2011/01/21

97E 北千住の石仏

日本石仏協会編「江戸・東京石仏ウォーキング」をガイドにして、日光街道第一の宿場・千住宿を歩いてきました。要領よい解説文がついているので、雰囲気が分かる程度の記録にになりますが興味のある範囲で記しておきましょう。
97E-1長円寺の大日如来
北千住駅西口から北方300mほどのところに 長円寺があります。由来や盛り沢山の文化財は解説板をお読みください。
山門左に「めやみ地蔵」が祀られ、眼病の平癒を祈り独特の絵馬が奉納されています。
 山門を入ると右手に三基の石仏が並んでいます。
写真左から貞享三年(1686)六臂合掌青面金剛塔・寛永四年(1627)金剛界大日如来塔・寛文四年(1664)来迎印阿弥陀如来像となっています。
中央の大日如来は獅子乗りで珍しいとガイドに解説がありますが、獅子舞の獅子頭のイメージですね。その後は享保十七年(1732)の寶篋印塔を取り囲むように「八十八箇所毛彫り石碣」が並んでいます。
魚籃観音(ぎょらんかんのん)もあって見所一杯のお寺です。
次に行く途中に伝馬屋敷の面影を残す横山家(屋号松屋)があるので、解説板を読みながら江戸時代の名残を感じるのも楽しいですね。

97E-2安養院の三尸銘文庚申塔
安養院の閉じられた山門は寺域西側の細い道路側にあります。
その傍らに3基の庚申塔が並んでいます。
左から貞享三年(1686)建立明治六年再刻・六臂ショケラ持青面金剛塔、寛文四年(1664)延命地蔵庚申塔・元禄十五年(1702)六臂合掌青面金剛塔となっています。貞享三年塔は右側面に再刻経緯の記載があり、中央地蔵塔は台座に三猿を刻んでいます。
右端の元禄塔は側面に「奉送三巳之毒虫二世願満孕」を刻んでいて、北総ではなかなかお目にかかれないものです。
安養院の南側道路から車の入る通路に、 「仲直し地蔵」赤い幟が立つ3基の地蔵がおられます。
移りが悪い写真ですが、左から元禄十二年(1699)かんかん地蔵、中央が寛文四年(1664)、右が寛文十年(1670)の地蔵です。寛文十年塔は「庚申供養」文言が刻んであります。
97E-3金蔵寺の飢餓供養塔
北千住駅西口に戻り、駅前で一番手前の辻を南下すること100mで金蔵寺です。
山門からの写真左手に石仏が立っています。
詳しい解説板をご覧ください。
参道左に並ぶ石仏写真で、右端の無縁塔が天保八年(1837)大飢饉餓死者828人の供養塔です。中央は台座に三猿をもつ阿弥陀如来庚申塔で、左端に南無阿弥陀仏の角柱が遊女の供養塔です。この供養塔は明治14年再建ですが、側面に「三界萬霊六親眷属七世父母大乗妙典六十六部・・・」と記され台座には旅籠屋と遊女の戒名が刻まれています。
戒名にも「信女」と「童女」が交じっており下働きの少女等の幼い犠牲者もいたことが推察されます。合掌。
次の不動院へ行く途中、足立都税事務所の脇を通ります。こちらに鴎外旧居・橘井堂森医院跡の表示と詳しい解説板があるので読んでおきましょう。

97E-4不動院の石橋供養銘庚申塔
「不動院の本尊は不動明王です」という解説板に思わすそうだったのかと頷いてしいました。参道左に3基の庚申塔です。
左から安永六年(1777)庚申供養塔、元禄十五年(1702)六臂合掌青面金剛塔、文化十一年(1814)文字庚申塔となっています。左端の安永塔と右端文化塔が石碑側面や裏面に「石橋供養」の文言を記しています。参道右手にある戊辰戦争芸州潘戦死者供養塔には石碑側面に「芸州」と大書されています。
又、この碑の向かいにあるのは、萬延元年(1860)・無縁塔と表示された遊女の供養塔です。台石に「富士本屋見世・和泉屋同・・」などと旅籠(楼閣)名が出ています。宿場の影の部分で無残ですね。
97E-5慈眼寺(じげんじ)
不動院の隣が慈眼寺です。将軍が日光東照宮社参の折、休憩所としたところから葵紋を賜った謂れあるお寺です。解説板をどうぞ。
山門を入った右手先の墓地への通路沿いに墓塔と3基の石仏が並んでいます。
右から万治三年(1660)・寛文七年(1667)の地蔵庚申塔です。万治塔には台石に三猿が彫られています。左の角柱塔は嘉永元年(1848)法?界萬霊塔というのでしょうか?勉強しておきます。この写真左奥にガイドに載っている宝暦五年(1755)「八日講中・女中・・・」寄進の寶篋印塔があります。このお寺でもっと面白いのは、奥にすすんで本堂左前の南北消防記念碑の一画です。
子組纏や石造碑などで賑わっています。いわれは千住町消防組解説板をお読みください。
97E-6 氷川神社の弁財天庚申塔
東京芸千住手キャンパス前のミリオン通りを南下して氷川神社に出ます。本殿右の池の奥に元禄二年(1689)弁才天庚申塔が祀られています。
都下で唯一という貴重な庚申塔です。台石に三猿が見えています。
97E-7源長寺の阿弥陀如来庚申塔
氷川神社から南下し墨堤通りの千手仲町交差点へ向かいます。その角が源長寺で冬場は門前の雪釣りが見事です。ガイドブックには境内4基の庚申塔と表示があります。
写真のように竹林の植え込みに置かれています。右から元禄九年(1696)六臂合掌青面金剛塔、寛文四年(1664)笠付阿弥陀庚申塔、年不明六臂青面金剛塔となっていて3基しかありません。左端は享保十年の地蔵・墓塔で庚申塔ではありません。享保十年塔が庚申塔であるとの記載はガイドブックの誤記と思います(加除修正があったかもしれませんが)。面白いのは笠付の寛文塔です。
正面の阿弥陀像の足許に聞か猿、右側面手前に見猿、左側面に言は猿の三猿構成デザインになっています。
千手仲町の信号を南進します。途中、足立卸売市場近くになると昭和5年千住市場問屋配置図などの掲示があって楽しめます。又、松尾芭蕉は元禄二年旧暦三月に深川から千住に上陸し、ここから見送られて奥州へと旅立ちました。
千手大橋のたもとは芭蕉・奥の細道矢立初の碑がある公園になっています。
97E-8誓願寺の青面金剛
千住大橋を渡って100mで西側に誓願寺の細い参道があります。
左手植栽に石仏や墓塔が点々と置かれています。
手前には寛延四年(1751)丸彫り聖観音塔、墓塔はパスして延宝四年(1676)二童子付合掌青面金剛塔、自然石型年不明文字青面金剛塔と続きます。可笑しいのは「狸獣墓」なるものもあって何でだろう?と思いました。
97E-9素戔雄神社の庚申塔
誓願寺から150m南下すれば素戔雄神社です。由緒は解説板をご覧ください。
もっと詳しいスサノオについてはWikipediaをご覧ください。境内南側石柵に沿って3基の庚申塔が並んでいます。
庚申塔は左から延宝六年・寛文十三年・文化八年となっています。板碑型如意輪観音三猿庚申塔・聖観音庚申塔・文字青面金剛塔と時代の移り変わりにあった推移が見て取れます。
庚申塔の詳しい解説板をご覧ください。境内は他にも瑞光石(ずこうせき)・蘇民将来子孫来などの解説があってお勉強もできちゃうパワースポットとなっています。
97E-10円通寺の庚申燈籠
ガイドブックにない番外ですが、充実した石造物スポット発見だったので載せておきます。
素戔雄神社から500m南下すると、広い参道と現代的建築に金ピカ仏像を頂く曹洞宗円通寺があります。入口に大きな由緒書の看板が立っています。
簡潔な解説なので読んでおきましょう。参道をすすむと右手に六地蔵がおられます。その並びに、優しいお姿の「馬頭観世音 良馬春来號」と刻まれた石仏です。
宝馬もなく聖観音のような像容ですが、馬頭観音?でしょうね。先に進むと左手は金網の柵に囲まれた彰義隊士の墓となっています。
新門辰五郎の碑というのもあったのでWikipediaで確認しておきましょう。


参道を挟んで反対側も柵に囲まれた富士塚状の塚上に七重石塔・板碑・48基首塚(石)・左右の石燈籠などが置かれています。上の写真のとおり傍らの表示板にその内容が書かれています。
左の燈籠は正徳三年(1713)造立で竿部に合掌地蔵像と大乗妙典六十六部の表示があります。
又、右の燈籠は年不明(読みきれません)ですが基部に三猿があるので庚申灯篭となっています。思わぬ見つけ物でラッキーでした。

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2011/01/14

96北総石仏 我孫子の石仏 中峠(なかびょう)Ⅱ

中峠は交通の要所だったのでしょう。一里塚や旧道に立派な庚申塚が残っていたりします。国道356号線の湖北駅入口交差点の西にある次の交差点に長光院があります。
96-1長光院墓地の十七夜塔
長光院は当地の北500mにある法岩院の末寺で、元文五年(1740)の中峠村田畑社地不残大概書に表示があることから17世紀に遡っての存在と解されています。信号のある道路側入口を入った右手の塀沿いに石仏が並んでいます。
右から順に寛文八年(1668)天蓋付如意輪観音・元禄七年(1694)如意輪観音・延宝七年(1679)反手如意輪観音十九夜塔・元禄十年(1697)聖観音・貞享二年(1685)如意輪観音十九夜塔・延宝九年(1681)六臂合掌青面金剛塔・元禄十六年(1703)勢至菩薩二十三夜塔となっています。気になる石仏を載せておきましょう。
寛文八年天蓋付で豪華
延宝七年反手の如意輪観音
 
延宝九年青面金剛、ちょいメタボ

元禄十六年勢至菩薩
この続きに安永二年(1773)地蔵塔があります。
ちょっと見難いのですが台石を覗き込んで、これが十七夜講中で建てた十七夜塔であることが分かります。
このブログでは2009年1月4日付16.印西船穂Ⅱに16-1多聞院で十七夜塔を初見しています。北総石仏ではこれでやっと2度目になる珍しい石仏です。良かった。
96-2中峠の庚申塚
長光院の西側のT字路を北上して法岩院へ向かいます。突き当たった路地を左にとってすぐの三叉路右手に庚申塔が並んでいます。
写真で分かるように真中に2基の六臂合掌青面金剛像塔です。左が享保十四年(1729)右が元文三年(1738)の造立です。右から3基目文字「青面金剛」塔は寛政十二年(1800)の庚申年の造立、左端2基は天保九年(1838)・天保三年(1832)の文字庚申塔です。尚、右から3基目は剥落して分かりませんが嘉永三年(1850)の文字庚申塔として我孫子市史金石編に辛うじて写真収載されています。右端は家根屋講中(職人ギルド)で聖徳太子孝養像を享和三年(1803)に造立しています。
その隣は文化九年(1811)光明真言十万返塔ですが、二十三夜待大勢至ササ(菩薩)と異体字で併記されているのが実見できて嬉しいですね。
可笑しな三猿も載せておきましょう。
左から2基目の台石に刻まれていますが、恥ずかしがっているのかな。
96-3法岩院の百堂念仏塔
庚申塚を北へゆるく下って300mほどで祝融山 法岩院です。天文十一年(1542)創立・開山正覚禅師・開基は千葉氏末裔芝原城主河村出羽守と市史に記載されています。ところで開山・開基の違いが良く分からないのでWikipediaで確認しておきましょう。境内参道に沿って四間一棟の長屋型堂と大師堂があります。更に進むと左手に切り通し状の道が竹林に続いています。無数の石仏を見つけて顔がほころびますが、墓塔の集団である事が分かってちょっとガッカリします。中に1基・元禄十五年(1702)二十三夜本地勢至菩薩がおられます。
左から3基目が元禄十五年二十三夜塔
こちらには立派な石仏が並び崖上にも種々おられますがほとんどが墓塔です。
お目当ての百堂念仏塔は本堂横の斜面に2体の石仏がならぶ右側の仏です。貞享元年(1684)「刻彫観音聖像一体身成百堂念仏供養」と記された聖観音像です。
百堂供養塔とは「・・百ヶ所のお堂を念仏を唱えて巡礼して歩く信仰があり百堂めぐりが結願した折に供養塔を造立・・・阿弥陀堂・大日堂・観音堂・・区別無く信仰対象とし・・分布地域は関東東南部に偏り・・栃木・茨城・千葉・埼玉に散在。・・初発は寛永二十一年(1644)から文化十四年(1817)におよび・・元禄までが大部分で・・総基数は90基におよぶ・・」と日本石仏図典に解説されています。結構珍しいんですよ。
左の石仏も元禄三年(1690)「奉供養為十六夜念仏二世安楽」地蔵塔です。
08/11/28付第8回印西大森Ⅰ・8-8六軒コミュニケーションセンターの天保三年十六夜塔以来やっと2度目ということになります。他にも正徳年間・文化七年の二十三夜塔なども散在しているので時間をかけて見ると新しい発見があるかもしれません。
96-4 水神社
法岩院の前の信号を北へ古利根沼に向かえば200m程で水神社下に着きます。石段が竹林の高台に一直線に伸びています。
石段下に明治16年舩仲間講中が奉納した小さな手水石が置かれています。当地には寛文二年(1662)に芝原河岸がおかれていたので舟運安全祈願の水神信仰が行われていたと我孫子市史民俗・文化財編に述べられています。石段を上った所の写真に見える荒んだお堂に元禄九年(1696)水神が祀られています。又、文政八年(1825)水神や石段下に(文政)十三年(1830)待道大権現石祠なども置かれています。
96-5芝原城址(中峠城)の庚申塔
水神社前からすぐ左折して細い道を西に向かって300mほどで雑木林の古利根公園となります。この辺りが芝原城跡といわれています。解説板をご覧ください。
雑木林に引き込まれる三叉路の所、踏み込んだ林の中に宝永四年(1707)六臂合掌青面金剛塔がひっそり?と佇んでいます。
しかし、分かりにくい所にあって探すのに大変苦労した思い出がありますねえ。


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