ります。 
21-1.泉集会所の十五夜塔 
 泉集会所敷地の道路際に庚申塔16基、子安塔8基、十五夜塔1基、十九夜塔1基、二十三夜塔2基、花見堂地藏1基、読誦塔1基計30基が並んでいるとテキストにのっています。手元に記録が残っておらず確かな情報を記せないのは残念ですが、気になる石仏を見てみましょう。まず石仏でよく見受けられる異体字庚申塔です。「青面金剛王」ですね。下の写真はよくある六臂庚申刻像塔ですが数珠持ちは面白く又、いかにも北総風でのんびりした像容ですね。次は寛政五年(1793)十五夜塔ですがこの地域ではめったにお目にかかれません。私には珍品(失礼)で強く印象に残っています。次は読誦塔ですが正面には「大般若利趣分経千部」「大乗妙典千部云々」、側面は近隣村が納経した記録を手書きで記されていていかにも皆で信仰したという気になる信心塔です。泉集会所をでて西へ県道4号(千葉竜ヶ崎線)に出ます。草深新田のバス停曲がり角を南下せずに西方へ逸れる道をとります
21-2.高堀路傍の道標 
 県道4号を西にそれる角に自然石庚申塔と小さな道標があります。これは明治22年(1890)庚申道標で旧字体で「東なりた、南ちば、西白井東京」となっています。写真を拡大してみてください。右も大正8年(1919)道標で「草深開墾企業二百五十年記念」と読めるでしょうか?21-3.草上コミュニティセンターの子安塔 天王前バス停の集会所敷地に印西大師79番のお堂がありますが、その奥に聖観音と5基の子安塔があります。テキストでは聖観音像を寛文十三年草深地区像容最古と記していますが、個人墓碑でありここでは取り上げません。左から昭和58年、昭和27年、大正9年、明治20年、年不明順に並んだ子安塔の整列です。右端が墓碑の聖観音像です。石仏の前にY字形の塔婆がふたつ立ててあります。前にも記したものですが「犬卒塔婆」と呼ばれ「犬供養」で行われるものです。「犬」は安産のキーワードと関連しますね。詳しく知りたい方は事典を引いてみてください。21-4.ランドローム(食品スーパー)裏の二十三夜塔 
 テキストではこの場所を「弁天前路傍」と表示してありますが、今は影も形もないので食品スーパー裏と表示してみました。 天王前信号を西進して約1kmでランドロームという食品スーパーが右手にあります。入口の駐車場に7基の石仏が並んでいます。左端は台の下にあるので見難いですが昭和6年馬頭観音文字塔、昭和26年子安塔、寛保元年勢至菩薩?、大正2年勢至菩薩、明治11年二十三夜塔、明治24年厳島神社、不明石祠が並んでいます。このうち明治11年二十三夜塔は道標で側面に「北 大もり・・西 しろゐ・・」などと読めます。尚、寛保元年勢至菩薩に?をつけたのは読みきれずにテキストを引き写したためです。参考までにこんな石仏です。 21-5.内川青年館の庚申塔 
 ランドローム(食品スーパー)の三叉路を左折し500m西進した信号角に内川青年館があります。三角形の駐車場の縁に10基の庚申塔・馬頭観音が並んでいます。左から明治23年文字庚申塔、天保十三年(1832)猿田彦大神、宝暦八年(1758)ショケラ持青面金剛、宝永七年(1710)合掌六臂青面金剛、年不明十九夜塔、明治10年剥落不明塔、残り4基は明治38年、大正5年、明治6年、昭和23年の馬頭観音文字塔です。こんな感じで塔形が様々です。そしてこの塔列の左端はずれに背の低い道標が立っています。「北 古新田 別所道」「西 泉 六軒道」「東 仲草深・・」「南 結縁寺 舟尾」などが読み取れます。最近、道標に出会うことが多くなりました。どの辺の道に立っていたのかなと気になり、つい読み込みに気を取られます。内川青年館前で左手草深小学校へ道をとり約700mで左手高台に丸山観音堂・側集会所・印西大師79番にたどり着きます。 
  21-6.丸山観音堂の石仏 
 道路に面した石段を通り過ぎ次の角を回り込むと参道入口があります。右手の草深小学校グラウンド際に2基の石塔です。左は大乗妙典日本廻国塔で文化五年(1822)備中國で病に倒れた人の供養塔のようです。側面の書き込みはそういうようなことかな?右は阿弥陀如来が弥陀定印を結ぶ享和三年(1803)日本廻国塔です。ここで廻國塔とは何かということですが、「大乗妙典と呼ばれる法華経をわが国六十六箇所の霊場に保存する目的で六十六部つくり、それを一部ずつ霊場に納める目的で国々を回ったり、廻っていることを銘文にした塔」と日本石仏事典に出ています。何年かかかる間にはこのように病に倒れる人も多くその供養で建てられることも多いようです。参考までにその廻國する姿を現した有名な珍しい石仏があるので載せておきます。大乗妙典を入れた笈を背負った遊行聖姿で六十六部とも呼ばれました。正徳四年(1714)造立で柏市高柳区民会館敷地にあります。さて、丸山観音堂へ進んでいくと右手には8基並んでいます。左から文政六年(1823)文学碑?、明治4年・明治30年出羽三山塔、大正2年子安塔、慶応元年(1865)馬頭観音塔、明治15年子安塔、?保二年子安塔、明治33年正観世音塔です。左から4基目の子安塔です。このように乳房をリアルに造る子安塔もよく見かけます。赤子の手が片方の乳房をつかんでいるのも面白い図像です。この右隣の馬頭観音塔も三面八臂でなかなか立派なものです。テキストの「三面六臂」は誤植でしょう。この石仏と反対側に7基の石仏と奥に見えるのは四国巡拝の自然石碑です。左から天明元年(1781)青面金剛王文字塔、明治15年・文久三年(1863)文字庚申塔、不明石塔、元文元年(1736)青面金剛塔、不明石塔、天明三年(1783)不動明王文字塔(道標)となっています。上の写真左は通称「六角庚申」と呼ばれ台石が六角形の道標となっていて極めて珍しいものです。これは右端の天明三年不動明王石塔ですが、「従是 なりた・・」「従是 ふさ村・・」などの表示があり道標と分かりました。尚、奥の四国巡拝塔には33箇寺の主尊が線彫りされています、何だろう? 21-7.側集会所の九十体大師堂 
 観音堂の敷地に隣接して側集会所があります。その敷地に納屋のような太子堂があります。引き戸を開けて入ると一気にお大師様ワールドが眼前に広がります。90体のお大師さまが勢ぞろいされています。89番は慶応元年、90番は平成元年の造立ですから実に124年振りのお大師様登場です。台石に刻まれた寄進者のお国も各地に及び、広く信仰されてきたことが分かります。今回はここまでとしましょう。