路傍や社寺の片隅にある石造物に心惹かれて。 出来ないことを数える人生でなく、出来ることを数える人生を歩みたいと思います。ホームグラウンドの房総の石仏(主に北総)を巡ります。時々Eシリーズで近県へ遠足拝観を行います。文末の地図は拡大表示ができ、マークをクリックしてごらん下さい。 このブログは筆者の備忘録のつもりで記載を始めたものです。東日本大震災前の記録も多く、現状と相違している場合もあるのでご承知願います。 10年ぶりに見直したところ、Google地図が仕様変更となって、地図のリンク切れが散見されました。分かる範囲で復旧するつもりですが、更新記事は地図再掲のものが主となります。
2009/08/25
46E.伊那 高遠の石仏Ⅰ
お盆に伊那の山中、高遠へ行ってきました。ここは江戸後期、高遠の石工で名人守屋貞治(さだじ)を生んだところです。石仏写真でよくお目にかかる願王地蔵を一度見てみたいと出かけてみたのでした。テキストは昭和55年高遠町史編纂委員会「高遠の石仏 付石造物」と石仏地図手帳・長野編「石工の故里 高遠・長谷の石仏 守屋貞治仏は招く」を参考に回ってみました。テキストの時代から20~30年経過しているため貞治仏は別として他の石造物の所在・保存状態など環境がかなり変化しています。見つけられなかった石仏も沢山ありブログを参考にされるかたは、簡単な現況レポートという位置づけでお読みください。今回は貞次仏を中心に回ります。
46E-1伊那市南割の庚申塔
伊那ICで降りて天竜川を渡り、高遠へ向かう国道361号線を5kmほど行けば途中に伊那市南割地区があります。国道左に庚申塔などの石造物が並んでいます。下の写真のように左区画に昭和55年庚申塔・寛政十一年(1799)道祖神がならび、右区画に庚申塔など12基の石造物がまとまって立っていますこのような自然石に刻んだ文字庚申塔と文字道祖神が高遠地区で頻出します。右区画で目に付いたものでは元文五年(1740)角柱型文字庚申塔、三猿つきですね。宝暦十三年(1763)西国巡礼聖観音塔でしょうか?あとは元禄時代の名号塔、明和六年(1769)大乗妙典一千部供養塔、元治元年(1864)甲子塔など仏教民間信仰の石造物が入り混じっています。ここでは甲子塔は目立ちませんが今後頻出するので予備知識を仕込んでおきましょう。「甲子(きのえね)または子の日に、講中または個人で夜遅くまで起きていて精進供養をする行事を子待(ねまち)といい、甲子待(こうしまち、かっしまち)ともいう。子待の供養に造立されたのが子待塔である。」と日本石仏事典に出ています。「子待塔の最古は今のところ埼玉県富士見市にある天和元年(1681)造立の燈篭である」との記載もあります。Wikipediaでも予備知識を仕込んでおきましょう。
事前に高遠町歴史博物館で「高遠の石仏 復刻版」1500円を手にいれると更に便利ですが、残念ながら博物館には石仏関係資料はありません。代わりと言っては何ですが、保科正之公(徳川家光の異母弟)と生母お静の像と目黒成就院にあるお静地蔵を写したものが博物館前に平成21年4月に建立されています。保科正之公については解説板をご覧ください。ここで面白いのは地蔵前の賽銭箱に添えられている茶色断り書きに「浄財は名君保科正之公の大河ドラマ化運動等に役立てる云々」とありました。そうか、こういう風に観光誘致を組み立てるのかと大変参考?になりました。
46E-2.高遠・建福寺の貞治仏
さて核心の守屋貞治仏が一番多い建福寺に参ります。建福寺は商店街の一本奥の道路の北側斜面に立っています。建福寺の石仏解説板を読んでおきましょう。石畳・参道石段の両側に石仏のお出迎えです。向って右に渋谷藤兵衛作の嘉永二年(1849)揚柳観音(ようりゅうかんのん)も見ごたえがある観音様です。渋谷藤兵衛も名工といわれ貞治の19歳年下の弟子で、貞治の20年後嘉永六年(1857)になくなっています。楊柳観音は「観音の慈悲は、楊柳が春風になびくように、衆生の願いに応ずるところから生まれた観音様で右手に持った楊柳が三麻耶形(象徴)の観音である」=日本石仏事典第二版に載っています。三十三観音の筆頭で独尊では極めて珍しい石仏です。合掌。石段左は貞治作の延命地蔵大菩薩と表示があります。しかし、私の持っている昭和55年「高遠の石仏」ではこの延命地蔵は「渋谷藤兵衛作といわれる」と記述され、貞治の手控「石仏菩薩細工」に記載のある延命地蔵・建福寺は不明となっています。何時の間に貞治仏に復活したのだろう?実はこの延命地蔵は写真で見るように石が甘く裾の流線形が荒れています。地蔵の顔もやや角型で「連弁線の太さや作風がおおらか、貞治と異なった量感のある逸品である=高遠の石仏」との記載も頷け、心情的には貞治仏に与したくないのですが・・・??この寺にある貞治仏の傑作・願王地蔵菩薩と比べてみてください。
建福寺は実は門前が石仏ワールドになっています。石段右の揚柳観音の上段は貞治作の六観音が並んでいます。その並びに貞治顕彰碑と解説があります。更に離れた大岩の高みには不動明王が鎮座しています。台座に「但住衆生心相之中」と刻まれています。年不明ですが露座の割りにしっかりした像容です。石段左側は延命地蔵の写真のバックにあるような西国三十三観音のお堂が三段に分かれて並んでいます。西国三十三観音をWikipediaで確認しておきましょう。石仏の代表選手を載せておきましょう。一番那智山青岸渡寺の一面六臂如意輪観音では右手は反手となっています。新発見。二番紀三井寺の十一面観音はこちらです。三番粉河寺の千手観音はこちらですが、「千手千眼自在菩薩ともいい、千の慈眼千の慈手で衆生を済度するので大悲観音ともいう」・・日本石仏事典に載っています。九番興福寺の不空羂索観音はこちらです。Wikipediaで不空羂索観音を勉強しておきましょう。一面三目八臂が一般的と載っていますが、貞治仏では六臂で与願印を結ぶ二臂が見当たらないようです。
次は十一番上醍醐寺の准胝観音です。一般的な一面三眼十八臂になっているでしょうか。この像で面白いのは蓮華座を支える難陀(なんだ)跋難陀(ばつなんだ)、という釈迦などを困らせた六人の弟子のうちの二人がいることです。33観音中この像でしか見られません。
次は二十九番松尾寺の馬頭観音です。宝馬を頂き三面六臂の憤怒相です。やっぱりいいですねえ。
中段のところに首を後補した文政十年の聖観音の百観音巡拝供養仏があります。「高遠の石仏」では貞治仏に入れたいけれど不明仏と気にしています。
この貞治仏ワールドの西側に9基の石造物が一列に並んでいます。左から4基は顕彰碑でしょうか、昭和12年小松一雄先生碑・昭和2年白鳥先生碑いずれも高遠出身の画家で書家の中村不折の筆に因っています。書体を違えて揮毫していますね。この隣は昭和28年六波羅千代碑・三?峰先生碑となっています。この右方には上部が欠けた大乗妙典一千部供養塔・寛政十二年(1800)庚申塔・年不明庚申塔・万延元年(1860)庚申塔・文久元年(1861)文字馬頭観音が続いています。ひとまず、門前拝観を終えて山門をくぐりましょう。お寺の由緒は山門脇のこの解説板を読んでおきましょう。左の燈篭の陰には既出した貞治作願王地蔵菩薩がこのように祀られています。また、境内右方に天保六年(1835)仏足石が造立されています。仏足石には恭仏跡一十七首之碑が直立して建てられていて、万葉がなで書かれているとのことですが薄くて全く読めませんね。以上で建福寺をあとにしますが、貞治作の西門脇お堂内・佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵と墓地内・斉藤氏願主の聖観音像は見ておりません。
46E-3桂泉院の貞治仏
建福寺から約3km東方の山中に桂泉院があります。こちらには3体の貞治仏です。まず、石段右に准胝観世音菩薩、左が延命地蔵菩薩でいずれも文久三年(1820)で貞治56歳の作だそうです。見て分かりますね。尚、准胝観音の右に寛文五年(1665)の地蔵六面石憧が置かれています。この地では六面石憧によくお目にかかることになります。裏の墓地に参ります。武田信虎公の墓を目印にしてその上部に住職墓地があります。そこに貞治仏の表示で可愛らしい聖観世音菩薩像が祀られています。更に上段石垣内住職墓地に貞治仏表示はありませんが、宝珠を持った延命地蔵菩薩が鎮座しています。一目で貞治仏とおもわれるのですが、台石に刻まれた建立が嘉永元年(貞治没後十六年)となっており「高遠の石仏」でも疑問の1体と載せています。
境内には塚原卜伝の墓や長野県宝の文和四年(1355)の梵鐘などがあります。戦国時代など梵鐘は戦利品として引きずってくることがあり、乳と呼ばれる突起が欠けているのを見るのも歴史の勉強になります。門前に戻ると、石段を登る手前に石塔が2基あるので確認しておきましょう。右に年不明・大乗妙典一千部供養塔が置かれています。左に二猿の延宝八年(1680)二猿笠塔婆型庚申塔、側面に鳥が彫られています。桂泉院へ上る道路角に年不明の立派な二十三夜塔が置かれていました。
46E-4.常盤橋西袂の貞治仏・不動明王
荒川三峰(みぶ)の水切不動として文化文政のころ勝間の人々により建立され、幾度かの変遷の後ここに祀られたものとテキストに書いてあります。枝垂れた枝葉で車上からは分かりません。橋の傍からお参りできるのですが、足場が悪く踏み外せば下の岩場に真っ逆さまです。信仰心を試すにはよい機会でしょうか?立派な解説板もお読みください。46E-5.市野瀬・円通寺の貞治仏
美和湖の南端長谷溝口から国道152号秋葉街道を約5km南下します。集落に入り市野瀬郵便局が目印です。市野瀬郵便局の手前にある角を右折し細い路地のような道を登れば円通寺の駐車場・山門前に着きます。外観は立派で無住のようには見えません。駐車場にある解説板を見ておきましょう。山門を入って右に、解説板に「心に琴線を感じ・・力強いものを感じる・・」との説明がある聖観音像がおわします。教育委員会の解説にしてはえらく感傷的な表現です。一方の左には杓杖と宝珠持ちの延命地蔵が左足を前に出した姿でおわします。貞治仏は一定のスタイルとでも言うのでしょうか、実に写実的に仕上げ微塵も揺るがない信仰心を全体に表現していると私は思っています。
貞治仏はこれくらいにして、次回は文字庚申塔や双体道祖神・普段見られない石仏を杖突街道沿いに見て行きましょう。
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1 件のコメント:
はじめまして。突然ですがコメント致します。
神奈川県山北町に住み山北町の自然や文化財など資源に関心を持ち広くなるべく深くを目指しております。
貞治の細工帳に
延命地蔵
サガミ足柄郡山北村
との記載があり、その事からある方が貞治の作品ではないかと推察する作者不明の延命地蔵があります。
何かヒントはないかとネット検索していたところこちらのブログを拝見することとなりました。
その延命地蔵には五兵衛と言う字が背面右下に彫ってあります。これが貞治の作品を否定するものか、或いは藤兵衛を含めて関連するサインなのか分かるだろうか、と思っています。
まずはここまでコメントさせて頂きますも
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