2010/04/30

74北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(高柳Ⅱ)

74-1三角洲の庚申塔
地番は高柳1396-1と表示されるようですが、みなみ高柳幼稚園前の道を西進した三叉路の中洲に庚申 塔が祀られています。高柳地区高友会の赤い幟が目印になりますね。こちらには4基の青面金剛塔と傍らに道祖神が祀られています。右から元禄十年(1697)・宝永四年(1707)・享保七年(1722)・昭和61年の現代版庚申塔です。右端の元禄塔は横田甲一氏が東葛飾地方の「二手青面金剛塔」を発表されたリスト中の把手型・元禄十年・沼南町高柳三叉路と表示された1基です。頭巾姿の特徴ある石仏です。庚申塔の後ろは碑文を明示する標札が立っていてご先祖様の名前を確認し易くなっていて地元に根付いた信仰(民俗)を感じさせます。傍らの宝暦六年(1756)道祖神は「道路神」と刻まれていて変わっています。

74-2第一分団貯水槽脇の勢至菩薩
この三角州の向かい道路際が貯水槽です。覆い屋の中におられるのが元禄八年(1695)合掌の勢至菩薩立像です。頭部に種子サクを頂「奉造立大勢至菩薩一宇所願成弁之収攸」と刻まれています。「観無量寿経」の説くところでは宝冠に宝瓶を刻み合掌姿、「金剛恐怖集会観自在菩薩明王経」では蓮華をとる二臂像が示され、「陀羅尼集経」では持物なしの二臂像であると日本石仏事典に載っています。写真の像は「観無量寿経」の儀軌に基づくものでしょうか。寄り添った文化元年((1804)廿三夜供養塔は極小型のわらじ形彫り込みで質素なものです。

74-3サイクルショップ・RAMBLE信号脇の庚申塔(高柳1422番地先)
三角洲の分岐を右に100m行くとサイクルショップ・RAMBLEのある信号交差点です。この角に紅い幟の立つ庚申塔が祀られています。グーグル・ストリートビューでも見れますよ。こちらには左から元禄四年(1691)六臂ショケラ持三面青面金剛塔、元禄十年(1697)二手合掌青面金剛塔、宝永三年(1706)延命地蔵塔が並んでいます。
左の元禄四年塔の三面は珍しく、足許の三猿も弱っちい猿ですね。真中の元禄十年塔は先に述べた横田甲一氏の東葛飾地区の二手青面金剛塔の初発塔で藤庚申として挙げられて いるものです。特徴的ですね。
74-4高柳区民会館の六部塔
信号を西へ150mで墓地に隣接した区民会館があります。道路沿いの一角に大師堂といくつかの石仏が置かれています。こちらに有名な六十六部の行脚姿を彫り込んだ回国塔が祀られています。「大乗妙典を六十六部書写し全国の霊場を回国して納経供養した記念の納経塔である云々」と日本石仏図典・回国塔P56に記載あるのがこちらの正徳四年(1714)六部塔です。笈を負う像塔は珍しいですよ。他にも丸彫り地蔵は寛政十二年(1800)・文化十三年(1816)馬頭観音像などが並んでいます。

74-5原堂墓地そば交差点近くの大日塔(高柳1661)
位置表示が難しいのですが、先ほどの区民会館の交差点を過ぎた右側(A家の地番高柳1661)に立派な覆い屋があります。4基の石仏が道路に向かって並んでいます。左から明治14年山神塔です。文字の表示はありませんが、まさかりを持った山の神立像は初見です。隣は文政十一年(1828)山神宮です。1mを超す大きな像は延宝三年(1675)智拳印を結んだ金剛界大日像です。調べて判ったのですが、頭部の種子はバーンクでなくて胎蔵界大日のアーンクを刻んでいます。石工の手違いがあったようです。右端は年不明の可愛らしい神明霊神碑です。神明=天照大神、豊受大神を主祭神とする社を意味します。うろ覚えですが、修験道で行者が入定すると霊神碑を建てるとかなにかそんな解説を読んだ気がします。

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2010/04/23

73北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(高柳Ⅰ)

藤ケ谷の西隣が高柳地区になります。東武野田線の高柳駅もあって住宅地のイメージが強いですが、北部はまだまだ農村部が広がって石仏信仰も残っているようです。話は飛びますが、最近Google Earthのストリートビューが国道16号線の内側をカバーしていることを発見しました。ストリートビューで石仏を探し出すことも出来るので、使える方は一度チャレンジされることをお勧めします。高柳老人クラブでは庚申塔に紅い幟を付けていて見付け易くなっています。このブログの大きなGoogle地図からも使えるので一度試してみるのも面白いですね。
高柳地区は石仏の密度と種類が濃くてなかなか楽しい所です。

73-1徳本念仏塔と馬頭観音
高柳地区の最北部で塚崎地区神明社と向かい合う位置に旧称「とくほん」と呼ばれる一画があります。この地に立派な覆屋に堂々とした4基の石塔が並んで祀られています。右から明治29年弘法大師供養塔、文化十五年((1818)徳本念仏塔、文政十二年(1829)光明真言塔、年不詳弘法大師供養塔建設碑となっています。徳本行者はこのブログでも白井地区や鷲野谷地区・医王寺でも既出ですが、Wikioediaで再確認しておきましょう。写真でも徳本の丸に十字の花押が見えています。独特の「南無阿弥陀仏」はおなじみですね。面白いのは石塔裏面も裏返しの字(左字)が刻まれていることですが初見ですね。徳本上人は文化十二年二月~三月と文化十四年七月~十月にかけて下総~銚子まで順錫していますが、この地の徳本塔は2回目の時に順化されたもののようです。このときの道中は江戸~銚子の鮮魚街道を利用し、松戸→白井→木下河岸→銚子ルートでした。台石に刻まれた村名は高柳・藤ケ谷・佐津間・箕輪・藤心・軽井沢(鎌ケ谷市)・根戸・塚崎・増尾・酒井根・大井・戸張・名戸ヶ谷・柏・呼塚新田・川越新田・篠籠田・長崎・大島田・三ノ輪山・前ヶ崎・高田・半田・増尾新田・西平井・古間木・前ヶ崎・逆井・松ヶ崎の28村200名余りの寄進を請けての建立です。すごい。
右端の大師供養塔と徳本塔の間に小さな丸石が置かれています。うすく「西孝心橋」と読めますが、富士信仰の一派・不二道孝心講が行った土木工事(佐津間落し=大井川に架橋)の標識石であるそうです。

73-2徳本脇の庚申塔と馬頭観音
項目を分けるほどではないのですが、目前に赤い幟がある青面金剛塔が1基と斜面に5基の馬頭観音塔があります。紅い幟はこの地区の庚申塔があるところに付けられているので良い目印になります。高友会という老人クラブの活動によるものでしょう。青面金剛は宝暦五年(1755)の六臂合掌型です。馬頭観音はすべて文字馬頭観音で左から昭和48年・文久二年(1862)・文政五年(1822)・大正五年・年不明となっています。蛇足ですがストリートビューで庚申塔が見えるので下のGoogle mapの大きな地図からお試しください。大きな地図で左上の人型を道路上にドロップすると道端にある石仏が捕らえられます。

73-3善龍寺の石仏
徳本から道なりに約500m村の中に入ると左に善龍寺の参道・駐車場があります。高柳山善龍寺龍正院という天台宗のお寺で元の本寺は、印西市和泉の泉倉寺(既出)です。駐車場には八十八箇所巡拝記念碑・比叡山参拝記念碑などが佇立しています。正徳三年(1713)素朴な六地蔵も祀られています。當寺はもともと東側県道船橋取手線を跨いだ広い境内であったものが、県道で二分された経緯があります。元の伽藍は県道を越えた東側台地に「堂屋敷」と呼ばれて広がっていたそうです。今は県道西側平地に本堂が移転しています。参道から山門を入ると右に御手洗と如意輪観音堂、およびその周りに石塔・石碑・石造物が固まっています。写真は手前2基が大正13年・同15年善光寺参拝記念碑です。手前の石碑は頭部に阿弥陀三尊種子・阿弥陀如来=キリーク・観世音菩薩=サ・勢至菩薩=サクを刻んでいます。奥の碑は明示29年線刻釈迦三尊碑で印土伽耶道場地模(刻)と下に彫られています。不勉強で判らなかったのですが、上の不思議な3体の石像は一体何をあらわしているのでしょうかね?
お寺でよく見る「アビラウンケン」種子は下左の写真の大日報身真言が一般的ですが、このお寺では下右の写真「アバンランカンケン」種子の大日法身真言となっていました。報身や法身はなんじゃという方はWikipediaをご覧ください(私には理解でき×○▲?)
信州上田・前山寺
善龍寺・昭和40年
墓地には彫りの深い寛文十二年(1672)延命地蔵と文政五年(1822)如意輪観音塔などわずかな石仏しか見られませんでした。當寺では文久元年(1861)上野寛永寺住職から頂いた五葉松が市指定天然記念物として保存されています。

73-4福寿院の石祠石塔
善龍寺から直線距離で南西300mの所に沼南幼稚園を併営する真言宗豊山派の福寿院があります。沼南風土記には「当院は檀家を持たず代々、地区の鎮守香取神社の別当を勤め氏子によって支えられてきました」と記述があります。後述の石祠の整列などを見るとなるほど頷けるのではないでしょうか。
当院の境内には正面に茅葺の入母屋破風造りの観音堂がどっしりと構えています。その手前に寛延四年(1751)六地蔵が並んでいます。脇に高柳小学校(明治6年3月開校)風早南部小学校発祥地の石柱が建っています。観音堂の参道脇の築山に矜羯羅童子(こんがらどうし)・制多迦童子(せいたかどうし)を従えた成田山月参講の小さな不動塔も見えています。観音堂の右脇境内に石造物の整列です。右から覆屋に入った嘉永四年(1851)待道大権現、安政五年(1858)「大杉殿」石祠、墓碑と続いています。元禄二年(1689)十九夜塔は比較的古い年代物ですね。となりには補教試補渡来先生の筆子塔も並んでいます。境内手前の二十三夜塔(大正五年)も自然石型ですがすっきりスマートに見えますね。福寿院では昔は正月二日に近在の馬養農家が馬を連れてきてお払いを受けるのが慣例だったと沼南風土記に書かれています。同じく境内に昭和63年設置された大きな動物供養碑(上の写真)はその流れでしょうか?頭部に当院本尊十一面観音の種子キャを刻み、豚を中心に牛・犬・兎・鶏・馬を描いています。当時は養豚が盛んだったのでしょう。
築山を左に進んだ庭園垣根際に明治30年三神塔が置かれていいます。天照皇大神宮・八幡大神宮・春日大神宮と刻まれて当院が香取神社の別当寺だったことを思い起こさせます。

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2010/04/16

72北総石仏 柏・旧沼南町の石仏ⅩⅤ(藤ケ谷新田)

藤ケ谷の北西に藤ケ谷新田があり、中央部を右下から左上に国道16号線が横切っています。

72-1熊野神社の石仏
地区中央部国道16号の藤ケ谷新田交差点を西方へ200m進むと道路右側に享保年間(1716~36)に創建された熊野・天神両社が鎮座しています。平成2年のコンクリート明神鳥居の先の参道に石造物のオンパレードです。右側に10基の石仏です。右から正徳二年(1712)駒形文字庚申塔、上部欠失の明治2年文字千手観音塔、不明石祠2基、文化二年(1805)馬頭観音塔、元禄十二年(1699)十九夜念仏塔は結構古いもの、享和二年(1802)文字青面金剛塔、不明塔、明治22年山神宮、享和三年(1803)三社大権現塔となっています。続きは覆屋に年不明の子安観音塔(ちょっと暗いですね)、文化八年(1811)疱瘡神石祠等々が整列です。参道左手は石祠が3基・3基に並びます。左から文政四年(1821)足尾山塔・嘉永四年(1851)神明宮・荒神宮で残りの3基切妻唐破風石祠は不明祠です。
隣の広場も境界沿いに文政六年(1823)・大正2年出羽三山塔や光明真言塔が並んでいます。右端は大東亜戦争戦没者慰霊塔です。村落の鎮守・菩提寺にある大きな石塔は大概戦没者紀念碑になっていて戦争の及ぼした被害の酷さを物語っています。この写真左手のブロック塀に馬頭観音塔がありいずれも明治6基・昭和2基と新しいものです。72-2藤ケ谷新田49番地・庚申道標と成田道標
国道16号藤ケ谷新田交差点から北方400mでガーデン藤ケ谷ゴルフレンジのある三叉路です。この三叉路の分岐に小さな2基の石塔があります。左が文政四年(1821)庚申講の表示がある石塔で、左側面「わか志らが いづみ 道」右側面「なりた かね山 道」と「道」がくずし字で書かれています。右の石塔は上部に不動明王像を頂いた「成田月参講中」の成田道標です。右側面は「奈里多道」となっています。以前は別々の場所にあったようですが、道路整備でツーショットとなったみたいですね。

72-3みよしろ(宮後)大仏
庚申道標の三叉路を左にとって200m進んだ藤ケ谷CCの交差点南西角地の雑木林に座高60cmばかりの丸彫石仏が祀られています。露座で傷みが激しく相貌もしかとは判りませんが、印相から定印を結んだ阿弥陀像であるようです。「みよしろ=宮後」は藤ケ谷新田の俗称で寛政二年(1790)地元荒木氏が建立した故人の供養塔であるとガイドブック「沼南の歴史をあるく」の記載されています。暗い雑木林に紅い前掛けと帽子が寂しそうでした。

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2010/04/09

71北総石仏 柏・旧沼南町の石仏ⅩⅤ(藤ケ谷2)

板碑は石仏ジャンルの主要分野なので前回の記述に補足しておきます。
70-1香取神社の板碑補足(沼南風土記より引用)

左写真の十三仏板碑はWikipediaから分かるとおり死者供養で初七日から三十三回忌まで不動明王から虚空蔵まで各忌日に配合した信仰です。胎蔵界大日を主尊に種子を下から上へ配列しています。板碑は不動明王・釈迦・文殊を欠いています。中央の二十一仏板碑はの二十一仏は最澄が比叡山の守護神と祀った上・中・下社各七社の総称で山王権現ともいわれます。山王社の使い猿が庚申信仰と結びついています。板碑は種子バクを上に頂き5行4列の種子が刻まれ、下部に「奉庚申待供養」とあります。右端の阿弥陀来迎板碑は写真では判読できませんが天蓋の下に放光阿弥陀三尊が端雲に乗って来迎する姿を画いて三具足・前机が揃っているそうです。中央下部に「庚申待供養」の文字もあるそうですよ。

さて今回は国道16号線で分断された南地区を回りますが、この地区ではなんと言っても鮮魚街道(通称なまみち)の常夜燈と呼ばれる石造物が一番の有名文化財です。
71-1鮮魚街道常夜燈
鮮魚街道とは江戸時代~明治中頃にかけて銚子で獲れた魚介類を日本橋魚市場に運ぶ舟運荷駄ルートを指します。簡単な説明は写真の解説板をご覧ください。いくつかルートの変遷はありましたが、銚子~木下(きおろし)河岸~発作(はっさく・印西市)~布佐河岸(我孫子市)~(手賀沼)~船戸(白井市)~富塚(白井市)~藤ケ谷・台町~金ケ作(松戸市)~日暮・松戸新田・陣ヶ前(松戸市)~松戸の河岸~江戸日本橋魚河岸へ3日かかる行程です。常夜燈のある台町は木下と松戸の中間点にあって昼夜兼行の輸送路で大事な中継ぎ所だったようです。解説には刻字内容が縷々書かれていますが、石の痛みや彫りの浅さなどで常夜燈からはほとんど読み取れません。「天照皇太宮・金刀比羅大神」と刻まれているらしいのですが。

71-2成田道・道標
鮮魚街道はこのように整備されているので、一般の人は成田参りに使用する道でもありました。そのため、成田道として(成田山)不動明王
の標石が点々と残っていたりします。白井の鳥見神社で紹介したイ富塚の不動明王道標(安政五年1856)を再掲しておきます。この道標を西に進むとセブンイレブン裏にロ藤ケ谷台町の不動明王道標(文化十五年1818)がぽつんと残っています。常夜燈をさらに進めは自衛隊正門前をすぎて右の芝生斜面に小さなお堂がぽつんと残っていますが、この中にハ不動明王(文政十年1827)がおられます。道標にはなっていないようですが、鮮魚街道道筋であるところから成田参りの女人講中で建てたのでしょうか。

71-3金比羅堂(廃堂)
冒頭の掲載写真=金比羅宮と大沼沈山撰碑の解説板があるところが金比羅堂の入り口です。石段を上ったところお堂は壊れシートがかかって無残な姿でした。沈山撰碑が立派なだけに余計に哀れを誘います。
71-4薬師堂の石仏
常夜燈へ行くT字路坂道を通り過ぎてしばらくで右に入る小道の先に、薬師堂の平屋がある墓地があります。新四国霊場十七番のお堂と天満宮石祠を祀るお宮が並んでいます。その左手に十二・三基の石塔が雑然と並んでいます。かなり年月に荒らされていて痛々しい感じがします。右端は元禄十五年(1702)十九夜念仏如意輪塔、左隣は延享五年(1748)延命地像塔、墓碑などが並び左端は享保二年(1717)十九夜如意輪塔となっています。お堂の中で文化十三年(1816)金剛界大日観音塔と弘法大師像が並んで鎮座しているのにはちょっとびっくりします。

71-5鮮魚街道の馬頭観音
常夜燈のある相馬商店(閉店)から約100m上り坂を西進すると右手に共同墓地があります。その道路際に3基の石仏です。中央・左の2基は馬頭観世音塔とわかりますが右石塔は不明です。左=明治41年、中央=文政六年(1823)馬頭冠付の馬頭観音塔です。右=文政五年(1793)馬頭観音坐像が剥落したようです。ここは荷駄の馬が行き交った輸送路沿いです。きっと輸送の安全と馬の健康を祈願した人々の願いがここに名残をとどめているのでしょう。

71-6藤ケ谷向台の庚申塔
香取神社がある国道16号藤ケ谷交差点から柏方向へ約200m進むと歩道橋があります。歩道橋下の角を左に400m進んだ竹林中の道に4基の庚申塔が並んでいます。写真右は文政六年(1823)六臂ショケラ持青面金剛塔です。次に嘉永四・七年(1851・1854)の文字庚申塔、左端は天保十五年(1844)文字青面金剛塔となっています。人気の無い藤ケ谷新田との村境に当るところと思われますが、村人が手向けた花に根付いた信仰の篤さがうかがえます。

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