60-1鳥見神社(伊津美神社)の石仏
県道282号印西柏線で手賀郵便局を過ぎ明治牛乳沼南販売所で南方へ村道を進めば泉青年館が隣接する鳥見神社となります。こちらは鳥見・香取・春日の三社を祀っています。安永九年(1780)の明神鳥居には「伊津美/鳥見神社」と併記された額が掛かって、泉の地名との関わりが窺えますが鳥見神社でもあって、ちょっと戸惑います。境内に大型の石造物はそれほど多くありませんが小さな石祠がとりどりに幾種類かあるので載せておきます。境内の左側にコンクリートで基壇をつくりその上に石祠や石塔と金精様というのでしょうか石神石棒が置かれています。左から不明石祠、文久二年(1862)秋葉山祠=火防せの神、天保二年(1831)石神大明神=この場合は生産の神、そし金精様・石神=男根型の石棒・木棒が置かれています。屋外に露出しておいてあるのは珍しいですね。今時は社内で目立たないように置かれているものが多いのですが。少し離れて安政八年(1859)大杉神社=疫病・疱瘡除け、文久二年金比羅宮=通常は海上交通の守り神、文久二年弁財天石祠=通常は技芸神の三基の石祠です。参道を挟んで向かいには同じく文久二年笠石唐破風屋根の駒形宮=馬の守護神で岩手県水沢市の式内社駒形神社信仰塔も置かれています。他に天神宮・雷神石祠もあるようです。江戸時代末期の農村の鎮守に様々な信仰記念物がひしめいている姿から当時の様子がしのばれます。
60-2泉の大日様の勝軍地蔵
先ほどの県道282号印西柏線の北側へ戻ると北上してすぐに二股に分かれます。この二股が塚状になっていてここが大日様となっています。潅木に囲まれていて道路側からは塚になっていることは全く分かりません。三角州状の塚の北口が正面階段になっていて、そこから入ると写真のように左手に出羽三山碑が2基並んでいます。文政六年(1823)駒形の湯殿山主尊で頭部に胎蔵界大日如来の種子アーンクを刻しています。右は明治34年自然石型で新しいから月山主尊ですね。階段正面から見ると奥に石碑2基と前に3体の石仏が並んでいます。写真後列左が文化十二年(1815)六字名号塔で上郷下郷村々講中一蓮托生と刻まれ15村300人余で建立されています。後列右は昭和54年月山主尊出羽三山供養塔です。前列に並ぶのが左に年不明(江戸末期カとテキスト記載)丸彫りの勝軍地蔵です。Wikiでは道祖神と習合した地蔵となっています。日本石仏事典では火伏神となって少しニュアンスが違います。左手宝珠持ちで惜しいことに右手の槍は無いのですが北総で丸彫りの勝軍地蔵を見ることができるのは大変貴重なものです。「房総の石仏百選」では馬乗り馬頭観音のような佐原市大倉の石像を掲載していますが、私はこちらのほうがやんちゃ坊主のようで好きですね。中央が明和六年(1769)胎蔵界大日菩薩です。実はなんか変だなあと思っていたのですが、これをブログに載せようとしてハタと気がつきました。この大日菩薩は弥陀定印を結んでいる不思議な大日さんなんですね。両手の人差し指を折り曲げて合わせる印を結んでいます。胎蔵界大日如来は悟りの世界を表す法界定印(両手の親指の先を合わせ他の指を伸ばす印相)を結ぶ筈なんですけど、阿弥陀如来の印相を結んでいます。この仏は本当に大日さん?と疑われるなら、背中に「私は大日如来です」と刻まれているのでご覧ください。
右端の年不詳大日如来も載せておきます。こちらはお約束の法界定印ですね。尚、訪問される場合は雑草などの冬枯れ2月~3月頃の時期をお勧めします。県道282号印西柏線で手賀郵便局を過ぎ明治牛乳沼南販売所で南方へ村道を進めば泉青年館が隣接する鳥見神社となります。こちらは鳥見・香取・春日の三社を祀っています。安永九年(1780)の明神鳥居には「伊津美/鳥見神社」と併記された額が掛かって、泉の地名との関わりが窺えますが鳥見神社でもあって、ちょっと戸惑います。境内に大型の石造物はそれほど多くありませんが小さな石祠がとりどりに幾種類かあるので載せておきます。境内の左側にコンクリートで基壇をつくりその上に石祠や石塔と金精様というのでしょうか石神石棒が置かれています。左から不明石祠、文久二年(1862)秋葉山祠=火防せの神、天保二年(1831)石神大明神=この場合は生産の神、そし金精様・石神=男根型の石棒・木棒が置かれています。屋外に露出しておいてあるのは珍しいですね。今時は社内で目立たないように置かれているものが多いのですが。少し離れて安政八年(1859)大杉神社=疫病・疱瘡除け、文久二年金比羅宮=通常は海上交通の守り神、文久二年弁財天石祠=通常は技芸神の三基の石祠です。参道を挟んで向かいには同じく文久二年笠石唐破風屋根の駒形宮=馬の守護神で岩手県水沢市の式内社駒形神社信仰塔も置かれています。他に天神宮・雷神石祠もあるようです。江戸時代末期の農村の鎮守に様々な信仰記念物がひしめいている姿から当時の様子がしのばれます。
60-2泉の大日様の勝軍地蔵
先ほどの県道282号印西柏線の北側へ戻ると北上してすぐに二股に分かれます。この二股が塚状になっていてここが大日様となっています。潅木に囲まれていて道路側からは塚になっていることは全く分かりません。三角州状の塚の北口が正面階段になっていて、そこから入ると写真のように左手に出羽三山碑が2基並んでいます。文政六年(1823)駒形の湯殿山主尊で頭部に胎蔵界大日如来の種子アーンクを刻しています。右は明治34年自然石型で新しいから月山主尊ですね。階段正面から見ると奥に石碑2基と前に3体の石仏が並んでいます。写真後列左が文化十二年(1815)六字名号塔で上郷下郷村々講中一蓮托生と刻まれ15村300人余で建立されています。後列右は昭和54年月山主尊出羽三山供養塔です。前列に並ぶのが左に年不明(江戸末期カとテキスト記載)丸彫りの勝軍地蔵です。Wikiでは道祖神と習合した地蔵となっています。日本石仏事典では火伏神となって少しニュアンスが違います。左手宝珠持ちで惜しいことに右手の槍は無いのですが北総で丸彫りの勝軍地蔵を見ることができるのは大変貴重なものです。「房総の石仏百選」では馬乗り馬頭観音のような佐原市大倉の石像を掲載していますが、私はこちらのほうがやんちゃ坊主のようで好きですね。中央が明和六年(1769)胎蔵界大日菩薩です。実はなんか変だなあと思っていたのですが、これをブログに載せようとしてハタと気がつきました。この大日菩薩は弥陀定印を結んでいる不思議な大日さんなんですね。両手の人差し指を折り曲げて合わせる印を結んでいます。胎蔵界大日如来は悟りの世界を表す法界定印(両手の親指の先を合わせ他の指を伸ばす印相)を結ぶ筈なんですけど、阿弥陀如来の印相を結んでいます。この仏は本当に大日さん?と疑われるなら、背中に「私は大日如来です」と刻まれているのでご覧ください。
60-3二十三夜堂(三夜さま)
大日様の分岐から県道を西に150m進むと手賀西小学校への道となる信号のある交差点です。交差点を北へ小学校への道を400mほど進むと下り坂のT字路になります。この角が通称三夜さまと呼ばれる(二十)三夜堂です。元は吉祥院と呼ばれた真言宗寺院でしたが明治18年小学校創設の際にお寺の本堂を改修使用され、以降寺院機能はなくなったようです。この三夜堂だけが小学校(現在の手賀西小学校)隣に移設されて今日に至っています。写真右の道路際大きな石柱は文化五年(1808)新四国七十番泉村吉祥院と刻まれた札所石です。元のお堂は文化年間(1804~1818)造営で本尊は聖観世音だそうです。堂の左奥に年不明・二十三夜塔がすえられています。この塔は泉地区字三夜という田んぼから出土した古塔で出土にちなんでこの字名がつけられたようです。
三夜堂の角から小学校正門前へ右折100mほど進むと校門と道を挟んだ小高い場所におせし様板碑が祭られています。
60-4おせし様板碑
大木の下に「おせし様板碑」がひっそりとたたずんでいます。はい、板碑です。Wikipediaで板碑を見ておきましょう。こちらは緑泥片岩で出来た武蔵型板碑です。北総地区は武蔵型板碑と下総型板碑の併存地帯です。沼南には武蔵型板碑が約380基に対し下総型板碑は数基と偏在しているようです。下総型板碑は筑波産黒雲母片で出来ていて結構分厚い板碑ですが、大井地区の「阿弥陀さま板碑」でご紹介しましょう。おせし様板碑は大木の根元にお参りの踏み石があってその先にコモを被って祀られています。コモを外してじっくり拝観してみると、室町時代末期の簡略形の図案ですが典型的な武蔵型板碑と思われます。天文四年(1535)庚申待供養で二郎四郎、源五郎さんなどが建立しています。天蓋の下、月輪の中に釈迦如来の種子バクを刻み蓮台の上に載せています。敷布を掛けた三具足には中央に香炉・右に燭台・左に花瓶(けびょう)が置かれています。板碑のテキストに載っている通りですね。”おせしさま”は”勢至菩薩”のことなので、種子=釈迦如来なのに勢至菩薩とどういうことかと、「沼南風土記」ではその経緯に触れています。つまり、先ほどの二十三夜堂は元はこの板碑のあたりにあって、二十三夜講の本尊は勢至菩薩であることに由来すると述べていますね。
この項を書いた後で確認の為、10ヶ月ぶりに現地確認をしたところ上の写真のとおり立派な解説板が設置されていました。
60-5妙見社の庚申代石
妙見社は字中城という戦国時代の城址に位置します。三夜堂から南側の坂を登って右折したところに位置します。稲荷社の横、石段を上がると粗末な拝殿の後ろに写真のような本殿が隠れています。テキストによると永正九年(1512)建立の由緒ある神社で、安政四年(1857)京都白河殿へ「相馬神社」の社号申請をしたようですが相馬郡の総社と間違われるとして「北斗」の二字をつけて「相馬北斗大神社」の社号を受けています。明治43年妙見社は先ほどの鳥見神社に合祀されて本殿もそっくり移転してしまいました。その時の「遺跡碑」が本殿の横、写真のように立てられています。でも、その後凶事が続いたことから妙見大明神が旧跡に帰りたがっていると感得して、昭和9年にもとのこの地にささやかな本殿をつくり祭神を祀ることになって戻ってきた次第です。調べてみると結構曲折があって面白いものですね。ついでに「遺跡碑」横にある「庚申代石」というのも見てみましょう。碑面を読むと「享保十五年(1730)、村の庚申講で妙見社の神木松ノ木を買って寄付したので今後住み込む僧は切るべからず、吉祥院住僧」と理解したのですが如何。昔は神仏習合で庵や社に僧が住んでいても不思議ではありませんからありえたのでしょう。尚、妙見社は妙見菩薩との関わりで理解することになるのでWikipediaを参考にしてください。
今回はここまでとしましょう。次回は泉地区で県道印西・柏線の南側を歩きます。
より大きな地図で 60北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅵ(泉 を表示
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