2012/10/31

145E 浦和の石仏Ⅱ

20年前の日本石仏手帖埼玉編に載っている「浦和の石仏」を巡ります。北総と違って埼玉は板碑の文化圏です。前回は、浦和博物館で板碑を見学してからの出発でした。
145E-1 眞福寺の阿弥陀三尊板碑
国道17号沿いに浦和別所小学校があります。南接して、「船をつなぐ為に逆さに打ち込んだイチョウの杭が根付いた」といわれて有名な逆さイチョウの眞福寺があります。本堂と道を挟んだ墓地内に市指定文化財の正和三年(1314)板碑があります。今は六地蔵と同じ覆い屋に収蔵されて大切に保存されています。
格子に阻まれて168cmの全貌を捉えきれず、下の3分割写真になりました。
中央・阿弥陀キリークに、観音サ、勢至サク
中央部に光明真言
右下に「諸悪莫作 諸善奉行・・」と七仏通戒偈が読めます
解説板に鎌倉後期の典型的な板石塔婆と記載されています
 逆さイチョウの傍にも享保十二年宝篋印塔・天保五年出羽三山百観音
塔・寛延二年善光寺四十八番 ?供養塔などが並んでいました。
後ろの大木が逆さイチョウです
145E-2 大谷場庚申塔
浦和競馬場の南に大谷場小学校があります。敷地の北西角に寛文八年(1668)大谷場村講中の三猿庚申塔が祀られています。
中央部に三猿で板碑型、早い時期の庚申塔です
145E-3 二十三夜
県道34号産業道路に二十三夜交差点があります。交差点の北100mに歩道橋があってその東側に天保三年二十三夜塔が立っています。この地は祈念堂があって月待信仰が盛んでした。「天保三年(1832)廃堂にあたりこの石塔を建立したと伝えられています」との解説板が傍にあります。
145E-4 行弘寺の百不動尊供養塔
二十三夜塔から300m北進したセブンイレブンの西方斜め向かいに行弘寺があります。道路沿いながら一段低い境内で見過ごしてしまいそうです。日陰のがけ下に、幕末期安政六年(1859)再興の足立百不動尊供養塔が祀られています。壱番中尾の玉林院から百番行弘寺まで浦和48寺を最多に、川口・鳩ヶ谷・戸田・大宮・与野・蕨に及んで信仰巡礼されていたようです。
( 浦和市教育委員会解説板)

右上に壱番玉林院から左に続きます
傍に「高欄供養」の石塔がありました。
委細不明ですが、橋供養の類でしょうか?
145E-5 中華食堂日高屋駐車場の猿田彦?
県道35号線産業道路沿いでガイドには長崎ちゃんぽんの表記ですが、確かに当時は「リンガーハット」の特徴あるとんがり屋根の塔がついた建物が今は日高屋に変わっています。駐車場三角形の頂部にお堂のような覆い屋があります。
元禄十三年「奉侍庚申供養塔」の台石ですが、石仏は別石?
石仏は欠損した六肘で印相は不明です。ガイドブックは猿田彦の表記ですが、時期的にも様相からも違和感がありますね。憤怒相から類推すれば青面金剛と思われますが、地域では猿田彦と呼んで知るかも知れません。
隣にも覆い屋があって、崩れた馬頭観音と庚申供養石灯篭が祀られていました。
145E-6 セブンイレブン駐車場の青面金剛塔
約800m北上すると大田窪北の交差点にセブンイレブンがあります。敷地北の耳鼻科との境壁際に、青面金剛塔が自転車に囲まれて立っています。
元文二年(1737)六肱合掌青面金剛
台石の三猿はちょこんと座った形で可愛い姿です。
145E-7 玉蔵院墓地の六地蔵石幢
大田窪北の交差点を北西上して200mで田口石材店です。この角を北上すると左が市営墓地でその北に玉蔵院墓地です。玉蔵院は前回144E-5で「守護侍の杭」を見学したお寺です。墓地の西隅に無縫塔などがある歴代住職の墓所があります。その入り口に2基の六地蔵石幢が建っています。
左が寛永十五年(1636)で右が元禄三年(1690)
 しかし、ガイドブックには位置表示が無いので墓地内を歩き回り本当に疲れました。本稿のグーグルマップのポイントは正確ですから大丈夫。
145E-8  大谷口火の見下の庚申塔
県道1号線はバイパスになって広い道路に整備されました。いまやガイドブックに表示された火の見の痕跡はありません。庚申塔は別の場所に移設されていました。
明和七年(1770)の立派な青面金剛塔
旧県道1号線の国際興業浦和行バス停の向かい角に、単独でぽつねんと立っています。バイパスの立派さに比べ、石仏への処遇の対比に絶句してしまいました。
145E-9 広ケ谷戸の庚申塔
400m北上したセブンイレブン向かいにこの庚申塔があります。生垣に隠された覆い屋に鎮座しています。市内最古(ガイドブック表記)の寛文四年(1664)のショケラ持六肱青面金剛塔です。
頭部顔面の劣化で容貌が不明が惜しい

二童子と御幣(鈴?)持ち二猿、四夜叉、二鶏と豪華な庚申塔です
 とりあえず、これまでとしましょう。


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2012/10/20

144E 浦和の石仏

埼玉県さいたま市浦和区に遠足拝観をしてきました。日本石仏協会編「石仏手帖埼玉篇」は24年前のガイドブックですが、今も立派に通用するようです。埼玉県は板碑文化圏なので、当地でも立派な板碑を拝見できました。
144E-1 さいたま市立浦和博物館(緑区三室・市立病院隣接)
いきなり博物館では興ざめかも知れませんが、市内の指定板碑の概要を知ることが出来るので便利です。また、文化財マップをいただけるので要領よく見学できるルートが見つかります。おまけに、5基の陳列板碑を写真に収めることもできますよ。
上段右から2列目に市内最古の図像板碑・延慶三年(1310)→拝観にGO!
文明17年・勢至菩薩を刻んだ板碑2基1組の右側片割
上の板碑の解説で、貴重な図像板碑だと分かります
144E-2 上野田東台墓地の延慶三年板石塔婆
いきなりガイドブックの番外ですが、博物館で所在を確認できたので拝観しました。市内最古の図像板石塔婆(以下板碑と略称)とかで身近に実見できるのは貴重です。
延慶三年(1310)飛雲に乗った阿弥陀と蓮台に乗った観音・勢至
陽刻の主尊と陰刻の脇侍は珍しいとの記載
東台墓地は狭くて細長い地区民のプライベート墓地のようです。板碑と共に宝暦七年宝篋印塔・文化七年三十四番札所塔・寛政七年地蔵塔なども祀られています。
左側に解説板と板碑・宝篋印塔などが並んでいます

144E-3 廓信寺(かくしんじ)の阿弥陀一尊種子板碑
JR北浦和駅東側の県道164号線を400m北上すると歩道橋があります。その下から廓信寺の参道が続いています。隣接の厚徳幼稚園が目印です。
本堂右手前にコンクリート造りの収納庫があってその中に、板碑と小泉蘭斎 という教育者の墓碑が安置されています。
ガラス反射で見辛いですが、阿弥陀種子キリークが大きく見えます
元享四年(1324)の阿弥陀一尊種子板碑です。内容は下の解説板をご覧ください。
この解説板の右半分は小泉蘭斎の教育者功績が載せてあります
浄土宗のお寺ですが、お庭に瓦で宗紋(=月影杏葉)をかたどった意匠が描かれています。
法然上人ブロンズ像と、手前に月影杏葉が見えています
144E-4  「御免 毎月二・七市場定杭」
廓信寺からJR浦和方向へ約2km南下すると、赤い鳥居とあっけらかんとした参道のある慈恵稲荷が見えています。この参道脇に囲いのある祠と、天正十九年(1591)「御免・・・市場定杭」が立っています。
囲いの中に市神祠と石杭が祀られています
 当所は「浦和市」と呼ばれ二・七のつく日に開催される六斎市でした。周辺では、一・六の蕨、三・八の鳩ヶ谷、四・九の与野、五・十の大宮などで市が設けられ、毎日どこかで市が開かれていたとその賑わいを解説板が語っています。
今なら産業遺構と表示されるのでしょう
 参道を進んだ慈恵稲荷社には、天保十三年の文字庚申塔がありました。
144E-5 玉蔵院の「守護侍不入の石杭」
市場定杭から500m南下し、三井住友銀行浦和支店の角を西に曲がり通ります。表通りの1本西側の道路を南に進めば平安時代創建といわれる古刹玉蔵院です。ガイドに記す「支配者の寺中の検断権を拒否する意」を表す「守護侍不入の石杭」はこの寺にあります。
守護侍は守護使の誤りだろうと解説板の記載、場所は正面右手事務所入り口脇
 当寺には正徳六年(1716)寒念仏地蔵塔、享和二年(1802)日本名山奉拝礼供養塔、宝暦五年(1755)大日如来などが点在しています。
正徳六年寒念仏供養塔
宝暦五年胎蔵界大日如来
 144E-6 調神社(つきじんじゃ)のウサギ像
さらに700m南下すれば調神社が左手にあります。調宮(つきのみや)即月宮殿に議せられ月待信仰の聖地らしいのです。
門柱にうさぎの像が祀られています。
台座にウサギですが、近くで見るとモルモットのごとく見えます
手水にも龍でなくて兎がいます
144E-7 醫王寺の大板碑
白幡2丁目の白幡中学校の南に真言宗豊山派醫王寺があります。本土前に現高2.4mの阿弥陀一尊種子板碑がたっています。
市指定文化財で完形なら4mはあろうかという大きさ
 延慶二年(1309)の阿弥陀一尊種子板碑です。
薬研彫りキリークの下に梵字光明真言
下部中央に延慶二年銘、右に「率都婆」表現
 詳しい解説は下の解説板をご覧ください。
当寺には仏足石や鐘楼門・薬師堂などもあって興味深く過ごせます。
144E-8 白幡観音の六地蔵
醫王寺の南方600mの歩道橋のかかる中山道沿いに白幡観音堂があります。むしろ墓地内のお堂という感じです。こちらに正保元年(1644)市内最古の六地蔵が祀ってあります。
右端は天明四年(1784)日本廻国塔です

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2012/10/10

143 房総の二百仏 野田市の石仏

パソコンソフトの不具合でネットがつなげず不便に過ごしました。また、ウイルスに感染し、OSの再インストールに泣きました。暑く辛い日々でしたが、ようやく彼岸花が石仏に映える秋の気候になりました。気持ちよく過ごしたいものです。
◎房総石造文化財研究会編集の「房総の石仏 百選」「続房総の石仏 百選」(=略称二百仏)をテキストに利根川沿いに南下していく予定です。
「房総の石仏 百選」石仏ではNo.1~100、「続・・百選」石仏はNo.101~200の番号を付してご紹介します。
143-1 木間が瀬・水神社の浅間山噴火供養塔(続百仏 No.158)
石仏のジャンルに災害供養塔(碑)があります。主として天災(噴火・津波・飢饉など)が多いですが人災(永代橋溺死・水難など)もあってその時代世相の厳しさをよく記録しています。
「水死諸聖霊乃至諸畜類」供養塔
天明三年(1783)に始まる「天明の大飢饉」は、前年の長雨による不作と天明三年の冷夏そして 七月の浅間山大噴火とつづく異常気象が原因でした。浅間山噴火に伴う被災は、利根川沿いに無数の仏が流れ着いた状況が偲ばれこの寛政元年(1789)浅間山噴火供養塔に「・・螺蛻出数万人之水死不知其数哀哉・・」と石碑側面に記されています。
神社は三方を畑に囲まれ背後は利根川堤防です

この石仏は利根川堤防の下に位置する野田市木間が瀬の水神社に祀られています。
右から4基目が噴火供養塔で隣の背高塔は昭和8年8月事故の水難追悼碑
上の写真のように石仏が並んでいます。写真左の方もに庚申塔や石祠が並んでいます。
右の角は延享四年(1747)、その左は天明八年(1788)の青面金剛塔
 宝暦六年大乗妙典塔・天明三年山神宮・享和三年天満宮石祠など村の信仰の歴史が静かに遺されていました。
近くに豊穣の神様大黒天があるので見ておきましょう。
143-2 野田市下根・勢至堂の大黒天(百仏 No.53)
 水神社の南西1.5Kmの下根に地図上で勢至堂の表示がある集会所があります。(ガイド地図の薬師堂位置は誤記)こちらの敷地南側境界に甲子待主尊の大黒天像が祀られています。
左端は文化七年子待供養塔・角柱は天保六年大乗妙典塔・自然石明治26年二十三夜塔
 大黒天はヒンドゥ教のシバァ神の化身と言われ豊穣の神様です。民間信仰での大黒天は子宝の神様とも言われます。
享和三年(1803)の大黒天は両俵に乗る典型像塔です
北総の上限部は北関東の甲子待信仰が盛んでこのような像塔がよく見られますが、南下した成田や八街などでは数少なくなってきます。唯、福神としての単独の大黒天信仰は恵比寿・大黒として幕末期以降流行して祀られたということのようですね。(日本石仏事典第二版P72)
福神の典型は下の写真のように現世利益があらたかな大黒天でしょうか。
143-3ご参考 東京谷中・善性寺の大黒天
東京谷中・善性寺の大黒天、背中に小槌・両手で大判振る舞い?
 JR日暮里駅そばの長享元年(1487) 開創と伝えられる善性寺(東日暮里5-41-14)には、伝安土桃山時代の大黒天がおられます。 対比の妙でこちらの大黒天こそ江戸文化の象徴のように思えますが。ちなみに、善性寺は昭和の名横綱双葉山と石橋湛山のお墓があるお寺です。

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