2009/02/07

23.北総石仏 白井Ⅰ

今回から白井市内の石仏巡りを始めます。白井市は千葉県の北西部にあります。周りに柏市・鎌ケ谷市・船橋市・印西市に囲まれ手賀沼にも接しています。江戸時代から中野牧と印西牧に囲まれた白井宿が中心となってきましたが、現在では北総鉄道沿いに千葉ニュータウンが拓かれその西部地区として発展しています。しかし、ニュータウンから離れると本来の農村地区として豊かな石造文化財が遺されています。地名も「木」「根」「中」など開拓を思わせるシンプルなものから「神々廻=ししば」などという豊かな民俗を思わせるものまであって期待が膨らみます。 白井市には歓喜天という全国でも稀な石仏もありますよ。団塊の皆さん、野に出ましょ! 23-1.大松(おおまつ)入口の孝心道標 北総鉄道西白井駅から県道191号沿いに500mほど南下します。西白井消防署を過ぎ変則四叉路の信号があります。ここが大松入口です。この信号で衣料チェーン「しまむら」のある鋭角方向に右折道をとります。角の三角州のような場所の郵便ポストの側に不思議な石棒が建っています。これは明治26年(1893)の道標です。「南 鎌ケ谷驛ヱ壱里」「旧七次」「孝心」などと刻まれています。不二道孝心講という「ふたつなき孝心」思想を同じくする人々の講中で建てた道標です。孝心講中では土木作業など生活改善実行運動を実践したようです。孝心講については房総石造文化財研究会の「房総の石仏18号」に会長が関係論文を発表されています。 23-2.大松入口の庚申塔 先を急ぐと左手に衣料チェーン「しまむら」があります。駐車場に隣接する民家の角に2基の庚申塔があります。移設されたために余地のない設置がされていて窮屈そうです。向かって右手が文化四年(1807)、左が文久元年(1861)の「青面金剛王」文字塔でです。右手道路側庚申塔の下の三猿に注目しましょう。宝冠をかぶった猿の面白いデザインです。こういうのを見つけるのも庚申塔を見る楽しみの一つです。 23-3.中木戸・諏訪神社の庚申塔群 ここから鉄道を越えて約1.5Km北上します。循環バスなら白井幼稚園前停留所の右手にうっそうとした諏訪神社があります。風間街道に面した小さな鳥居を抜けると薄暗い境内参道右手に下の写真のように9基の庚申塔・二十三夜塔・石祠などが並んでいます。又、左手にも2列にわたって出羽三山塔・二十三夜塔・庚申塔など15基の石造物です。興味あるものを見てみましょう。 右列奥から3番目の文化八年(1811)出羽三山文字塔ですが、「三山講中」と表示も珍しいし火炎を請台とする斬新なマークも新鮮です。 次は文政三年(1820)ショケラ持青面金剛塔です。赤地にうき浮き彫りも深く優品と思います。足元の三猿も面白い仕草でしょう。 右列の奥には元禄十一年(1698)勢至菩薩主尊の二十三夜塔があります。隣は貞享元年(1744)文字庚申塔ですが下部は三猿でなくて未敷蓮華であることが注意を引きます。私は初見でした。 参道の左手前列は出羽三山塔が並んでいます。その一番手前は文化八年(1811)大日如来碑が講中十四人で造立されています。前回の大日塚で述べましたが出羽三山の湯殿山主尊は大日如来なんですね。だから、文字で出羽三山と刻まなくても当時の人には当然三山信仰の碑と理解されたわけでしょう。次に昭和の出羽三山塔が昭和48年・33年と並び次に昭和42年・4年の伊勢参拝碑が並んでいます。 後ろの列も明和三年(1766)合掌青面金剛塔など石仏7基、面白いですよ。 23-4.中木戸・浅間様の庚申塔 諏訪神社の入口右は富士講による浅間神社が勧請され浅間様とよばれています。そして入口となる鳥居の右手にに2基の庚申塔・出羽三山塔と不明石祠が並んでいます。左から2番目文政九年(1826)文字青面金剛塔の猿はちょっと変わったポーズです。真中の猿は扇で「言わざる」ですが、左の猿は?左端の享保二年(1717)合掌青面金剛塔の三猿は「言わ猿」が最下段右端にいる変形ポーズです。23-5.中木戸・観音堂の馬頭観音 諏訪神社と道路を隔てて北に観音堂があります。門柱には来迎寺と書かれていますが、中木戸観音堂と呼ばれているようです。印西大師13番などお堂があります。入口門柱の先に石仏が転がっているように無造作に置かれています。写真左から元文四年(1739)十九夜塔、中央は明和七年(1770)地藏菩薩、右は大正6年(1917)子安観音です。これは寛政七年(1796)馬頭観音です。小さいけれど力強さが伝わってきて如何にもご利益ありそうで僕は好きですね。他にもこれらの石仏の後ろの木陰で興味深いものを発見しました。庭石と見えたものが自然石の馬頭観音だったんですね。明治38年(1905)造立です。石造物調査報告書記載の明治37年塔と別に発見したものですが調査時にもれたものでしょうか? 23-6.風間街道カーブの庚申塔 観音堂前の風間街道を700mほど北上すると左にカーブするところにお好み焼き飲食店があります。その中庭とも見える所大樹の下に、小さな道標と庚申塔が建っています。左の道標は造立年不詳ですが、右側面「折立道」左側面「富塚道」裏面「富塚機屋 川上・・」とあります。機屋の川上さんが建てた道標ですが風間街道の道路反対側にあったようです。右の青面金剛塔はショケラが合掌し邪鬼も上向き、三猿もぷっくりとし像全体に大らかさが漂っています。北総の豊かなイメージがあっていいなあと私は思います。 23-7.荒口利・金毘羅神社の普賢菩薩 風間街道を更に300m北上し、循環バス松屋商店前停留所の先左手に金毘羅神社跡が見えます。無残な暗いイメージより、日当たりも良くのんびりしたイメージと思えるのは地元びいきでしょうか。山上取り崩された金毘羅石祠は天保三年(1832)と読めたのですが、石造物調査では文久三年(1863)となっています。次の機会があれば確認しておきます。 手前左端は明治44年普門品一万巻供養塔です。階段右は安政四年(1857)二十三夜塔、天保十五年(1844)・天保三年(1832)の普賢菩薩像です。普賢菩薩像は独尊としては数が少なく、本例のように荒れている像容でははっきりとした特徴を確認が出来ません。白象に乗る・五鈷杵を持つ・左手蓮華右手与願印・種子はアンなどなどですが、この像でどうやって識別できるのかな? こちらでは普門品講が盛んで石仏造立もこの講中によるものが散見されます。