2009/12/25

61北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅶ(泉)

前回の伊津美神社から道なりに200mほど進めば龍泉院の参道が右手に現れ、西へ150mで龍泉院の山門と駐車場があります。

61-1龍泉院の石仏
古記録では建長五年(1253)開闢、天文年間(1532~55)量指長栄和尚開山と伝わる曹洞宗寺院です。当地伝右衛門家に酒気を含む泉が湧く所、天竜が小型に変化して入水したのを長栄和尚が目撃、泉水を掬って帰山・読経供養して霊宝としました。この故をもって「天徳山龍泉院」と号したとガイドには書かれています。
山門の前に文政五年(1822)結界石が右に立っています。正面写真左は嘉永三年(1850)普門品拾萬巻供養塔です。境内に入ると左にちょっとした休憩できる石造ベンチとテーブルがあります。その奥に石碑・石仏・石造物が生垣沿いに並んでいます。全18基ありますが、4基ばかり墓標も混じっているようです。右端の石仏はこんな感じで並んでいます。いずれも十九夜塔となっています。写真左隅の石塔半身は慶応三年(1867)文字十九夜塔、嘉永四年(1851)十九夜如意輪観音塔、小さな寛政十二年(1800)文字十九夜塔、宝暦九年(1759)と宝永三年(1706)の十九夜如意輪観音塔となっています。珍しいのは右端の阿弥陀如来の延宝七年(1679)十九夜塔です。大指と頭指を捻じた来迎相阿弥陀如来像です。早い時期の十九夜塔に見られるように「奉造立十九夜念佛」と印されています。そのほかこの石仏の並びでは文字塔の天明八年(1788)善光寺如来百万遍供養塔が近隣の金山・名内・大嶋田・岩井・松戸村などの講中で造立されています。あまり見かけないものです。その並びで唐破風型笠石の馬頭観音塔があります。宝馬を頂いた文久元年(1861)武州上岡(写し)の馬頭観音文字塔です。関東三大観音のひとつ現東松山市の妙安寺の馬頭観音を写し祀ったもので、幕末から明治にかけて北総で時々見かけることがあります。左端のほうには立派な筆子塔が明治28年と大正12年に造立されています。「筆子中」「普門品門人」と台石に読めますね。妙感という比丘尼を祀った線彫碑が明治21年に造立されています。享保十五年(1730)没のようです。テキストには※俗称「おかん婆さん」の供養塔と注記があるのですが、何じゃらほい?
追記(沼南風土記より抜粋引用)
おかん婆さんは寛文年間(1661~1673)紀州塩津生まれで、晩年泉村に住み着くようになりました。ところが、何の事情からか泉村人から「おかんばば あ」と罵られ虐待を受けるようになりました。ところが一方で隣村鷲野谷村の人々からは常に厚遇をうけていました。このため、おかん婆さんは「泉村人が蔵を 建てたら皆焼いてやる」と呪いの言葉を残して死んだそうです。その後、泉村では新しい倉が建つたびに火災にあうということが続いたそうです。そこで崇りを 鎮めるために地蔵を建てて供養したそうです。火災はなくなったそうですが地蔵はいつか破損してしまったと言われます。明治21年泉村有志が写真の碑をたて ておかん婆さんの戒名を刻んで供養したという経緯だそうです。
この寺で有名なのは本堂手前左の観音堂に祀られている天保十年(1839)百観音石仏です。武州六阿弥陀塔などもあわせて計115体が祀られているようですが、いつか拝観をお願いすることして今回は写真の解説板で我慢することにしましょう。他にも嘉永三年(1850)の立派な納経塔や境内右は大師塔など記念碑が満載のお寺ですね。尚、テキスト沼南町史には龍泉院墓地で烏八臼(うはっきゅう)の調査資料が載っていますが、信人は興味が無いので載せません。

61-2龍泉院裏の馬頭観音
テキスト(沼南町史)では龍泉院墓地に馬頭観音群の記載があったのですが、探し回っても見つけられませんでした。再チャレンジで整地場所に移設されたのを見つけたの独立して載せておきましょう。位置は本堂の北西で寺の北側通路を西へ林の中に入ったところに並んでいます。手前に昭和55年の馬頭観音塔、その先に13基の馬頭観音塔です。いずれも文字塔ですが宝馬を持つものが4基ありました。造立年を載せておきます。文化四年(1807)・年不詳・昭和48年・23年・11年・5年・明治29年・37年・22年・21年・5年・慶応3年(1867)・天明八年(1788)の順に並んでいます。明治22年は馬頭2頭・明治21年は馬頭1頭を頂いています。右端の天明八年は碑面から読めないので沼南町史から転記しています。「南無大悲馬頭観世音」とは珍しい碑面ですが、庚申塔のように日蓮系に関わりあるものでしょうか不思議?

61-3石尊さまの一字一石塔
龍泉院の参道を戻り金谷方向へ南下すること50mで不動明王石塔と残欠のある空き地を右手に見出します。ここは昔は大杉のある小さな祠堂があり石尊さまと呼ばれていたようです。今は荒地に年不詳の不動明王石塔(写真右の石仏)と年不明石尊祠(写真大木の根元)およびその残欠らしきものが置かれています。この空き地の隅に立派な文久三年(1863)「法華経一部一字一石供養塔」が置かれています。台石に刻まれた世話人には数奇屋町・築地・神田・柏木淀橋など江戸の商人名が入っています。鮮魚街道の例にあるように手賀沼の川魚商関係で建立されたものか、この地に縁のあるものか、台石の古川氏の関係者か設立経緯が気になるところです。
尚、一字一石塔は経文を石1個に1字ずつ写経して埋納供養するものです。日本石仏事典第二版262pに「本来の写経は紙または布に書写するものであるが・・・地に埋めて釈迦滅後五十六億七千万年後に衆生救済の弥勒菩薩出現に備える埋経の思想から・・・経文を石または瓦に記す風習が生まれ・・・そのうちでも小石を集めこれに一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てる風習がありこの塔が一字一石塔である」と記載があります。

61-4泉の庚申塔群
先ほどの石尊さまから南下すること200mで15基の庚申塔が並び後ろに大きな杉の木のある分岐に出会います。藤ケ谷CCに向かう道路と金山への道路が分かれるY字路の場所で泉地区と金山地区の境になります。左のほうの7基は山神塔などで右に15基の庚申塔が年代順に並んでいます。ではまず、右の庚申塔群で特徴あるものを載せておきましょう。
平成15年9年昭和54年の
戦後現代版庚申塔です
昭和10年から右端正徳
元年(1711)まで
古い正徳元年塔
明和五年・二童子二鶏付
延享三年・享保十五年
アーモンドヘッド
天保八年塔・裏面文言に
伐木不可文言
文久元年(1861)三猿
文政十三年(1830)三猿
二童子付の豪華なものやアーモンドヘッド型の頭部を有する同じ造形の青面金剛塔が隣あったりしています。小さな天保八年(1837)文字庚申塔の裏面には きわめて興味深い文言が刻まれています。「右者龍泉院廿五葉代庚申除地之内松杦檜合二十本、代金一两ニ而御拂以成候処庚申待ヲ以買留候ニ付當院住僧末々マ テ不可伐木ヲ 施主 諸善男子」=共有地(除け地)の樹木払い下げを庚申講で拠出して買留めとしたので、後々まで坊主は木を伐るなとのことです。面白いで しょう。
これだけの庚申塔が立てられるのは厚い信仰によるものですが、文久元年塔は講員70名、昭和10年塔で講員78名、平成15年塔でも43名にわたる講員が名を連ね石塔に刻まれています。立派。
次に左の7基の石塔です。特徴あるものを載せておきます。
7基の石塔
明治17年山神塔台石
大正十年塔・泉種付所
道標も兼ねています
馬頭付馬頭観音塔
太子社塔
右から文化四年(1807)山神塔で「右江戸道 左金山かち道」と道標になっています。次が明治17年の山神塔です。台石に杣職中(そましょく)と刻まれています。こんな開けたところでも明治期まで杣職人(木こり)がいたとは驚きです。次が明治1?年大乗妙典行者?塔です。右?・左木下?と道標もかねています。次の大正十年馬頭観世音塔も面白いですね。種牝馬・駿山号の供養で泉種付所が設立したのでしょうか?「右塚崎松戸道 左金山舩橋道」の道標でもあります。種付所が存在していた牧場があったのでしょうか?
馬頭2頭がついたのは大正15年馬頭観世音塔で隣は昭和1?年馬頭観世音塔です。左端は明治41年太子社の表示がある(聖徳)太子塔ですが「社」付は初見です。この塔は「右まつと 左金山」と道標になっているようですが私には読めませんでした。

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2009/12/13

60北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅵ(泉)

泉地区は東が柳戸・南に白井市今井地区・北に鷲野谷手賀沼に接し、古文書から見てその成立が鎌倉前期にまで遡ることができる出来る古い地区のようです。至るところ湧き水が見られるところから泉と呼ばれるようになったのでしょうか、泉地区の鎮守は「伊津美神社」の額がかかっています。既出の11印西永治Ⅲで述べた印西市和泉(いずみ)地区は「小倉いずみ」と呼ばれ、こちらの地区は「相馬いずみ」と呼んで区別されたようです。

60-1鳥見神社(伊津美神社)の石仏
県道282号印西柏線で手賀郵便局を過ぎ明治牛乳沼南販売所で南方へ村道を進めば泉青年館が隣接する鳥見神社となります。こちらは鳥見・香取・春日の三社を祀っています。安永九年(1780)の明神鳥居には「伊津美/鳥見神社」と併記された額が掛かって、泉の地名との関わりが窺えますが鳥見神社でもあって、ちょっと戸惑います。境内に大型の石造物はそれほど多くありませんが小さな石祠がとりどりに幾種類かあるので載せておきます。境内の左側にコンクリートで基壇をつくりその上に石祠や石塔と金精様というのでしょうか石神石棒が置かれています。左から不明石祠、文久二年(1862)秋葉山祠=火防せの神、天保二年(1831)石神大明神=この場合は生産の神、そし金精様・石神=男根型の石棒・木棒が置かれています。屋外に露出しておいてあるのは珍しいですね。今時は社内で目立たないように置かれているものが多いのですが。少し離れて安政八年(1859)大杉神社=疫病・疱瘡除け、文久二年金比羅宮=通常は海上交通の守り神、文久二年弁財天石祠=通常は技芸神の三基の石祠です。参道を挟んで向かいには同じく文久二年笠石唐破風屋根の駒形宮=馬の守護神で岩手県水沢市の式内社駒形神社信仰塔も置かれています。他に天神宮・雷神石祠もあるようです。江戸時代末期の農村の鎮守に様々な信仰記念物がひしめいている姿から当時の様子がしのばれます。

60-2泉の大日様の勝軍地蔵
先ほどの県道282号印西柏線の北側へ戻ると北上してすぐに二股に分かれます。この二股が塚状になっていてここが大日様となっています。潅木に囲まれていて道路側からは塚になっていることは全く分かりません。三角州状の塚の北口が正面階段になっていて、そこから入ると写真のように左手に出羽三山碑が2基並んでいます。文政六年(1823)駒形の湯殿山主尊で頭部に胎蔵界大日如来の種子アーンクを刻しています。右は明治34年自然石型で新しいから月山主尊ですね。階段正面から見ると奥に石碑2基と前に3体の石仏が並んでいます。写真後列左が文化十二年(1815)六字名号塔で上郷下郷村々講中一蓮托生と刻まれ15村300人余で建立されています。後列右は昭和54年月山主尊出羽三山供養塔です。前列に並ぶのが左に年不明(江戸末期カとテキスト記載)丸彫りの勝軍地蔵です。Wikiでは道祖神と習合した地蔵となっています。日本石仏事典では火伏神となって少しニュアンスが違います。左手宝珠持ちで惜しいことに右手の槍は無いのですが北総で丸彫りの勝軍地蔵を見ることができるのは大変貴重なものです。「房総の石仏百選」では馬乗り馬頭観音のような佐原市大倉の石像を掲載していますが、私はこちらのほうがやんちゃ坊主のようで好きですね。中央が明和六年(1769)胎蔵界大日菩薩です。実はなんか変だなあと思っていたのですが、これをブログに載せようとしてハタと気がつきました。この大日菩薩は弥陀定印を結んでいる不思議な大日さんなんですね。両手の人差し指を折り曲げて合わせる印を結んでいます。胎蔵界大日如来は悟りの世界を表す法界定印(両手の親指の先を合わせ他の指を伸ばす印相)を結ぶ筈なんですけど、阿弥陀如来の印相を結んでいます。この仏は本当に大日さん?と疑われるなら、背中に「私は大日如来です」と刻まれているのでご覧ください。
右端の年不詳大日如来も載せておきます。こちらはお約束の法界定印ですね。尚、訪問される場合は雑草などの冬枯れ2月~3月頃の時期をお勧めします。

60-3二十三夜堂(三夜さま)
大日様の分岐から県道を西に150m進むと手賀西小学校への道となる信号のある交差点です。交差点を北へ小学校への道を400mほど進むと下り坂のT字路になります。この角が通称三夜さまと呼ばれる(二十)三夜堂です。元は吉祥院と呼ばれた真言宗寺院でしたが明治18年小学校創設の際にお寺の本堂を改修使用され、以降寺院機能はなくなったようです。この三夜堂だけが小学校(現在の手賀西小学校)隣に移設されて今日に至っています。写真右の道路際大きな石柱は文化五年(1808)新四国七十番泉村吉祥院と刻まれた札所石です。元のお堂は文化年間(1804~1818)造営で本尊は聖観世音だそうです。堂の左奥に年不明・二十三夜塔がすえられています。この塔は泉地区字三夜という田んぼから出土した古塔で出土にちなんでこの字名がつけられたようです。
三夜堂の角から小学校正門前へ右折100mほど進むと校門と道を挟んだ小高い場所におせし様板碑が祭られています。

60-4おせし様板碑
大木の下に「おせし様板碑」がひっそりとたたずんでいます。はい、板碑です。Wikipediaで板碑を見ておきましょう。こちらは緑泥片岩で出来た武蔵型板碑です。北総地区は武蔵型板碑と下総型板碑の併存地帯です。沼南には武蔵型板碑が約380基に対し下総型板碑は数基と偏在しているようです。下総型板碑は筑波産黒雲母片で出来ていて結構分厚い板碑ですが、大井地区の「阿弥陀さま板碑」でご紹介しましょう。おせし様板碑は大木の根元にお参りの踏み石があってその先にコモを被って祀られています。コモを外してじっくり拝観してみると、室町時代末期の簡略形の図案ですが典型的な武蔵型板碑と思われます。天文四年(1535)庚申待供養で二郎四郎、源五郎さんなどが建立しています。天蓋の下、月輪の中に釈迦如来の種子バクを刻み蓮台の上に載せています。敷布を掛けた三具足には中央に香炉・右に燭台・左に花瓶(けびょう)が置かれています。板碑のテキストに載っている通りですね。”おせしさま”は”勢至菩薩”のことなので、種子=釈迦如来なのに勢至菩薩とどういうことかと、「沼南風土記」ではその経緯に触れています。つまり、先ほどの二十三夜堂は元はこの板碑のあたりにあって、二十三夜講の本尊は勢至菩薩であることに由来すると述べていますね。
この項を書いた後で確認の為、10ヶ月ぶりに現地確認をしたところ上の写真のとおり立派な解説板が設置されていました。

60-5妙見社の庚申代石
妙見社は字中城という戦国時代の城址に位置します。三夜堂から南側の坂を登って右折したところに位置します。稲荷社の横、石段を上がると粗末な拝殿の後ろに写真のような本殿が隠れています。テキストによると永正九年(1512)建立の由緒ある神社で、安政四年(1857)京都白河殿へ「相馬神社」の社号申請をしたようですが相馬郡の総社と間違われるとして「北斗」の二字をつけて「相馬北斗大神社」の社号を受けています。明治43年妙見社は先ほどの鳥見神社に合祀されて本殿もそっくり移転してしまいました。その時の「遺跡碑」が本殿の横、写真のように立てられています。でも、その後凶事が続いたことから妙見大明神が旧跡に帰りたがっていると感得して、昭和9年にもとのこの地にささやかな本殿をつくり祭神を祀ることになって戻ってきた次第です。調べてみると結構曲折があって面白いものですね。ついでに「遺跡碑」横にある「庚申代石」というのも見てみましょう。碑面を読むと「享保十五年(1730)、村の庚申講で妙見社の神木松ノ木を買って寄付したので今後住み込む僧は切るべからず、吉祥院住僧」と理解したのですが如何。昔は神仏習合で庵や社に僧が住んでいても不思議ではありませんからありえたのでしょう。尚、妙見社は妙見菩薩との関わりで理解することになるのでWikipediaを参考にしてください。
今回はここまでとしましょう。次回は泉地区で県道印西・柏線の南側を歩きます。

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