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2008/12/07

9.北総石仏 印西永治Ⅰ

今回は木下街道(県道59号)を挟んで印西市永治地区の石仏を見て回ります。テキストは印西教育委員会発行「石との語らい」です。百庚申・平成20年三山塔・安産感謝記念物など見どころ満載です。
9-1.浦辺百庚申 
国土地理院の地図で庚申前の地名表示がしてある場所の県道沿いに朱入百庚申が並んでいます。中尊は文化四年(1807)の刻像塔ですが左右に居並ぶ庚申文字塔各九基毎と十基目の青面金剛刻像は何れも天保十年(1839)となっています。是だけのものが交通量の激しい県道に面していても車で通ればほとんどの人は気づかずに過ぎてしまいます。だけど、100基を歩いてみればまさに「感動した」ことに気づきます。武西にも印西市指定の百庚申がありますが、こちらのほうが保存・環境とも良好と思います。
全体に傷みが来ていますが写真の青面金剛刻像塔のようにしっかりと羂索を袈裟懸けしたものもあります。
又、この地区は出羽三山信仰が盛んな地区で三山供養塔8基や二十三夜塔などもアクセントのように置いてあります。写真は金剛界大日如来の種子バーンクを立派に刻んだ三山塔です。右は安政三年(1856)の二十三夜供養塔です。
庚申塔ばかりでなく大きな出羽三山供養塔などゆっくり見たいものですが、交通量も多く注意が必要です。
9-2.百庚申脇の庚申塔 百庚申が途切れるところの民家一軒を置いて、生垣に囲まれた目立たない場所に庚申刻像3基と三山塔2基があります。両脇が昭和の出羽三山供養塔で中の3基が朱入笠付青面金剛刻像塔です。  左に明和二年(1765)、中央が文政四年(1821)、右が下の写真の寛延四年(1751)の笠付青面金剛像です。写真正面右に「是より南江戸道、左は木下云々」と刻まれた道標にもなっています。(江戸かなも勉強しなくちゃ)そして、足元の鬼が正面向き両手グーの形で頭で青面金剛を支えています。この形も私には珍しいものです。       
9-3.白幡消防小屋横の庚申塔

百庚申のある県道59号から西へ白幡道に入ります。この分岐に写真のような道標が看板の陰にひっそりと立っています。裏は東京道と書かれこちら側は石?尊道と読めます。明治か大正のものと思われますが移設もされず頑張っているのを見るとちょっと切ない気持ちになります。

白幡道を少し行くと、右にカーブする三叉路の消防小屋の隣で下の写真のような庚申塔群に出会います。

朱入文字庚申塔8基、朱入青面金剛刻像2基、三山塔1基が花と木に囲まれています。享保九年(1724)のショケラ持ち青面金剛は鬼が頭で青面金剛を支え、下にいる三猿の聞か猿も両足を広げてストレッチしているのが可笑しい。

もう一つの青面金剛刻像は天保十二年(1841)であり庚申文字塔も天明二年(1782)から昭和41年(1966)まで存在、朱の色も鮮やかでこの地区で今も庚申塔が大切にされていることに感心します。

9-4.一ツ庚申の庚申塔

消防小屋を過ぎて道なりに進むと三叉路となります。ここに朱入笠付の三猿文字塔があります。寛文十二年(1672)で左側面は蓮華が浮き彫りです。鮮やかな朱色を見ると信仰が今に息づいているかも知れないと驚いてしまいます。

9-5.白幡山吉祥院の如意輪観音

一ツ庚申の別れ道を右にとる。程なく突き当たるので矢張り右へ道なりに行くと竹林の坂を下り始めるが、その手前で右にあがると吉祥院の建物のある広場に出ます。区画整理のためか浮島のように石仏石塔が固まって置かれています。下の写真中央には読誦塔を真ん中に大きな笠付き墓碑3基、そしてそれを取り囲むように如意輪観音や十九夜塔、子安塔等20基余りが並んでいます。

上の写真左から十九夜塔は平成4年(1992)、昭和46年(1981)、昭和29年(1954)、昭和9年(1934)、明治38年?(1905)以下不詳と並んでいます。何れも乳飲み子を抱えた子安塔であり子の無事を祈る気持ちが朱色とあいまって切ないように迫ってきます。

右端の如意輪観音(上の写真)は寛文九年(1669)で永治地区最古とテキストに表示されていますが、私には年代は読みきれませんでした。尚、このほかにも左方に天保十年(1839)十九夜塔、二十三夜文字塔などがあります。

9-6.白幡八幡宮の参拝塔群(平成20年の出羽三山供養塔発見)

吉祥院からもと来た道を戻ります。一ツ庚申へ戻らず直進するとT字路状の変則十字路に出ます。その路傍草むらに馬頭観音が3基見えます。左が明治28年(1895)真中は不明、右が安政五年(1858)の文字塔です。この道を農耕馬や荷車を引いた馬が行き交っていたのでしょう。供養されるほど人と馬が親密な関係に合った時代がつい百年前まであったのがこの証です。ところで真中の文字塔の種子はなんだろう?読めないよ?

この辻を右折し道なりでうっそうとした森の中を通り抜けます。左に鳥居が見えるとこれが白幡八幡宮です。薄暗い境内です。特に左側に参拝供養塔が立ち並んでいます。

上の写真6基も両端は昭和37年、昭和44年出羽三山塔ですが、あとは昭和41年・43年伊勢講・大正2年大山講・昭和33年金毘羅参拝塔が並んでいます。農村の人々の信仰と参拝ツアーの熱心さがこんな形で残っていました。この地では伊勢講は他に石祠もあって大正~昭和にかけて特に活発に行われたようです。他にも宝暦十二年(1762)子安大明神石祠、寛政年間の疱瘡神石祠、天保九年(1838)月讀尊石祠、天保五年?(1834)石祠昭和9年三峯神社石祠など民間信仰石造物がオンパレードとなっています。 それらの痕跡が現代に引き継がれた極めつけはこれ、平成20年三山塔であります。今回はこれにて打ち止めとします。

2008/11/15

6.北総石仏 印西大森Ⅱ

印西市大森地区の石仏を見て回ります。テキストは印西教育委員会の「石との語らい」です。僕のような初心者にはこのコースだけでも沢山の石仏石碑があって楽しい発見が出来ました。
  6-1長楽寺の庚申塔

長楽寺の入口で北向道祖神が集団で迎えてくれます。期待が膨らみます。

坂を下っていくと右手に本堂を横切るような格好になります。本堂の前に県有形文化財となっている当寺の梵鐘の説明版があります。九世紀前半に創建され応安二年(1367)に寄進された梵鐘について解説されています。本堂に一礼後読んでから更に左手方向の山門をくぐり階段を登れば観音堂左手に庚申塔が八基揃い踏みです。 左から明和?年の青面金剛王・文字塔、明和四年(1767)合掌型六臂像、享保十年(1725)ショケラ持ニ鶏付六臂像、享保七年(1722)ショケラ無六臂像、寛延四年?青面金剛尊文字塔、宝暦十三年(1763)ショケラ持ニ鶏六臂像と続きます。次は

「おおっー」と思わず驚きの声を上げてしまいます。なかなかお目にかかれない豪華キャストの正徳五年(1715)青面金剛像です。ショケラ持ち、ニ童子、三猿、ニ夜叉、ニ仁王付です。特に仁王というのが気に入りました。青面金剛の経軌(陀羅尼集経・第九)では四臂三眼ニ鬼ニ童子四夜叉のようですがメンバーは多ければ多いほど功徳もあるでしょう。 右端がこの地区最古の天和三年(1683)の三猿文字塔です。

6-2大森変電所前の庚申塔

長楽寺から県道4号千葉竜ヶ崎線を南下します。およそ700mほどで左手に東電の変電所が見えてきます。その県道をはさんで右手に四基の庚申塔です。 左から嘉永五年(1852)、寛政七年(1795)、文化九年(1812)、文化二年(1819)です。丁度小さな川を渡った村境の位置にあります。左から2番目の合掌型正面金剛は宝輪は右手に持ち左手第1手はクルスの様な法具をもっています。

6-3鹿黒公民館前石仏

公民館の裏手の道沿いにこのように並んでいます。左手は明治三十一年の馬頭観音文字塔です。写真中央に見えるのは正徳四年(1714)刻像馬頭観音です。その隣が十九夜塔、大六天となっています。馬頭観音は馬乗りではありませんが三面ニ臂で状態のよいものです。

この石仏の側に安政四年(1857)の咳神様が鎮座しています。すっきりとして霊験あらたかそうです。 尚、この公民館がある四つ角に「南 庚申・・」と刻んだ道標が立っています。 「西 和泉・小倉道」と読めます。 6-4鹿黒火の見下の石仏群 公民館の先に火の見が見えます。その三角状の土地にこのように21体並んでいます。テキストには貞享三年(1686)等十九夜塔8基、庚申塔7基、元禄三年(1690)刻像二十三夜塔、享和二年(1802)子安塔、花見地蔵1基の18体となっています。 これは花見地蔵です。(欠)見堂の文字が読み取れます。 ところで石仏を数えてみると21体あり、うち像容不明2体でした。差し引きすると1体合いませんがこれは下の二十三夜文字塔が記載省略されていたからでしょう。この二十三夜文字塔左側には「左 江戸みち」と読めます。道標を兼ねていたようです。 6-5鹿黒八幡宮の石祠 400メートルほど道なりに進むと右手角に共同墓地があります。その角の道を右に下ってすぐ左手に鳥居が見えます。階段を登っていけば鹿黒八幡宮です。社の左手奥に石碑が点在しています。このあたりあたりは伊勢講が盛んだったのか大正10年、昭和30年、39年、41年、43年、平成6年の伊勢講関係石碑「天照皇太神宮(内宮)豊受大神宮(外宮)」を刻んだものが点在しています。足元にご注意ください。 ここでのハイライトは正徳三年(1713)天満宮石祠です。しっかりした道真公の像が拝めます。この時代も多分子供の学問上達をお祈りされてきたのでしょう。続いてこちら。 稲荷大明神の石祠です。鳥居の前に阿吽の狛狐がいます。思わずカワユイといってしまいました。この境内には大杉神社・足尾山・金毘羅山石碑等があり民俗信仰が盛んです。こちらを後に元の道を共同墓地まで戻ります。

6-6.鹿黒共同墓地の十九夜塔

墓地を上ると通路沿いに下のように四体の十九夜塔です。左奥から延宝五年(1677)元禄五年(1692)寛文十年(1670)元文二年(1737)と江戸時代の古いものが多い。

6-7鹿黒三叉路入口の石仏 来た道を戻り県道4号に突き当たる。道路向かいのミラーの先に細い道が民家に入るように見えている。この角に石仏が草に埋もれていました。地場の方に聞けば「昔はこのあたりにあった筈だが・・」とのこと、勘を頼りに雑草が覆っている隘路を掻き分け見事発見。 下の写真で左奥が道路からの入口で嘉永七年(1854)文字馬頭観音です。

その横は右の二体の馬頭観音の台座と思われます。天明四年(1784)天明二年(1782)の馬頭観音です。台座から下ろされて草むらに横たわって埋もれていました。 その奥の草むらをなぎ倒し見つけたのが下の写真左に見える嘉永四年(1851)の出羽三山塔供養塔です。 三夜塔とは何じゃ?と思いましたが二十三夜塔のことだそうで「丙午弘■」となっていたので弘化三年(1846)と読んでみました。もたれかかっているのは天保十一年(1840)の猿田彦大神の文字庚申塔でした。疲れた! 本日はこれにてお終い。