2010/01/12

63北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅸ(若白毛)

泉地区の西に隣接するのが若白毛という珍しい名前の地区です。沼南町史に詳細は不明と出ています。地区の東西を県道柏・印西線が横断しています。県道に沿って北側に地区の鎮守・八坂神社があります。

63-1八坂神社の石造物
明治9年(1876)に京都八坂神社から勧請してきたと伝えられ、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀っています。Wikipediaでお勉強しておきましょう。特色ある石造物はそれほどありませんので簡単な紹介で済ませましょう。明神型石鳥居入って右に安政七年(1860)の御手洗があります。境内は上の写真でみると手前が明治12年の灯篭、右に小さく文化元年(1804)の御手洗も見え、中央に本殿覆屋、中の本殿は明治9年建立で精緻な彫刻が施されています。本殿左の古社は通称「大六天」・「荒神さま」と呼ばれ大山祇神(おおやまつみ)を祀ると伝えられているそうです。本殿と大山祇社の間に石碑の陰が見えます。写真左から明治42年「大山津見社」、中央が昭和6年官幣月山神社主尊の出羽三山塔、昭和31年「天輪王尊」(テキスト注=天輪王は正義をもって世界を治める王)が並んでいます。本殿の裏には大正10年疱瘡大神石祠や昭和9年富士・大山参拝碑などが並んでいます。明治時代でも疱瘡対策は神頼みだったようですね。ちょっと分からなかったのは明治25年「思兼命」と刻んだ塔ですがなんじゃらほい?ですね。ちなみにこの神社の夏祭りは京都祇園祭と同じ7月23・24日で指定民俗文化財「若白毛囃子」が奉納されるそうです。テキストに「鎮守の定紋”三ッ巴”がキュウリの切り口に似ているので遠慮して、戦前はこの地区ではキュウリを栽培しない風習でした」との記述がありました。面白!!
県道を挟んで神社の向い南側が長栄寺です。

63-2長栄寺の十九夜塔・子安塔
曹洞宗長栄寺はNo61で紹介した泉の龍泉寺の隠居寺のような性格で寛永七年(1630)の開基とされています。本尊は釈迦如来です。別に立て替えられた薬師堂があり本尊は日光・月光菩薩を従えた薬師如来がおられますが、こちらのほうは天文四年(1535)創立の由来があるようですが詳細不明とガイドに載っています。参道入り口左に明和五年(1768)六臂合掌青面金剛塔がおられますが、いかにも村の石屋さんが彫った感じの稚拙さがうかがえます。続いて六地蔵が並ぶお堂があり、中央に元文二年(1737)の地蔵立像です。テキストによれば、裏面に年号と「南無地蔵大菩薩尊號十億万供羪」の表示があるようです。六地蔵の後ろの石塔は文政六年(1823))念仏講中が建立した地蔵塔です。文化七年(1810)・明治12年の新四国道標が立つ隣にNo87・29・30番の大師堂が3棟の棟割長屋のように建っています。そして先ほどの薬師堂がピカピカに手前に並んでいます。L字に参道を右折すれば写真のように本堂が正面です。左の築山斜面に見える石塔は明治19年出羽三山塔と小さな大正10年正徳太子御尊位石祠です。本堂左奥にに写真のように石仏が集約されています。大きな昭和50年弘法大師供養塔の右方は4基の十九夜如意輪観音塔・宝暦六年(1756)地蔵念仏塔・明治44年光明真言塔が並んでいます。延宝七年(1679)塔は足先まで丁寧に彫り込んであります。貞享四年(1687)も古いので載せておきましょう。明和三年(1766)・文化七年(1810)塔は洗練されてきた印象ですね。弘法大師供養塔の左方は手前2基が明治6年・18年子安観音文字塔です。後列左は文政十年(1827)十九夜供羪塔で頭部に如意輪観音像が彫られています。後列右は頭部に如意輪像塔ですが宝暦十年(1760)の墓塔になっています。こちらでは子安講が盛んで2・5・11月に掛け軸を祀った供養が行われていたとガイドブックに記述がありました。
長栄寺から西へ300mで雉子打のバス停があり傍に庚申塔が塚状になっています。

63-3雉子打バス停前の庚申塚(塚状という表示です)
下の写真のように5基の庚申塔と中に石祠が1基おかれています。左から文政九年(1826)文字庚申塔ですが、下部三猿が面白いですね。言わ猿は扇子で口をさえぎり、見猿は錫持ちのようですね。次は文化十四年(1817)青面金剛王の文字塔です。次も寛政六年(1794)の青面金剛王文字塔です。こちらの三猿は左の猿は寝ていますね。真中の聞か猿も片手で耳をふさいでいる変形三猿となっています。中央は明治22年の駒形宮石祠です。次は享保六年(1721)六臂合掌青面金剛塔で「奉供養庚申待」の鬼瓦面の像容ですね。右端は宝永五年(1708)六臂合掌青面金剛塔ですが、神妙な顔付きで「大丈夫ですか?」と聞きたくなりますね。この塚の道路向いにV字状の岐路があってそこに明治34年出羽三山・西国秩父坂東の百番巡拝塔が立っていて鉄柱で保護されています。道標にもなっていて、「西 大井・柏・流山 東 泉・木下・成田 道」と刻まれています。この傍らには小さいながらも明和七年(1770)道祖神祠も置かれ、この道が手賀沼南岸の要路であったことを物語っています。

63-4若白毛新田集会所前の庚申塔
旧称は不動堂前と表示されています。若白毛バス停先の信号交差点から南へ1.2kmのところにある集会所敷地内に石仏が写真のように並んでいます。左から3基の馬頭観世音塔と2基の庚申塔、そして道路改修碑となっています。左から昭和10年・天保二年(1831)文字馬頭観世音塔、寛政五年(1793)馬頭冠の馬頭観世音像塔ですが砂岩と思えるほど像容が傷んでいます。次も聖観音像の延宝五年(1677)庚申塔です。「庚申當滿■之日奉造立」となっています。お顔が崩れていなければ貴重な観音像の庚申塔として人気も出ただろうにと残念に思った次第です。宝暦十年(1721)六臂合掌青面金剛塔はぎょろ目が特徴的で、下の三猿も言わ猿の手がクロスしています。集会所が不動堂を兼ねているのでしょうか、玄関上部に鰐口が釣ってありました。鰐口をWikipediaで確認しておきましょう。
若白毛地区はこれくらいにしておきましょう。

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