2011/06/25

111 北総石仏 我孫子の石仏  緑地区

111-1 緑の大光寺の百庚申
本土寺過去帳に「大高寺・・延徳二年(1490)・・アビコ」の記載あり大光寺創建は室町時代にさかのぼることが知られると市史に載っています。
古刹ですが境内に本堂より立派なひかり幼稚園あるので雰囲気は古刹とは思えないものです。上の写真の幼稚園運動場のような広場の左手に歴代住職墓地らしき場所があります。享保十一年(1726)六十六部供養延命地蔵や六地蔵が祀られています。されに園地の運動場を横切って進むと鳥居のある聖天堂があります。
文化二年に我孫子宿の大火で寺は罹災しましたが、この聖天堂は文化七年(1810)に再建され「我孫子の聖天さま」として喧伝されたそうです。今では昭和37年の大修築のしっかりしたものですが、建物に囲まれて窮屈そうです。聖天堂の前を通って墓地に向かう通路に石造物が集積しています。
木の間に見える石鳥居は聖天堂の入口です。「一千」と見える立派な石塔は天保十五年(1844)弘法大師一千恩忌搭です。施主の木村屋甚兵衛さんは後出の百庚申搭の幾つかも拠出している大スポンサーです。
寛文十三年十九夜塔
正面の昭和37年聖天堂再建碑の影に、寛文十三年(1673)十九夜如意輪観音塔がおられます。上の写真右となりも雑木に埋もれるように筆子搭などが散在しています。
天明八年二十三夜搭
天明八年(1788)二十三夜搭勢至菩薩や明治22年五十万遍供養搭・明治36年阿弥陀如来供養塔・祈念不明文字青面金剛塔などがごちゃごちゃと並んでいます。
大光寺墓地で見かけた下の写真石像はいったいなんでしょうね。大正3年・・・水子と読めました。
さて、お目当ての百庚申ですが、境内にも見当たりません。我孫子の石像物・所在地別リストから、ホールと民有地の境と記載があります。判明したのが下の写真の有様です。
左の民家との境に雑草で埋もれた百庚申

進入路手前はこのようにまだ庚申搭が顔を見せています
明和九年(1772)六臂合掌青面金剛塔
宝暦・文化・文政・天保・嘉永までに及んだ庚申搭が、無残にも胸元まで埋もれて放置されています。ホール建設時に然るべき配慮がされていればなあと残念ですね。文化遺産を思う心が忘れられた時代に不幸な目にあった庚申様のご様子でした。合掌。
111-2 緑の香取神社
大光寺の西方100mのところに香取神社があります。将軍吉宗・享保年代に奉斎されようですが、天保の頃には我孫子村の鎮守の位置づけとなりました。昭和56年建築の現社殿に天保年代再建の旧本殿がそのままおさめれています。
道路工事中(平成23年現在)の為正面からの進入困難

明治38年合祀令に基づき12社が合祀されました。
石鳥居の合祀社銘
「明治四拾年五月拾八日合併、天子社、三宝荒神、天神社、第六天、北星社、道陸神、神明社、鷲神社、住吉社、厳島神社、白山神社」と天保年間建立石鳥居に明瞭に刻んであります。こんなに記す例は結構珍しいですね。境内に進むと社殿左奥には昭和3年富士登山碑や大正8年出羽三山碑などが建てられています。社殿右奥が広場になっておりその縁を囲むように石仏のオンパレードです。

香取神社にはテキスト(所在地別リスト)で49基があがっていますが、その大半をここで一望することができます。再確認に6月訪問したところ石祠の笠石が落ちていて見慣れない姿になっていました。
上の写真は左から寛政八年稲荷大明神・寛政元年(1789)二十三夜石祠・享保十一年(1726)三猿庚申塔・寛政二年(1790) 二十六夜愛染明王搭・(残欠)・天保八年(1837)ショケラ持青面金剛塔・天保八年不明搭となっています。この右のほうに立派な明治18年造立の道陸神社殿が続きます。その右に享保四年(1719)数珠持青面金剛塔が立っていて寛政九年道陸神石祠・明治期三峯・大山阿夫利神社・浅間大神碑などが続きます。
享保四年六臂数珠持青面金剛塔 
111-3白山の八坂神社
国道356号線の我孫子駅入口交差点の角に八坂神社があります。応永三年(1396)創建と伝えられています。 明治12年の神社明細帳に間口三間奥行四間と記載あり、今も当時と変わらないこじんまりした規模のままです。

社殿左奥で西側通路沿いに天保十二年(1841)文字庚申搭・弘化四年(1847)庚申搭?(台石に三猿)などがわずかに残るだけでした。
以上で旧我孫子宿の白山・緑地区を終えることにしましょう。
111-4 船戸新田の水神宮の十三夜搭
手賀沼近くに根戸船戸緑地・船戸の森があります。その南旧道に船戸新田青年館があります。向かいが水神宮となっています。寛文年代(1661~73)に根戸新田開発が始まったのでそれ以降の草創です。
社殿の奥に旧道と根戸新田青年館

市史では「笠木と貫を左右両端斜めに切った木造素朴な鹿島鳥居」の表記があります。鳥居の種類などWikipediaで見ておきましょう。
鳥居左には天保三年(1832)不明碑(庚申搭?)や文久三年(1863)出羽三山百観音碑などが置かれていました。鳥居の右に 4基の石塔、左に2基の石塔が見えています。

写真左から安政二年(1855)吾妻大明神碑、昭和2年天満宮、安政二年十三夜・二十三夜搭、文政十三年(1830)青□□□塔となっています。十三夜搭なんか目にするのは初めてですね。

しかも二十三夜との連刻碑なので価値があるのではないか・・・初見なので勝手に連想してしまいました。
日本石仏事典の十三夜搭の記載は「十三夜待は十三日の夜、虚空蔵菩薩を礼拝勤行した行事で・・・いわゆる十三仏においても十三番目の頂上尊とされた・・・県下小見川地区に享保三年地蔵像があり・・・関宿地区に元文三年虚空蔵菩薩像の十三夜搭がある」と載っています。
参考までに、先日県下小御門地区で下の石仏を見かけました。きっと虚空蔵菩薩様だったんですね。
寛政九年(1797)十三佛供養塔
我孫子地区もかなり時間がかかりましたが、これで一区切りにしたいと思います。

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2011/06/08

110 北総石仏 我孫子の石仏  寿地区

前回の国道356号線を西進すると水戸・成田街道分岐点に至ります。信号と信号の間にある三角地帯に石塔が散在しています。
110-1水戸・成田街道分岐点の道標
変則三叉路の緑地帯にしっかりした成田道の道標です。我孫子市史では不動道標との表題ですが、成田不動尊参りを意識したタイトルなのでしょう。

写真中央の文化十三年(1816)角柱正面に「右成田道 西 凡道法 小金宿三里・松戸五里・・」側面は「東 布佐三里・木下四里・安喰六里・成田九里・・」「北 布施一里・取手・・」と刻んであります。「おおよそ みちのり」と読むのが面白いですね。安永五年(1776)文字青面金剛塔も側面に「右てうしみち」=銚子道を刻んだ庚申道標となって傍らに置かれています。蔦の絡まる左の木の後ろにも庚申道標が置かれています。
元禄四年(1691)板碑型三猿庚申塔ですが、正面の左右に 「これより右 府川海道 従是左 水戸街道」と彫られ矢張り庚申道標となっています。
110-2 子之神・延寿院の石仏
前回109-3で紹介した 「子の権現燈籠」はこの子之神への道標となっていました。
また、国道356号線 寿交番前にも寛政元年(1789)「従是子神道」道標が立っています。子之神大黒天略縁起によると「行基菩薩が下総国分寺で刻んだ薬師如来・十二神将・大黒天を安置したが、火災の厄を避けるため阿闍梨が子之大将神と大黒天を各地奉遷の際、この地でヒイラギの群茂に観応して康保元年(964)に一宇を建立しておちついたのが子之神大黒天である」そうです???
本堂前右は七福神レリーフとかねのわらじが奉納されています

先述したように足腰の病に効験あるとかで信仰厚く、安政三年(1856)深川永大寺で出開帳まで行っています。
玉垣は宝暦八年(1758)

石仏はそれほどありませんね。玉垣の中に文化三年(1808)子野大権現石祠が祀られています。近くの明和五年(1768)石灯籠に石仏教科書に出てくる年号異称が大きく刻まれていたので載せときましょう。
龍集は年号末尾に (日本石仏事典)
足腰の病に対する庶民の効験期待が「かねのわらじ」のとなって奉納さてています。
子之神に隣接して旧村川別荘があります。見学自由なので覗いて見ましょう。
110-3旧村川別荘
団塊世代の方は山川出版社西洋史の教科書でおなじみの著者村川健太郎をご存知と思います。彼の父親が保有したのがこの村川別荘です。

江戸時代後期の我孫子宿建築を知る貴重な建築物とかで我孫子市保有で公開さてています。時間のある方は立ち寄られるといいでしょう。

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