2010/02/12

65北総 旧沼南町の石仏Ⅺ(鷲野谷2)

沼南町史金石文編・沼南風土記・歴史ガイドかしわなどを頼りに巡っています。前回の鷲野谷(わしのや)の星神社の北方に寛正二年(1461)開創の浄土宗東光山医王寺があります。

65-1医王寺の徳本塔
山門の両側に六地蔵が3体ずつ分かれて並んでいます。境内に入ると正面の本堂の風格に心惹かれます。広くない境内参道の右に嘉永(1851)寶篋印塔が建っています。表に種子サクと南無阿弥陀仏・裏面に回向偈(えこうげ)と呼ばれる観無量寿経疏巻一の終りの句「願以此功徳 平等施一切・・・」を刻んでいます。その隣が文政五年(1822)徳本名号塔です。独特の書体で「南無阿弥陀佛」徳本花押を刻んでいます。徳本行者は文政元年に亡くなっているので没後の建立になりますが、丸に十の字=徳本の花押をしっかり読めて嬉しいですね。徳本念仏塔は旧沼南町にはあと2基あると沼南風土記に記載されています。高柳地区の文化十五年塔(1818)と泉地区大日さま(既出)の文化十二年(1815)塔であるとの記述です。しかし、泉の大日様には徳本塔の花押は無かったので???ですね。
参道左手には無縁仏が集められた区画に続き3基の石碑が並んでいます。その真中は受戒連の台石で石碑頭部に「釈迦如来轉法輪相」と書かれ薄い釈迦三尊線刻坐像を刻んだ明治29年石碑です。線が薄いので読めるでしょうか。

65-2薬師堂の経誉上人墓塔
薬師堂は医王寺の東方に隣接したお堂です。創立や本尊薬師如来については解説板写真で確認しておきましょう。此の薬師如来に関連して医王寺の山号・寺名・院号がつけられました。薬師堂の参道入り口には天明二年(1782)南無阿弥陀仏名号塔・文化四年(1807)の唐破風笠石石祠型道祖神・「伝えよう仏の心を後の世に」と刻まれた印旛大師結願碑が並んで建っています。文化三年(1806)燈籠の前方に延享元年(1744)に修理された記録が残る薬師堂が建っています。薬師如来と刻んだ石額は文化三年のものです。運慶の孫弟子にあたる春慶作成の薬師如来は十二年に一度寅年に開帳されます。今年はその当たり年ですね。
大正の法然上人と賛仰される山崎弁栄(べんねい)上人は此の薬師堂に籠もって明治15年8月に3週間の断食称名を行いました。21歳で医王寺で得度しその後光明主義を唱えて全国布教を行ってきた其の功績を称え、4mはあろうかという壮大な顕彰碑が昭和54年に770名余の寄進で境内に建てられています。鷲野谷生まれの山崎弁栄上人の功績は「浄土宗布教伝道史」からの引用でこちらのHPで紹介されています。
薬師堂の左脇道を奥へ進むと開創・経誉愚底上人の宝暦六年(1756)墓塔がお堂内に祀られています。耳の病にご利益があるといわれ、写真下部に見られるように奉納された錐が墓前に沢山供えられています。珍しいですね。

65-3医王寺墓地の馬頭観音
先ほどの経誉愚底上人墓塔のお堂の脇を抜けていくと医王寺墓地となります。墓地の中を村道が横切っていますが、区画整理されたためか、4基の馬頭観音が道路脇に寄せて並べられています。上の写真で道路右端に石塔が見えています。左から昭和9年文字馬頭観世音塔、元治元年(1864)キリーク種子馬頭観世音塔、天保九年(1838)馬頭観音塔、年不詳・馬頭付馬頭観音塔となっています。元治元年塔は「辨照畜女」と珍しい戒名がついているとテキストに記されています。ホントだ。

65-4北の内古墳の古墳碑
墓地写真の馬頭観音塔が写っているところは三叉路の分かれ道になっています。此の分岐から耕作地の中の道をとり、電波塔を目当てにずんずん進みます。此のあたりが北の内古墳でしょうか?回り込んで電波塔にたどり着く手前に明治33年「古墳之址碑」がぽつんと背を向けて建っています。撰者は日本考古学の先駆者坪井正五郎です。日本石器時代人=コロポックル説を主張した其の道では有名な学者です。安政七年(1860)出土の土器を守った染谷治右衛門と考古マニアの息子大太郎の貢献で、古墳上に石碑建立をした経緯が記されています。

65-5薬師堂先Y字路の十九夜塔
来た道を墓地まで戻ります。墓地を横切る村道に沿って薬師堂まで戻ります。薬師堂へ曲がるY字路の左手路傍奥に十九夜観世音供養の塔婆が立ち5体の十九夜観世音が並んでいます。右から頭部に如意輪観音を彫りこんだ天保二年(1831)十九夜塔です。次は延宝六年(1678)十九夜念佛云々と刻まれた聖観音塔です。次が頭部に十九夜と刻んだ天明五年(1785)天衣の如意輪観音塔です。隣は頭部に念仏供養と彫られた寛文十三年(1673)如意輪観音塔です。左端は文化八年(1811)子育観音塔です。赤子を抱いた聖観音(慈母観音)となっています。念仏供養から始まって村の女衆講中の変遷を簡潔に表しているようで興味深いものがあります。

65-6善竜寺の燈籠
医王寺の門前を通り過ぎて西進すると右手の高みに善竜寺があります。目ぼしいものが無いのかガイドブックでは省略扱いですね。坂道を上った寺入り口に、明治42年指差し表示の巡礼道標があります。其の奥にも文化五年(1808)四国七十一番札所石、其の隣は胎蔵界大日種子アーンクを頂いた寛政八年(1796)光明真言供養塔がボソッと立っています。近隣10村で建立されているのでもう少し日の目をみた扱いをされてもいいのでしょうが控えめすぎて可哀想なくらいです。ほかに目に付いたのが天明八年(1788)西の屋形(というらしい)燈籠ですね。鷲谷村若者中が寄進しています。左は昭和53年百箇所巡拝記念碑です。こちらは境内に東葛印旛大師十四番札所があり其のお堂傍に平成20年標柱が建立されています。明治28年の光明真言供養塔も建っていて過ぎ去った時代の信仰遺物が寄り添って生きている空間だなあとしみじみ感じた次第です。

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