2010/05/25

77北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(五條谷)

大島田地区の北にある地区です。「ごじょうや」と読みます。湧き水の浸食による谷津が入りこんだのがその由来でしょうとガイドに載っています。この地区では県道8号沿いの稲荷神社・不動堂の石仏以外に見るべきものがありません。
76-1五條谷・稲荷神社の石仏
石仏と表示しましたが紹介するのはお社と石像ですが石仏といえるかどうか?稲荷神社の場所は国道16号線大島田交差点から県道8号(船橋取手線)を1.5km北上した西側にあります。昼なお暗い雑木林となっていて県道沿いに昭和38年再建の神明鳥居が立っています。入り口に「沼南を歩く」白い標柱が立っていて、解説に「ウガノミタマノミコト」を祀っていますとの解説が載っています。「ウカノミタマ」とも言いますが古事記ではスサノヲの子供と記され、京都伏見稲荷大社の主祭神として広く信仰されているとWikipediaに載っています。写真では鳥居からの参道奥に流造=切妻・平入りのお社が見えています。三手組みで壁面に精巧な彫り物を施し、小さいながらも精一杯の贅を尽くしたお社です。お社左側面は楊香(ようこう)=父に代わり虎に身を投げ出す孝行譚が施され、右壁面は二十四孝・郭巨(かくきょ)=母を養うためわが子の口減らしをはかろうとする孝行譚が見えます。江戸時代北総の農村でも流行ったお話なのか、このシリーズでは36回白井Ⅶで二十四孝・唐夫人のお社を紹介しています。二十四孝の全貌はWikipediaで見ておきましょう。
二十四孝・楊香(ようこう)二十四孝・郭巨(かくきょ)
参道そばにある石像は昭和17年二宮金次郎の柴刈読書姿です。栄養状態が良い小太り状態ですが良く残っています。二宮金次郎の詳細なWikipedia伝記もご参考にどうぞ。鳥居を入った左に文化十五年(1818)道祖神石祠が置かれているのが唯一石仏でしょうか。

76-2不動堂(現在は五條谷集会所)の石仏
稲荷神社鳥居写真の右奥に見えるのが集会所です。つまり隣接しています。こちらも雑木林の中ですが、入り口から石仏アワアワ状態です。
小さいながらも彫りのよい寛保二年(1742)六地蔵が迎えてくれます。各々に正徳~寛保年間に亡くした子の戒名を供養に刻んでいます。更に奥には貞享二年(1685)キリーク(弥陀)・サ(観音)・サク(勢至)の弥陀三尊種子を頂く十九夜如意輪観音塔が祀られています。境内には無造作に文政二年(1819)十九夜文字塔、浮彫延命地蔵のはがれた天保十一年(1840)六十六部供養塔等が見られます。他にも嘉永四年(1851)百番観世音供養塔は側面に奉湃四国八十八箇所、読誦法華経一千部供養などと仰々しく刻んであります。盛んに寄進をアピールしている姿が思い浮かばれます。又、県道8号道路沿いに庚申塔や馬頭観世音塔が並んでいます。荒れた碑面や傾いた庚申塔に歳月の容赦ない経過を感じちょっと悲しくなります。道路沿右から享和二年(1802)青面金剛王塔、天保十年(1839)青面金剛塔は「左大嶋田、右大井」の道標にもなっています。文政元年(1818)・寛政六年(1794)青面金剛塔と続き、弘化四年(1847)の青面金剛塔は「右大井、左大嶋田」の道標でもありました。その並びでは安政六年(1859)馬頭観世音塔は分かりませんが、文化八年(1811)の馬頭観音には宝馬がついていました。テキスト沼南町史に記載のあった安永七年(1778)青面金剛像塔庚申塔はどこに移されたのか影も形もありません。残念。変わり映えしないですが庚申塔三猿で面白そうなものを載せておきましょう。
文政元年塔の三猿
弘化四年塔埋蔵部分から


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2010/05/18

76北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(大島田)

旧沼南町のほぼ中央部を南北に貫くのが、県道8号船橋取手線です。同じく中央部を東西に横切る国道16号線とこの県道8号が交差するのが大島田(交差点)地区となります。県道8号沿いにある泉蔵寺とその後ろの安房柄神社にこの地区の石造物が集中しています。

76-1泉蔵寺の石造物
国道16号大島田信号交差点のすぐ北に位置する真言宗豊山派普門山泉蔵寺は、県道8号を左に下る道路が自然に門前に導いてくれます。昭和53年再建のコンクリート造りの本堂が参道正面に堂々と見えています。門前右手の覆屋には、宝永五年(1708)三面六臂合掌の青面金剛像塔が門兵の如く納まっています。足許の三猿脇に二鶏が並んでいて変わった構図です。行者風の頭巾姿・チョッキ姿・腰紐・二手合掌の形態・宝永年間などは、かって東葛飾地区二手青面金剛として発表され話題となった像塔グループの仲間と推察されますが、論文リストには見えなかったものです。門前左は享保九年(1724)六地蔵の紅い涎掛けが目に付きます。境内左際に石仏が並んでいます。特徴あるものを挙げておきましょう。写真中央の享保十年(1725)青面金剛塔の隣に覆い屋があります。中には左に明和六年(1769)「南無勢至菩薩」塔があります。中央が文政七年(1824)弘法大師塔で、右奥は古い寛文十一年(1671)の金剛界大日塔となります。この大日塔は下部に三猿があるところから庚申塔でもあるようです。この塔は大島田・塚崎の境にあったものが移転してきたと資料に注記されています。更に石仏は続きます。無縫塔など5基の先には、下の写真の左から明治29年線彫りの釈迦三尊碑が並んでいます。続いて小ぶりの十九夜塔が3基並んでいます。享保三年(1718)・文政七年(1824)・元禄四年(1691)でちょっと荒れているのが寂しいですが3世紀に亘る見本のようでそう思えば立派なものです。唐破風笠石の石祠は明治の待道祠と思われますが、今は「待道正観世音菩薩」の文字も剥落して読むことが出来ません。テキストでは「弘法大師作」「常州龍ヶ崎写」とも碑面に刻まれていたようですが、見れなくて残念ですね。丸彫りの定印阿弥陀像もあるのですが新しそうで資料にも掲載無く不思議。

76-2安房柄神社の石祠群
泉蔵寺の西奥の高台に位置するのが大島田の鎮守安房柄神社です。泉蔵寺と同じ元和六年(1620)の創設とされています。千葉県館山の式内社安房神社の分社です。Wikipediaで確認しておきましょう。
薄暗い境内にぽつぽつと石祠やミニ富士塚などが確認できます。確認出来たものだけで、明治28年駒形神・浅間大菩薩・明治16年阿夫利大神・大正3年昭和17年三峰祠・明治13年出羽三山塔・安永二年(1773)金剛界大日塔・文化二年(1805)天満宮?・嘉永七年(1854)山神祠・嘉永六年(1853)明治27年待道祠等々石造物アワアワ状態です。マニアには笑顔がこぼれ碑面を推理する楽しい場所ですが、一般人にはきっと不気味に映る所でしょう。

76-3親仔馬の馬頭観音塔
先ほどの泉蔵寺前の県道8号を200mほど北上すれば左に柏市立図書館沼南分館となります。この四つ角を右折して10mほどの民家の境界の大木下に馬頭観音が置かれています。沼南町史には「馬頭観音が置かれているS家ではかって仔馬の育成していた由」と注記があります。大正六年(1917)のほぼ90年前の建立、正面=南ハ塚崎役場高柳方面、右側面=東ハ若柳成田方面、左側面=西ハ柏停車場流山方面と読める道標になっています。母馬が仔馬に授乳をしていると思われる珍しい浮き彫りです。きっと知らない人が多くて惜しいですね。

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2010/05/10

75北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(高柳Ⅲ)

高柳地区の残りの石仏を駆け足で巡ります。地番表示あるも通称名が不明で判りにくいものは、経緯度を試みに表示してみます。

75-1高柳新田の庚申塔(東経+35° 48' 35.86",北緯 +139° 59' 39.91")
前回の高柳区民会館(原堂墓地)前の道を西進し、市立図書館高柳分館や踏切を過ぎて400mほど進みます。右に理髪店バーバーシマハラがあるT字路角に5基の庚申塔が並んでいます。訪問時は丁度道路拡幅工事中で緑の覆カバーで隠れていて、道理で目に付かなかった訳です。紅い幟でやっと見つけました。狭い敷地に5基の庚申塔です。右から寛政四年(1793)顔部が削れている六臂合掌青面金剛塔・宝暦三年(1753)アーモンドヘッド型六臂剣人型青面金剛塔・文政七年(1824)六臂ショケラ持青面金剛塔・聖火ランナーのような天保五年(1834)六臂ショケラ持青面金剛塔・童子みたいな慶応二年(1866)六臂ショケラ持青面金剛塔となっています。どうした訳か右端と2番目の石塔は後の表示板が取り違えて立てられています。表示板を古い順に並べたようです。
工事の遮蔽幕で判り辛い
中はこんな感じです
宝暦三年アーモンドヘット型゙
天保五年塔聖火ランナー?
寛政四年塔三猿
文政七年塔三猿
75-2高柳新田の富士塚
先ほどの庚申塚の前の道を回り込めば富士塚に出ます。唯の土盛りのようですが、よく見ると石鳥居と石段、そして小山のうえにはなにやらありそうです。正面から見ると左の手摺のついた石段の先には石塔のようなものが見えます。右のほうには更に小さな鳥居と文政十二年(1829)石尊大権現石塔が祀られています。この写真よく見ると、右の鳥居と杉の木の間足許にミニチュア富士山(セメント製)が見えていて地元民の茶目っ気を感じますね。左の富士塚山上は下の写真のように文政十二年(1829)仙元大菩薩石塔が祀られていました。石尊塔とともに丸に不二の印が刻まれています。「鳩の三志」こと小谷庄兵衛が唱道した不二道孝心講の建立でしょう。ガイドブック「沼南の歴史をあるく」によると嘉永元年から明治1年頃までの約40年間で孝心講は野田・流山・柏・我孫子・印西の547ケ村、延べ四千六百人を動員して総長1486間の道路普請をしたと記載されています。

75-3高柳高校入り口交差点の庚申塔
県道8号船橋取手線の高柳高校入り口交差点の角に3基の石仏です。県道よりの右から享保十四年(1729)六臂合掌青面金剛塔・年不明十九夜如意輪観音塔・年不詳如意輪観音塔(十九夜塔?)の3基です。ストリートビューでもちらと見えますよ。真中の十九夜塔は光背が欠けて惜しいですが端正な像塔です。

75-4新堀霊園の石仏・板碑
県道8号と県道280号が合流する高柳大久保台の交差点近くに新堀霊園があります。交差点の近く沼南高柳郵便局の脇の道を進むと霊園裏の駐車場へ出ます。霊園正門への道順は、高柳高校入り口の信号交差点で富士見工芸の分岐で1本北よりの細道を進むと新堀霊園の正門です。正門横の植え込みに寛延二年(1749)延命地蔵尊が祀られています。
この区域には平成6年建立の合掌地蔵尊が無縁仏を祀っています。
その傍らに享和三年(1803)・寛政十二年(1800)など馬頭観世音坐像など7基が祭られています。沼南町史にある元禄期の十九夜如意輪観音塔3基は見つけることが出来ませんでした。代わりに、裏駐車場近くの墓所脇で20基ばかりの板碑残欠が整然と並べられていました。残念ながら状態が良くなくて碑面は読み取れません。

75-5焚き火会傍の庚申塔(東経+35° 48' 24.87", 北緯+140° 0' 17.31")
高柳駅入り口を過ぎた次の信号(スーパー?サンキ角)で東方向へ向い道成りに進み金山落としへ下る道筋に「焚き火会」の看板を掲げたガレージと広場があります。
その広場の崖縁に2基の青面金剛塔があります。宝暦十一年(1761)アーモンドヘッドの青面金剛塔です。もう1基は昭和63年高柳老人クラブで、現代的な青面金剛塔を建設しています。

75-6高柳御嶽神社の石祠
崖の切通状の脇に祀られた不思議な場所にある神社です。元は越後退(えちごじり)と呼ばれる清水が湧き出す場所にあったそうですが、ガイドブックによると戦時中の軍の要請で現在地に移転してきたようです。
(すぐ近くの現在の海上自衛 隊下総航空基地に関係?)
薄暗く狭い境内に石祠が整然と並んでいる理由が少し判ったような気がします。拝殿脇の鳥居の奥に7基の慰霊祠です。左から明治19年「少姫霊神」祠・大正6年「弘徳霊?」祠・明治25年・19年・36年・19年・28年の無銘祠です。大型で整然と並んでいるいて信仰内容が今ひとつはっきり分らないだけに神社信仰の奥深さが垣間見えて不思議な雰囲気です。明治20年・不動明王石像の足許で清水を吐いていただろうと思われる竜頭が境内に睨みを利かせていました。これにて高柳地区を終えましょう。

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