2009/11/07

56E日光の石仏 庚申塔を中心にⅢ

さていよいよ日光東照宮です。日光東照宮の神橋の交差点を目標に進みましょう。
56E-1日光国立公園表示板脇の庚申塔
神橋の交差点はいつも観光客で溢れています。駅方向からくると正面に日光国立公園の標識が立ててある傍に、寛永十八年(1641)二猿庚申塔がひっそりと立っています。中央上部に金剛界大日如来の種子バン見えます。上部左は日輪(ガイドブックは月輪との標記ですが皆さんにはどう見えますか)ですが右には阿弥陀如来の種子キリークを刻み、中央上部に小さな二猿が手を暖めているような手つなぎ状態です。結構古くて珍しい表現なのでもっと注目されていいと思うのですが?
この傍に「松平定綱・正信が親子二代にわたり東照宮に通じる日光街道・御成街道・例弊使街道・会津西街道沿い延べ37kmに二十数万本の杉を寄進した記念碑」があります。慶安元年(1648)の造立で街道の境にたてられたので「境石」とも呼ばれると解説板に書かれています。この碑を右手に進み輪王寺方向でない石段を上れば鳥居のある本宮神社に通じます。昔から新宮(二荒山神社)・滝尾神社とともに日光三所と呼ばれていますが、詳しい解説はWikipediaリンクの二荒山神社からご覧ください。

56E-2四本竜寺の庚申塔
本宮神社を右横にみて通り過ぎると四本竜寺の脇に出ます。狭い境内に観音堂(県指定文化財)と三重塔(重要文化財)がそびえています。解説板を読んでおきましょう。

観音堂と三重塔の間に小さな正徳元年(1711)石鳥居と石の護摩壇があります。これは日光の峰修行の遺跡だそうです。鳥居の正面に不動明王、その右に智拳印の金剛界大日如来・左に阿弥陀如来がおられます。(写真では鳥居の笠木と島木の影に隠れて見えませんが)石仏の旅ガイドでは左・薬師如来としていますがよく観ると弥陀定印を結んでいて薬壷印ではありません。「全国石仏を歩く」では定印阿弥陀と訂正されていましたね。
三重塔の前、四本竜寺の石段を上ったところに紫の雲が立ち上ったいわれをもつ紫雲石の遺跡があります。奈良・平安時代の日光の中心地だそうですね。
さて、庚申塔はどこにあるかというと四本竜寺に入る脇道入り口(観音堂寄)に4基立っています。
承応二年(1653)
万治二年(1659)
この写真の右に慶安三年(1650)・延宝四年(1676)が半ば土中に埋もれて並んでいます。今では像容も荒れていて残念ながら昔の庚申塔の写真のような鮮明さはありません。
もと来た道に戻り幼稚園の前を通って開山堂に向かいます。

56E-3開山堂の六武天
こちらは日光を開いた勝道上人が祀られた開山堂です。境内の左に観音堂(香車堂)、右に開山堂が朱に染まって立てられています。
観音堂と開山堂の間を抜けると、右手に勝道上人の御墓があります。Wikipediaでお勉強もしておきましょう。お墓のうしろは岩壁が迫っています。この岩を仏岩といいますがその下部に6体の石仏が佇んでいます。六武天といわれながら1体が失われ不動が加わっているとのこと。見慣れない石仏ですがガイドによると左から帝釈天・持国天・梵天・不動・増長天・広目天と見立てています。
帝釈天持国天
梵天不動
増長天広目天
Wikipediaの解説もつけておきましょう。こちらでは庚申塔はありません。神橋まで戻りましょう。

56E-4星の宮の庚申塔
神橋の交差点を日光駅方向へ行き右に金谷ホテルへ向かいます。上り坂くの字の湾曲部に星の宮の赤い鳥居が見えています。小さなお社ながら日光最古の神社であるとの解説板をお読みください。
社殿左に小さな丸彫り不動、貞享四年(1687)と元禄七年(1694)の二猿青面金剛塔、昭和55年文字庚申塔の3基が並んでいます。社殿右には寛永十八年(1641)妙見大権現御寶前と刻まれた石灯籠、次は慶安三年(1650)板碑型二猿庚申塔で上部でお猿さんが手をつないでいます。板碑の碑面に「ア・バン・ウーン」の種子が刻まれています。その両側に法華経薬草喩品の偈も入っているそうです。左碑面の「小春如意日」とは十月吉日であるとのガイドブック解説です。この隣は「キリーク・サ・サク」の弥陀三尊種子を頂く寛永二十一年(1644)板碑型供養塔です。碑面には「ア・ビ・ラ・ウーン・ケン」の胎蔵界大日の真言が刻んであります。その隣は小型の年不明笠付二猿庚申塔が並んでいます。

56E-5星の宮向い稲荷小社の石仏
星の宮の道を隔てたところの石段坂下に草生した小社があります。その境内に石祠と4基の石仏です。左から元文二年(1737)青面金剛文字塔、元禄十五年(1702)二猿庚申塔、寛政四年(1792)巳待塔?、年不明大黒塔となっています。下の写真は元禄十五年二猿庚申塔です。最後に稲荷町の稲荷神社を回ります。

56E-6正一位稲荷神社の庚申塔群
地元の人に聞くと虚空蔵さんと呼ぶのですが、正面に立派な鳥居と正一位稲荷神社の解説板まであると表示に迷いますね。とはいえ、境内東側に16基の庚申塔・2基の巳待塔1基の弁財天を観て場所は間違えようがありません当社は建保六年(1218)の日光山座主に随行上京した村人が伏見稲荷を勧請して創立。四百年以上経った寛文二年(1662)に洪水で稲荷村が壊滅し現在地に移住して社殿再建した経緯などあるようです。
平成十年に宮司が立てた=石碑「庚申塔・青面金剛」の復旧について=の解説板を乗せておきます。「・・青面金剛は雑仏で・・人を威圧する猿の形相をし・・・」のくだりが面白いですね。今回は締めくくりでもあるので、二猿付と思われる庚申塔を載せておきましょう。
正徳元年(1711)
寶永七年(1710)
元禄三年(1690)
元禄七年(1694)
嘉永七年(1854)
宝永四年(1707)
年不明
年不明
?十二年
文化六年巳待塔
石仏の旅・東日本編によると稲荷町虚空蔵堂に20基・石屋町稲荷神社で19基の庚申塔が見られるようです。いつか機会があれば補遺として訪問することとして今回はこれにて打ち止めとしましょう。

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