2009/11/12

57北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅲ(手賀)

今回は興福院の山門を出て50mほどで右に折れ進むと北側に畑が広がり北総台地の高地にいることが実感できます。畑中に道が伸びた先に石鳥居と社があります。奥に手賀沼が望めます。
57-1手賀城址
戦国時代末期、原胤定-胤親-久胤が開いた手賀城跡地はこちらです。

原一族の墓所で末裔原胤昭の墓標も同居する様子はNo.53で述べておきました。平成3年の真新しい神明鳥居の先には手賀沼と我孫子の町並みが見渡せます。お社左手に印西大師64番所があります。その奥に新四国の道標が3基並んでいます。続いて寛政十年(1798)の灯篭と昭和44年闘争戦病没者之墓となっています。昭和44年の角柱は頭部にキリーク・サク・サと釈迦三尊種子ですが、サ観音とサク勢至が左右逆についていますねえ。社殿の写真右端に「正一位伏見稲荷・・」の表示が見えます。以前から「正一位」が気になっていたのですが加藤政久著石仏使用語辞典を見ていたらこんな記述が載っていました。「神社に位階をさずくることは、尊卑を分かつためにはあらず。これは正五位なれば田十二町、正四位なれば田二十四町を奉らるるなり。かかれば、正一位なれば田八十町の神領を寄付するなり。これを位田(いでん)という。詳しきことは令の定めの如し云々」山崎美成著世事百談の巻之二。それがいつの間にか有名無実化して「稲荷といえば正一位と世も思い社家より免許することおかし」と喝破していました。
社殿右に石祠5基と昭和4年大杉神社御神田の石柱が立っています。左端は安永四年(1775)稲荷石祠、続けて2基は不明石祠、?四年大鷲神宮、明治24年大杉神社石祠となっています。
57-2旧手賀キリスト教会堂
手賀城址から西へ村道を進みます。深い生垣の民家が続きますが、柏市で立てた文化財表示説明板がある民家が旧教会史跡です。キリスト教解禁が明治六年で千葉では船橋法典・印西大森にロシア正教会がたてられたと載っています。この地で熱心に信仰が息づいていたようです。今は教会は移転していて旧宅を柏市が職員を置いて管理公開しています。(予約が必要かもしれません)山下りんのイコン複製画が展示してあるそうです。


57-3寺台墓地のキリスト者の墓
西へ200m向かいます。道路が南へ下る坂ところで細い道が別れ上へ上っています。導かれるように上ったところが寺台墓地です。通称「でえてんばこらんと」といわれロシア正教の墓塔と仏教墓塔が混在する珍しい光景を目にすることができます。墓地内に子抱の聖母マリア像でしょうか、バックとの対比に驚きます。下の写真では先祖代々神僕・神婢の文字がキリスト者を主張しています。右下の写真では黒御影石の墓塔にクルスのマークが周りの仏式墓標に映えてひと際鮮やかです。(尚、個人の墓標であるため碑面を加工修正しています)



手賀地区はこれにて一区切りとしましょう。

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