61-1龍泉院の石仏
古記録では建長五年(1253)開闢、天文年間(1532~55)量指長栄和尚開山と伝わる曹洞宗寺院です。当地伝右衛門家に酒気を含む泉が湧く所、天竜が小型に変化して入水したのを長栄和尚が目撃、泉水を掬って帰山・読経供養して霊宝としました。この故をもって「天徳山龍泉院」と号したとガイドには書かれています。
山門の前に文政五年(1822)結界石が右に立っています。正面写真左は嘉永三年(1850)普門品拾萬巻供養塔です。境内に入ると左にちょっとした休憩できる石造ベンチとテーブルがあります。その奥に石碑・石仏・石造物が生垣沿いに並んでいます。全18基ありますが、4基ばかり墓標も混じっているようです。右端の石仏はこんな感じで並んでいます。いずれも十九夜塔となっています。写真左隅の石塔半身は慶応三年(1867)文字十九夜塔、嘉永四年(1851)十九夜如意輪観音塔、小さな寛政十二年(1800)文字十九夜塔、宝暦九年(1759)と宝永三年(1706)の十九夜如意輪観音塔となっています。珍しいのは右端の阿弥陀如来の延宝七年(1679)十九夜塔です。大指と頭指を捻じた来迎相阿弥陀如来像です。早い時期の十九夜塔に見られるように「奉造立十九夜念佛」と印されています。そのほかこの石仏の並びでは文字塔の天明八年(1788)善光寺如来百万遍供養塔が近隣の金山・名内・大嶋田・岩井・松戸村などの講中で造立されています。あまり見かけないものです。その並びで唐破風型笠石の馬頭観音塔があります。宝馬を頂いた文久元年(1861)武州上岡(写し)の馬頭観音文字塔です。関東三大観音のひとつ現東松山市の妙安寺の馬頭観音を写し祀ったもので、幕末から明治にかけて北総で時々見かけることがあります。左端のほうには立派な筆子塔が明治28年と大正12年に造立されています。「筆子中」「普門品門人」と台石に読めますね。妙感という比丘尼を祀った線彫碑が明治21年に造立されています。享保十五年(1730)没のようです。テキストには※俗称「おかん婆さん」の供養塔と注記があるのですが、何じゃらほい?
追記(沼南風土記より抜粋引用)
おかん婆さんは寛文年間(1661~1673)紀州塩津生まれで、晩年泉村に住み着くようになりました。ところが、何の事情からか泉村人から「おかんばば あ」と罵られ虐待を受けるようになりました。ところが一方で隣村鷲野谷村の人々からは常に厚遇をうけていました。このため、おかん婆さんは「泉村人が蔵を 建てたら皆焼いてやる」と呪いの言葉を残して死んだそうです。その後、泉村では新しい倉が建つたびに火災にあうということが続いたそうです。そこで崇りを 鎮めるために地蔵を建てて供養したそうです。火災はなくなったそうですが地蔵はいつか破損してしまったと言われます。明治21年泉村有志が写真の碑をたて ておかん婆さんの戒名を刻んで供養したという経緯だそうです。 |
61-2龍泉院裏の馬頭観音
テキスト(沼南町史)では龍泉院墓地に馬頭観音群の記載があったのですが、探し回っても見つけられませんでした。再チャレンジで整地場所に移設されたのを見つけたの独立して載せておきましょう。位置は本堂の北西で寺の北側通路を西へ林の中に入ったところに並んでいます。手前に昭和55年の馬頭観音塔、その先に13基の馬頭観音塔です。いずれも文字塔ですが宝馬を持つものが4基ありました。造立年を載せておきます。文化四年(1807)・年不詳・昭和48年・23年・11年・5年・明治29年・37年・22年・21年・5年・慶応3年(1867)・天明八年(1788)の順に並んでいます。明治22年は馬頭2頭・明治21年は馬頭1頭を頂いています。右端の天明八年は碑面から読めないので沼南町史から転記しています。「南無大悲馬頭観世音」とは珍しい碑面ですが、庚申塔のように日蓮系に関わりあるものでしょうか不思議?
61-3石尊さまの一字一石塔
龍泉院の参道を戻り金谷方向へ南下すること50mで不動明王石塔と残欠のある空き地を右手に見出します。ここは昔は大杉のある小さな祠堂があり石尊さまと呼ばれていたようです。今は荒地に年不詳の不動明王石塔(写真右の石仏)と年不明石尊祠(写真大木の根元)およびその残欠らしきものが置かれています。この空き地の隅に立派な文久三年(1863)「法華経一部一字一石供養塔」が置かれています。台石に刻まれた世話人には数奇屋町・築地・神田・柏木淀橋など江戸の商人名が入っています。鮮魚街道の例にあるように手賀沼の川魚商関係で建立されたものか、この地に縁のあるものか、台石の古川氏の関係者か設立経緯が気になるところです。
尚、一字一石塔は経文を石1個に1字ずつ写経して埋納供養するものです。日本石仏事典第二版262pに「本来の写経は紙または布に書写するものであるが・・・地に埋めて釈迦滅後五十六億七千万年後に衆生救済の弥勒菩薩出現に備える埋経の思想から・・・経文を石または瓦に記す風習が生まれ・・・そのうちでも小石を集めこれに一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てる風習がありこの塔が一字一石塔である」と記載があります。
61-4泉の庚申塔群
先ほどの石尊さまから南下すること200mで15基の庚申塔が並び後ろに大きな杉の木のある分岐に出会います。藤ケ谷CCに向かう道路と金山への道路が分かれるY字路の場所で泉地区と金山地区の境になります。左のほうの7基は山神塔などで右に15基の庚申塔が年代順に並んでいます。ではまず、右の庚申塔群で特徴あるものを載せておきましょう。
平成15年9年昭和54年の 戦後現代版庚申塔です | 昭和10年から右端正徳 元年(1711)まで |
古い正徳元年塔 | 明和五年・二童子二鶏付 |
延享三年・享保十五年 アーモンドヘッド | 天保八年塔・裏面文言に 伐木不可文言 |
文久元年(1861)三猿 | 文政十三年(1830)三猿 |
これだけの庚申塔が立てられるのは厚い信仰によるものですが、文久元年塔は講員70名、昭和10年塔で講員78名、平成15年塔でも43名にわたる講員が名を連ね石塔に刻まれています。立派。
次に左の7基の石塔です。特徴あるものを載せておきます。
7基の石塔 | 明治17年山神塔台石 |
大正十年塔・泉種付所 | 道標も兼ねています |
馬頭付馬頭観音塔 | 太子社塔 |
馬頭2頭がついたのは大正15年馬頭観世音塔で隣は昭和1?年馬頭観世音塔です。左端は明治41年太子社の表示がある(聖徳)太子塔ですが「社」付は初見です。この塔は「右まつと 左金山」と道標になっているようですが私には読めませんでした。
より大きな地図で 61北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅶ(泉) を表示
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