2012/05/10

135 北総石仏 柏の石仏 船戸

小青田から常磐自動車道の高架を抜けると、船戸地区に入ります。地区の中ほどに船戸ふるさと会館という自治会館を目指します。
135-1 船戸ふるさと会館前の庚申塔
船戸ふるさと会館前は四つ角の交差点です。広い駐車スペースのある空き地の際に、石灯籠も含めた9基の石造物が祀られています。

左端の2基の石祠の後ろにも2基あり計9基の石造物が並んでいます
右から宝永六年(1709)六臂合掌青面金剛塔、寛延三年(1750)文字庚申供養塔、元文五年(1740)・宝暦五年(1755)六臂合掌青面金剛塔となっています。石灯籠は紀年も不明です。
右はかろうじて山神と読めます、後ろにも2基の石祠です

左端石祠で山神と読めるのは市史によると天保七年だそうです。あとは文政十二年道祖神・弘化二年待道大権現石祠らしいのですが不明石祠とともに剥離がすすみ今では全くわかりません。残念。
船戸会館では 「船戸のおびしゃ」が1月20日前後の日曜日に行われているとの表示がありました。「おびしゃ」は北総で新春に行われる豊作祈願の神事です。解説板をどうぞ。
的射のない「おびしゃ」というのも初めてです

135-2 医王寺
ふるさと会館の四つ角を北西方向にすすむと、薬師如来の立像がある真言宗豊山派の医王寺です。やっぱり薬師さんだと医療関係なんだと今頃気付き納得しています。
右端は門柱。観音の足許に道標入り一石六地蔵が置かれています
紀年不明ですが、左水海道と読めます

医王寺の山門は石柱になっています。参道右に4基の庚申塔が並んでいます。
参道右に庚申塔、左に供養塔が整列しています

左から延宝七年(1679)文字庚申塔、享保三年(1718)二童子付ショケラ持青面金剛塔、元禄十二年(1699)と享保十四年(1729)の六臂合掌青面金剛塔になっています。久々の二童子です。
参道左は文政二年(1819)十九夜塔・明治22年観世音菩薩塔・文化十一年(1814)光明真言供養塔など重々しく並んでいます。
この先も石塔が続きます
本堂手前に宝篋印塔と延命地蔵が祀られています。この延命地蔵の台座に「十五佛供養」と読める文言が刻字されていますが何でしょうか?十三仏刻字が崩れたのでしょうか。
台石刻字は十五or十三?

 「不動明王・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿閦・大日
虚空蔵」の四如来・一明王・八菩薩を十三仏と称しています。真言宗の日常お勤めにも、十三仏の真言を唱えることになっています。地蔵の真言は「オンカカカビサンマエイソワカ」だったと記憶していますが。すすんだ先に墓地があります。墓地の入口にも六地蔵が並んでいます。中央には文化二年(1805)の金剛界大日如来が祀られていました。
135-3 船戸天満神社

医王寺の東方500m、利根川べりの台地東端に船戸村発足の元和二年(1616)から開創の天満神社があります。
道路沿い左に庚申塔が並び、写真右には浅間碑のある小山があります

平成19年には立派な本殿に改築されています。
船戸地区の石祠石塔はここに集中したかのように思われるほど多いのですが、道路整備や地元有力者の協力など豊富な資金で石祠類を立派に陳列した効果が眼の錯覚を生むようです。
道路沿いの庚申塔5基を見てみます。左から順に載せておきます。
寛政五年(1793)異体字の庚申塔です
台石の三猿は半被を着ています
宝暦十一年(1761)
安永三年(1774)台石は左側面見猿・正面聞猿・右側面言猿の一猿表示
宝暦五年(1755)
文化元年(1804)踏まれた邪鬼は右向きで波乗りみたいです
 本殿ほ左側に石祠12基が整列しています。
左端天明八年(1788)牛頭天王祠から右端は明和四年(1767)不明石祠まで並びます
三峰神社整備時に持ち込まれたのでしょうか、各地参拝碑の整列です
 拝見させてもらって言うのも悪いのですが、見易く並べられてはいますが風情が足りないので信仰心はなかなか起きてこないだろうなあと思いました。矢張り植樹して年月は必要でしょう。
神社敷地右は護岸工事で 崩された浅間大神碑のある土盛りです。
大正元年日光山碑と明治22年浅間大神碑
135-4 不動堂そばの倶梨伽羅不動塔
天満神社の道路から1本南の道路沿いに朱塗りの不動堂があります。
建物の裏に7基の石仏ですが、全て墓塔と思われ収載しません
船戸村歴史の解説板があるので、読んでおきましょう。つくばエクスプレスの駅名にもなった田中の地名が、江戸時代の田中藩に由来するのはトリビア(素晴らしきムダ知識?)かも。
不動堂の傍に利根運河大師札所のお堂が残っています。その入口脇に文政七年(1824)八十八ヶ所霊場・本尊不動明王 別当醫王寺とした標石が残っています。

この標石の奥の道路沿いに本当に小さな溝状の水溜りがあります。傍に倶梨伽羅不動塔が忘れ去られたように斜面に祀られています。
紀年不明ですがほぼ丸彫りで立派
「梵名は見当たらないが、インドの伝承ではクリカは頭に半月を頂く黒褐色の竜王である・・剣にまとう形が不動明王の三昧耶形(象徴)であるところから倶梨伽羅不動という・・造立目的は水神として・・・修験道の行場や不動を祀る境内あるいは滝や遊水地に・・」(日本石仏事典第二版)
房総の石仏百選で、船橋飯山満・倶梨伽羅不動堂の石仏が紹介されていますが普段見ることはできません。又、このブログで東京豊島区金乗院の石仏を紹介したこともありますが、金網のなかでの保存で丸彫りではなかったですね。約1mの大きさと質感十分で、筆者は百選にこちらを推したいですね。参考までに金乗院のものを下に再録しておきます。

(参考)金乗院の寛文六年足許に三猿の不動庚申塔
153-5 三峰神社
不動堂の脇にある坂道を登っていくと三峰神社に出ます。公園風に整備され神社の面影はありません。
昭和28年まで三峰神社に代参したとか
除却した三峰社を平成11年にこの社に立替したとの碑文が、脇に書かれています。石仏は見当たりません。
153-6 薬師堂本坊
船戸ふるさと会館の西方50mのところに、薬師堂本坊の地図表示がある墓地があります。敷地内に赤瓦葺の建物が薬師堂のようです。道路からの入口通路に十数基の墓塔が並んでいます。中に寛政六年(1794)聖観音浮き彫りの普門品供養塔が交じっています。
 その奥にも首を後遺した寛政元年地蔵塔がありますが、ほかにめぼしい石仏はありませんでした。
153-7  善哉庵(ぜんざいあん)
三峰神社の南方50mに善哉庵という墓地があります。入口脇に紀年不明の六地蔵があります。
善哉が仏教用語に由来するとは無知でした、反省

善哉は「賛意・賞賛」の意でサンスクリット語sadhuの漢訳。仏教語で仏が弟子に「それでよい・実によい」と賛意を表したとか。善哉が汁粉を表すようになったのは、これを食べた僧があまりの美味しさに「善哉」と賞賛したからとの説も・・・・・語源襲来辞典から参照引用
敷地内には平成六年に改築された観音堂が建てられています。

とりあえず今回はこれまで。

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