2011/11/23

125 北総石仏 柏の石仏 高田

国道16号線を挟んで、前回の松ヶ崎地区と対照に位置するのが高田地区です。柏警察署前から北西300mに柏市立第五中学校があります。その前(北側)高台が東下ノ台共有墓地です。
125-1 東下ノ台共有墓地入口
墓地へあがる石段の手前法面に 8基の石仏がひっそりと佇んでいます。
いずれも馬頭観音塔のようですが、年号がくずれたものなどもあって読みにくいですね。

左から昭和26年・昭和8年の文字馬頭観世音塔、3基目の背の高いのは昭和26年軍馬観世音塔 と刻まれています。次は昭和2年の文字馬頭観世音塔です。中央の欠損碑は寛政十一年(1799)馬頭観世音の像塔です。惜しい。
馬頭観音像と思われる寛政十一年塔
 次の低い石碑は馬印がわずかに見えていますが表面は不明です。次の小碑も不明石塔です。右端は倒れた安政三年(1856)文字馬頭観世音となっています。
石段を上がった共有墓地には 年不明六地蔵さんと昭和5年自然石型・種子カ「六地蔵の碑」が祀られていました。
年不明(昭和5年?)座像の交じった六地蔵
125-2 熊野神社の石祠
第五中学校前を西進800mで熊野神社へ北上するT字路となります。曲がり角の目印は、明治19年石灯籠などの石造物が祀られている一画があるところです。
崩れかけた石祠は資料から、待道大権現石祠と思われます。他に小さな寛政四年(1792)道祖神石祠が祀られています。北上した正面に鬱蒼とした森が、熊野神社です。
熊野神社は当地の旧家山崎家の氏神で、平惟盛の末裔が高田原に住まい山崎姓を名乗って天正九年(1581)に熊野大権現を鎮守として祀った創建を伝えているそうです。(柏市史中世史編)
赤い手すりの石段左に、大正12年の自然石型文字馬頭観世音碑が祀られています。石段を上がると薄暗い森に覆われた境内中央に 、コンクリート製の立派な社殿が建っています。
境内の合祀記念碑が、北野・香取・日枝・六所・熊野の五社が明治に合祀された旨を伝えています。社殿の右側で合祀された神々が勢ぞろいです。
右から北野・香取・日枝・六所・月御前・不明石祠・菩薩?7基です
 右から明治41年天神宮・明治41年香取神社・明治11年日枝神社・明治29年六所神社・明治18年月御前・弘化二年(1845)?菩薩が写真にのっています。左欄外に弘化二年山神・安政五年(1858)山神宮がつらなっています。六所神社はWikipediaをご覧ください。ところで上の写真左端は菩薩塔(?)と柏市史に記載がありますが、石祠形の中に仏像を刻むのは珍しいでしょう。
尚 、境内左にも大杉神社のお堂もありました。
125-3 聖徳寺の石造動物園
熊野神社から灯篭のある曲がり角まで戻り西進します。約300mで正徳寺の表示がある参道入口です。緩やかに上れば真言宗豊山派の聖徳寺の山門です。正面にはコンクリート造陸屋根の現代的な本堂があります。

本堂の屋根には宗紋の大きな輪違(わちがい)を掲げています。凡聖不二(ぼんしょうふに)の意で「仏様(悟っている者)も衆生(迷っている者)も本性において同一」という事を表しているんだそうです。
本堂前の石造物もにぎやかです。現代石造物にどんなものがあるか載せておきましょう。
左の聖観音銅像の台座地面に居るのは河童
ピカチュウのベンチやひっくり返ったパンダや犬に河童、不動明王に聖観世音菩、龍や小地蔵など脈絡なく並んでいる石仏好きなお寺という感じでしょうか。
写真左へ行くと更にパワーアップします。
写真上部中央奥に小さく見える丸彫聖観音は文化八年十九夜塔
大きな子安地蔵が祀られ背後に船形地蔵塔がひな壇整列に並びます。前座にフクロウやアヒルまでいるのは、なんじゃらほいですね。
というわけで、リストアップした庚申塔は大切にされていると思ったのですが。見栄えのよい石仏でないという訳でしょうか、残念ながら冷遇されていましたね。
上の写真の左が墓地への入口です。門柱の植え込み代わりに密植されておりました。残念。
左奥は享保元年・右奥は年不明の青面金剛塔
この場所に14基(8基の青面金剛塔+6基の文字庚申塔)も祀られています。密植状態で満足に写真も撮れないのが残念です。左側面・右側面からの写真を載せておきましょう。
享保元年塔の手前は嘉永三年・六年の小さな青面金剛塔です
後列の左端から寛政九年・安政五年・弘化三年・天保十五年青面金剛塔
他には十九夜塔が2基あって、先ほどの子安地蔵の写真の中央奥の文化八年丸彫聖観音塔と、写真左端の赤い幟に脇にある寛文八年(1673)丸彫聖観音が十九夜塔にあたります。
寛文八年十九夜聖観音塔

文化八年聖観音十九夜塔
 子安信仰が盛んな為でしょうか、賽の河原の様子を絵解風看板で表示がありました。

賽の河原をWikipediaでお勉強しておきましょう。
125-4 小松翁稲荷
地図で見つけた気になるスポットです。分かりにくい場所に赤い鳥居が並んでいます。玉垣の上に小さなお堂のようにひっそりとたたずんでいました。名前からするとプライベート神社であるようです。
お社の左に文久元年(1861)翁三稲荷頓苑霊神石なるものが祀られています。

碑石左脇に「高田原のきつねをば、取るべからず。若し討ち取るものは難儀をいたす。以後、万民必ずとるべからず」旨を漢文表記してあるそうです。(柏市史金文Ⅰ)勉強不足で読めなかったですね。
125-5 うなぎ道と高田の水切り場
江戸時代、活きたうなぎが運ばれた街道を載せておきましょう。馬に積み替える水切り場がこのあたりに あったということですね。解説板をご覧ください。



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2011/11/13

124 北総石仏 柏の石仏 松ヶ崎

大堀川が手賀沼に注ぐところの高台が松ヶ崎になります。ざっくりと表現すると、国道16号線が呼塚交差点でX字上に交わる地点の上のV字に当たるところが松ヶ崎に当たります。昔は松ヶ崎城があったとか。
124-1.松ヶ崎・香取神社の「房総の百選石仏」弁財天
国道16号線の柏警察入口交差点を曲がり250mほど北上します。西側の 畑地と民家の間の細い道路の先に石柱と石段が見えます。3年前の訪問時と比べ、石段右の法地が造成されてずいぶんすっきりしています。
石段を登れば見晴らしのよい香取神社境内です。天文六年(1537)創建されたと伝えられ、鍵字の参道を抜ければ昭和60年に本殿修復記念事業で手入れされた境内が気持ちよく迎えてくれます。
さて、石仏ですが石鳥居をくぐればすぐの左に、二手青面金剛塔の研究で有名な遊行僧のような合掌型青面金剛像塔がおわします。

宝暦三年(1706)造立で横田甲一氏論文で「・・遊行僧のような・・頭巾状の・・山袴又はスカート状の・・帯はゴムホース状・・」の記述どおりの石仏です。当地は日本の石仏16号の年表には未収載ですが、百選石仏と一緒に見ることが出来るので一見の価値ありですね。
さて《百選石仏》ですが、房総石造文化財研究会が平成11年に出版した「房総の石仏百選」に掲載された石仏を筆者が勝手に略称したものです。当地には本殿右の植え込みに2体の弁財天が祀られています。
さて、下の写真どちらが百選石仏でしょうか?
元禄十六年(1703)種子ウの巳待供養塔
延宝五年(1677)「奉造立弁財天」で個人造立の供養塔?
延宝五年塔は県下最古の弁財天といわれて、これが百選石仏なんですね。だけど元禄塔も蛇冠で鳥居を向背に持ち造形的に安定感があって、僕はこちらのほうが好き。いろいろなご利益を期待されて信仰される弁財天の知識は、Wikipediaでおさらいしておきましょう。
尚、元禄塔の「巳待供養」は日本石仏事典第二版に「・・仏説最勝護国経・・福徳円満経などの偽経で説かれ・・毎月巳と亥の日に供養・・」と216頁に説かれています。
そしてこの弁財天の隣に4基の石祠があります。右側2基は文化八年・明治42年山神宮ですね。後の2基ですが享保元年と読めるのはどうやら熊野神社石祠のようで残りは不明です。
境内に合祀されている八幡社と天神社の堂の並び、北側の民家との境に石塔が並んでいます。
左から嘉永四年・文政三年疱瘡神、寛政の二十六夜石祠
嘉永四年(1851)・文政三年(1820)疱瘡神石祠と、種子ウーンを刻んだ寛政十三年(1801)二十六夜待供養石祠が目に付きます。疱瘡には特効薬はなくて神仏に祈るしかなかった時代の村人の祈りが伝わってきます。そしてこの石祠のならびに百庚申塔が続いていました。

塀際で目に付きにくく又、荒れてもいたのですが46基ほどが確認できました。柏市史で天保十二年(1841)と確認しました。広くない境内ですが結構バラエティに富んだ石仏スポットでした。
124-2.覚王寺の石仏
真言宗豊山派のお寺です。過去帳によると開創は延宝四年(1676)ですが、墓地に伝来の板碑は永享または長享年間(1400年代)と推定されるとか。安置する金剛界大日如来も12世紀後半の可能性が高い千葉県有形文化財に指定されていて、謂れのありそうなお寺です。
が、残念ながら石仏は収穫がないですねえ。
本堂手前を左の墓地へ向かうところに、正徳五年(1715)延命地蔵がおられます。
前列の隙間から、頬かむりの六地蔵が見ええています

又、その並びに六地蔵が3グループかたまっておられます。前列は明和元年(1764)六地蔵・後列左は手拭被りの丸彫り六地蔵グループで享和六年(1721)造立、そして後列右の六地蔵は紀年不明となっています。
あとは水汲み場のそばに、享保十五年(1730)種子ウン青面金剛塔と昭和48年百観音巡拝塔があるくらいです。
享保十五年塔の三猿で左の振り向き猿がひょうきんです
124-3.覚王寺参道入口の石仏群
覚王寺正門から西に真っ直ぐ200mほど進むと変則T字路に出会います。この角に石仏とお堂が祀られている一画があります。
左には向かい合って10基の石仏、右方はお堂と石仏覆屋
 以前、この直線道路は狭い参道となっていたようです。覚王寺の住職らが尽力して拡幅し、散在した石仏をこの一画に集めて祀った経緯が立派な石板に掲示されています。

未登記の土地を地主が寄付登記をしてその後柏市へ移管しようとしたが、その場合譲渡所得税の発生となって負担が掛かることが判明。手続きをやり直したとの素直な経緯が刻まれています。面白!!
石仏群は左列に5基が並んでいます。
左から元禄十三年(1700)アーンク三猿庚申塔、安永八年(1779)バン大日如来塔、天保二年(1831)ウン青面金剛塔、普門品壱萬巻供養塔、寛延三年(1750)大乗妙典日本廻国塔となっています。
右から2番目は文化八年日本廻国塔です
 向い合う5基は左から安永五年(1776)馬頭観音塔、不明石塔・石祠、文化八年(1811)日本廻国塔、文政三年(1820)青面金剛塔となっています。
左:需道(まつど)大権現、右:天蓋付子育地蔵

隣接した覆屋内は天保二年(1831)子育地蔵が子を抱きかかえています。天蓋付きとは珍しいですね。その脇は文政八年(1825)需道大権現石祠が祀られていました。待道ですね。
124-4.万松寺
柏市年表に天正五年(1577)開山と記された曹洞宗寺院。現在は無住で長全寺の所管。入口通路突き当たりに石仏がぽつんと祀られたシンプルなものです。

宝暦七年(1757)と安永二年(1773)が混在した六地蔵と宝暦五年(1755)延命地蔵が迎えてくれます。ちょっと殺風景かも。
124-5.三郡境のお不動様
松ヶ崎地区の西のはずれは高台の際になっています。今は竹林で眺望がききませんが、下から石段が上りついたところが松ヶ崎湧水の掲示があるところです。手水石と首のないお大師様が残されています。本当は「三郡境のお不動様」が祀られていたところでもあったようです。葛飾郡・相馬郡・印旛郡の三郡がであった場所なのでしょう。詳しくは下の解説板をご覧ください。
こちらには不動堂があって、倶梨伽羅不動明王が祀られている筈ですが見当たりません。湧水跡に御神水の碑があってその傍らに不明な石仏(地蔵?)が置かれているばかりでした。
松ヶ崎はこれまでとしましょう。

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