2011/04/29

106 北総石仏 青山・柴崎追加

No.102とNo.103で訪れた青山・無量院で撮り忘れた石仏などの紹介です。

106 青山・無量院の虚空蔵菩薩(百選石仏No.28)
102-1で述べた無量院の本堂左奥、住職墓地の片隅に虚空蔵菩薩が祀られています「房総の石仏百選」No.28に房総石造物文化財研究会沖本会長が詳しく紹介されています。五智宝冠を頂き右手に宝剣、左手には理・智・悲を現す三弁宝珠を持ち「奉造立虚空蔵尊一軀二世安楽処」「干時宝永二・・・」と刻まれています。台石に17名の記名があります。

この石像仏が単体で祀られるのは珍しく初見ですね。百選石仏ですよ~。お寺にお断りしてから拝観しましょう。

106-2 青山・八幡神社の子安地蔵 (百選石仏No.37)
No.102-2で記載済ですが、百選石仏と判明したのであらためての掲載です。確かに子安観音は多いですが、子安地蔵は少ないですね。明和八年(1771)女人33人の造立です。

日下部朝一郎著の石仏入門では子供を抱く地蔵を間引地蔵として紹介しています。江戸時代の悪習=間引きの供養に造立した、群馬県渋川の宝暦十一年(1761)の間引き地蔵 です。裏面に裏面に間引地蔵教訓が彫られているとか。利根川対岸の利根町徳満寺の間引き絵馬も気になるところです。「子安信仰となっている地蔵・観音に、果して薄命のこの供養を託したものはなかったろうか?」と日下部氏は書かれています。あるいはそれが真実かも知れません。

106-3 バス停金久保先・塚上の青面金剛
柴崎神社へ向かう交差点角に老健施設「葵の園我孫子」がたっています。その対角線の塚上に覆い屋があり青面金剛が祀られています。正徳二年(1712)の造立です。
「儀軌」に説く像形とは少し違いますが、頭頂部の大蛇・髑髏の瓔珞(ようらく)・髑髏のついた羂索・二鶏など図像的には面白い青面金剛塔ですね。

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2011/04/15

105E 茨城県南西部の石仏 鼻の大きな大日様下

徳岡聡行編著「常総・寛永期の大日石仏」をガイドにして茨城県南西部の石仏をめぐります。メインテーマの大日如来はこの地では大日塚に祀られることが多いのですが、いまや塚の存在自体が認め難く変貌しています。
105E-1東狸穴公民館の大日様
JR常磐線ひたち野うしく駅の北西1.5Km、牛久市東狸穴町609に東狸穴町公民館があります。
入口正面に南天の叢から石仏が顔を出しています。火の見下にあった石仏を移してきたと隣家のご主人の話です。
頭部を一目見て馬頭観音と勘違いしたのですが、よく見ると台石に三猿を刻んだ寛保三年(1743)六臂合掌青面金剛塔です。それにしてもこのピエロ頭巾型頭部は北総では馬頭観音の御用達と思っていたのですが、所変われば品変わるものですねえ。
新築の公民館の写真に20基以上の石仏群が写っています。3列並ぶ後列中央にある五輪塔3基をはじめ、ほとんどが江戸時代の墓碑と思われます。中列右から3番目の宝暦五年(1755)聖観音像塔は光背に「供養西国坂東秩父巡禮」を刻む百観音巡礼塔です。又、上の写真にお堂が写っていますが、左は明治44年子安地蔵・右にはお大師様が祀られています。お堂のところを右に行き公民館の側面奥の石龕に鼻の大きな大日様がおられました。
寛永七年(1630)の銘を持ち天蓋の下、鼻の大きな石仏です。寛永期に爆発的にこの地に流行した湯殿山信仰にからむ、茨城県南西部に約50基を数える特徴的な石仏です。「常総・寛永期の大日石仏」に詳しい研究成果などが載っています。
105E-2大井農村センターの大日様
県道202号線でつくば市茎崎・大井農村集落センターを目指します。道路側に消防団第4分団の消防庫があるので、その裏手に回ってみます。
裏の叢林に石龕があって、中に寛永七年(1630)の鼻の大きな大日如来浮き彫りが祀られています。元はセンターのあったところに大きな塚があり、センター建築に際し石仏が移されてきたようです。
石龕のある塚の奥には元文五年(1740)痩せ気味小柄な青面金剛塔が祀られています。
105E-3菅間集荷所の大日様
県道143号線の高崎十字路は前回No104E-5高崎の八坂神社で紹介したところです。高崎十字路から直線距離で2Km北方に菅間集落があります。集落の中、黄色建物の菅間ふれあいセンター・菅間集荷所のあるところの一画に大日様が祀られています。
集荷所の脇の潅木・茂みの中は元大日塚だったのでしょう。雑木の根元に寛永八天(1631)鼻の大きな大日様(胎蔵界大日如来)が祀られていました。
竹筒を振り分けに掛けておられます。この地での祀り方でしょうか?こちらの敷地奥が日枝・熊野合祀社となっています。質素な社の裏にいくつかの石仏もおられます。寛政十年(1798)百観音巡礼塔、萬延元年(1860)文字庚申塔、アルミサッシで作った鳥居の奥に道祖神、明治9年愛宕大神碑などが散在していました。
105E-4稲荷原の本門戒壇院
県道143号線沿いにある日本農業研究所実験農場の辺りが稲荷原です。集落の奥、道路が川に突き当たるところに本門戒壇院があります。向かいの茂呂様が東京柴又からこの地に移祀されたとガイドブックに載っています。
意外なところに石仏ワールドがありました。昭和6年~昭和10年ごろに造立された仏様たちです。
日蓮上人を祀る中央基壇の周りを八大龍王が守護しています。Wikipediaからしっかり勉強しておきましょう。
正面右から時計回りで 1難陀龍王(眼病)  2跋難陀龍王(火難) 3婆迦羅龍王(水難) 4和修吉龍王(劔難) 5徳叉迦龍王(雨乞) 6阿那婆達多龍王(財盗除) 7摩那斯龍王(風害除) 8優鉢羅龍王(八方方災除) の順に並んでいます。各々の龍王の守護分野があって面白いものです。左の魚籃観音は法華経の守護神として祀られています。それでは石仏ワールドのフィナーレで一挙掲載して茨城南西部の石仏の締めくくりといたしましょう。
銀輪大王(?)
金輪大王(?)
2跋難陀龍王
1難陀龍王
4和修吉龍王
3婆迦羅龍王
5徳叉迦龍王
6阿那婆達多龍王

7摩那斯龍王

8優鉢羅龍王
阿弥陀如来
大日様?日蓮上人像脇













画像の並べ方が良く分からず、ブラウザーによっては見難くなっているかもしれません。ブログ萬年初心者でご訪問の方々にご不便をおかけします。ご連絡メール不設定と併せ、ご容赦ください。
ではでは。

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2011/04/09

104E 茨城の石仏(南西部) 鼻の大きな大日様Ⅰ

日常の閉塞感を忘れたくて近県にちょっと遠足です。ガソリンの補給も大丈夫、コンビニにも食料はあるだろうと利根川を渡ってお出かけです。テキストは筑波書林「常総・寛永期の大日石仏」で佐藤不二也氏が紹介されています。通称”鼻の大きな大日様”がメインの石仏紀行ですが、都合上テキストとは逆の道順です。
104E-1つくば市谷田部・普賢院の大日様
寛永二年(1625)創立といわれる真言宗の普賢院は、県道143号線(谷田部牛久線)沿いの羽成(はなれ)68にあります。
山門を入り突き当たりを右に曲がると、平成12年11月竣工の本堂が見えます。石仏は参道を右に曲がるところにある大師堂の並びに十九夜塔など4基が祀られています。写真の6基のうち両脇を除いた4基が私流の石仏4基ということになります。
まず、明治6年十九夜文字塔の大きさにびっくりしますね。このあたりの流儀でしょうか、平板な自然石を加工していて、北総のこじんまりした十九夜像塔を多く見慣れた眼には文字塔といえ新鮮でした。隣がメインテーマの寛永七年(1630)胎蔵界大日如来浮彫像塔です。
ガイドには普賢院先の大日塚にあったそうですが、かの地は荒れていてこちらに引越しをしてきたようです。大切にされていて良かった。右となりは念不明と昭和40年の馬頭観世音塔となっています。これら一連の石仏は大日塚近辺からまとめてお引越しをされたかも知れません。
さて、「鼻のおおきな大日さま」についてですが、上の写真のように大きな鼻と角ばった肩・面長の顔貌・印を結ぶ手の形など極めて印象的です。これらは本来大日塚に祀られているのですが、その大日塚を祀る大日信仰を研究する大日信仰研究会が、全容を解明しようと活動されている様子がガイドブックに載っています。不勉強で分かりませんが今から20年近く以前のことになるでしょうか?「寛永の20年間に茨城県南西部に160基にのぼる大日石造仏が造立され、その前後を通じて数百の大日塚が築造・・この時期大日信仰は爆発的に一帯を席巻した」と同書に書かれています。
さて、他にはさして石仏は見当たりませんが東日本大震災の被害はここにも及んでいて、上の写真は痛々しい写真ですがお分かりでしょうか?本来、弘法大師のお遍路姿があったはずですが草鞋の両足が残るだけでした。
104E-2羽成観音堂の石仏
道標に従って普賢院から南西300mにある羽成観音堂へ畑中の道を進みます。観音堂はうっそうとした木立の中に建っています。
文禄元年(1592)牛久城主由良国繁が戦乱の霊を弔うために建立したそうですが、近隣では馬頭観音として信仰されているお堂です。映画やテレビの撮影場所に使われるだけあって雰囲気のあるいい所です。境内は広く苔のある所も多くつくばフイルムコミッションが宣伝しているのも頷けます。近在の農民が馬を曳いて参詣し草競馬も盛んだったとガイドに載っています。上の写真右の木下には安政四年(1857)馬頭観音(道標付)や残欠がおかれています。
周りの木の根元にはひっそりと文政八年(1825)金比羅大権現石祠(右縁は大杉大明神・左縁は稲荷大明神と彫られ一祠に合祀?)があったりします。上の写真は笠が落ちた状態ですが。
他にも文久四年(1864?多分改元不識)道標付文字馬頭観音塔なども目に付きます。
立派な石神が2体と5名の名を刻んだ如意輪観音塔を見つけました。石神は天保十一年(1840)万人講の奉納でした。男神と女神をそっと寄り添わせたのは、きっと豊穣を祈った心根からでしょう。テキストでは観音堂裏手に、表面に「引導三有及法界」・背面に梵字アと梵字光明真言を刻んだ碑と年不明馬頭観音塔を紹介しています。「引導三有及法界」は一切精霊回向文の一句として江戸時代の仏書(浄土諸回向宝鑑第二巻第二十二)に出てくる偈文だそうです・・・加藤政久編著石仏偈頌辞典。写真を載せたいところですがもっと面白いものを見つけてのでそちらをどうぞ。
写真は境内にある小ぶりなお社(鹿嶋神社?)の飾り板蟇又です。お社は質素な(薄い)板造りでいまやあちこちは剥げかかってていますが、ちょっとしたところに当時の職人の遊び心と腕の見せ所を残していました。あと3面も弁財天の琵琶弾き姿などの板蟇又でなかなかの出来だと思います。
104E-3若栗研修センターの石仏
普賢院から県道143号線を1.1Kmほど南下すると消防機材庫と奥に旧公民館である若栗研修センター敷地に着きます。石仏は大師堂と器具庫に挟まれたトタン屋根の覆い屋にまとまって置かれています。
左側には五輪塔残欠や不明な石塔置かれ、中央部から右側へ石仏が並べられています。判っているものでは天保十二年(1841)馬頭観音塔が三面八臂でしたが、八臂は初見ですね。
文政七年(1824)文字青面金剛塔・寛文十三年(1673)十九夜如意輪塔・天保五年(1834)・年不明五輪塔・無縫塔計3基・胎蔵界大日像塔・寛政十二年(1800)子安地蔵塔・愛宕大権現石祠の順に並んでいます。
上の写真はガイドブックで逆智拳印の金剛界大日といわれているものでしょう。紀念不明でした。
104E-4若栗・念向寺の十六夜塔
創建大同元年(806)と伝えられ、奈良時代作蓮糸織出六字名号や伝室町時代の菅原道真公像画を有する古刹です。つくば牡丹園の南に隣接し筑波茎崎霊園内に位置しています。
霊園入口の新しい六地蔵のそばに寛文十年(1670)十六夜地蔵塔がおられます。3基目となる十六夜塔の「奉造立十六夜念仏供養」の刻字が嬉しいですね。
104E-5高崎の八坂神社
県道143号線を4Kmほど南下すると茎崎第一小学校がある高崎十字路に至りますが、脇の参道が八坂神社に続いています。
天正二年(1574)山城國愛宕郡の八坂神社を勧請したと伝えられる旧村社。江戸時代は牛頭天王と呼ばれていたとか。鳥居をくぐった左手に狛犬・年不明道祖神石祠・文政三年(1820)三面六臂馬頭観音坐像が並んでいます。
ガイドブックには、この馬頭観音像塔が見えなくなって心配して探したところ、本殿後ろの猿田彦神社(庚申様)祠に移祀されていたのを見つけ正してもらったエピソードが載っています。本殿周りは他に愛宕・天満宮・日枝・神明・八幡神などの木祠で囲まれていました。この神社では、第95回天皇賞優勝馬ミホシンザン号馬主寄進の石灯籠なども良く知られています。
メインテーマの大日様めぐりと驚愕の石仏ワールドは次回のお楽しみにしておきましょう。

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