路傍や社寺の片隅にある石造物に心惹かれて。 出来ないことを数える人生でなく、出来ることを数える人生を歩みたいと思います。ホームグラウンドの房総の石仏(主に北総)を巡ります。時々Eシリーズで近県へ遠足拝観を行います。文末の地図は拡大表示ができ、マークをクリックしてごらん下さい。 このブログは筆者の備忘録のつもりで記載を始めたものです。東日本大震災前の記録も多く、現状と相違している場合もあるのでご承知願います。 10年ぶりに見直したところ、Google地図が仕様変更となって、地図のリンク切れが散見されました。分かる範囲で復旧するつもりですが、更新記事は地図再掲のものが主となります。
2009/07/23
43北総石仏 白井ⅩⅧ
この地区は清戸地区です。前回の宗像神社から300mほど南下すると左の崖上に薬王寺が見えてきます。駐車場などに赤い白井七福神の幟が目に付きます。
43-1清戸・薬王寺の十九夜塔
薬王寺は宗像神社方向から来ると駐車場から入ることになります。つまり裏口ですね。正式には駐車場を通り過ぎたところにある石段を戻るようにして駆け上ったところが境内となります。今回は駐車場から入りましたが、通路の片隅に小さな道祖神が祀られていました。本堂はしっかりと建てられ、右手にある清戸薬師堂と二十三番大師堂も立派な建物です。本堂前の境内は余り広くありませんが、本堂に向かい合うように石仏が並べられています。白井七福神の弁財天は平成16年造立の現代版弁財天です。その並びにスマートな如意輪観音が4基ラインアップです。左から宝永二年(1705)如意輪塔、延宝七年(1679)六臂如意輪観音塔は古いだけに珠持ちで彫りもしっかりしています。下の写真は延宝塔です。次が安永三年(1723)・天明三年(1783)十九夜塔となっています。清戸薬師堂の手前一画に寺子屋師匠碑の立て札がある筆子搭があります。台石に米井氏門人中と刻まれています。一般に筆子塚ともいわれ筆の穂先形をしているケースも多いとウィキペディアにありますが、私の見てきた中でそんな形は多くなかったぞ?というのが実感です。ある研究者が千葉県の筆子搭を研究して三千数百基を究明しています。金石研究者の地道な努力に頭が下がりますが、詰まるところ千葉県ではどこの村にもありそうで次の西福寺でもお目にかかることになります。
43-2清戸・薬王寺子安堂
薬王寺に突き当たるT字路角が子安堂です。村なかの普通のお堂ですが祭られている子安塔は、宝冠を付けた観音に赤子が左手に抱かれ右手はどうやら未敷蓮華持ちのように見えます。比較的新しいものです。境内は入口右手に天保十五年(1844)六十六部供養塔と六地蔵が並んでいます。六地蔵も磨耗が進み安永八年(1779)・天明五年(1785)の2基しか読みきれませんでした。後は墓碑がならんでいるようです。コンダケー?それにしても子安塔は薬王寺境内に全部引越ししちゃったのでしょうか?
43-3谷田(やた)・西福寺の常夜灯
薬王寺前をさらに300m程南下します。大きなイチョウの木のある広場が西福寺です。幹周り5.1mで「乳房公孫樹」と呼ばれ白井市の有形文化財に指定されています。広場の奥に近代的な西福寺の本堂が立っています。大師堂が3棟とイチョウの木にかかっている東屋は線彫り不動明王の覆屋です。明治11年(1878)の線彫り不動明王は成田山と頭書され右手に宝剣・左手に羂索(けんじゃく)を持ち、左脇=向かって右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と右脇=向かって左に制多迦童子(せいたかどうじ)を従えています。、余り出来はよくありませんが大切に保存されているのは喜ばしい限りです。
広場右手のお堂の前に常夜灯が立ててあります。高さは2.5mくらいでしょうか。明治の瓦斯灯に近いイメージです。ちょっと見かけないタイプですが何か謂れがあるのでしょうか?
広場奥の墓石が並んでいる中にひときわしっかりした石塔が立ててあります。筆子中と刻まれたまさしく筆子搭であります。嘉永五年(1852)に亡くなった師匠を偲んで門人拾八人が安政二年((1855)に建立したようです。
43-4谷田の馬頭塚
西福寺前を更に南下して国道464号線を横切って200mほど進み左手開発された民家集落の傍に馬頭観音が5基並んでいます。いずれも文字馬頭観音です。写真手前の自然石型馬頭は昭和11年です。後は昭和7年・明治43年・明治32年・昭和18年建立ですが、風化が進んでいるので誤読したかもしれません。寒村荒野での馬の苦労(開拓農民は勿論のことです)が偲ばれる光景に思えました。
43-5谷田の庚申塚
馬頭塚から更に300m東進します。東京機材工業白井機材センターの前、道路際に25基の石仏が並んでいます。壮観ですね。庚申塔が多いですが他の石仏石祠もあってなかなか賑やかです。勉強も兼ねて出来る限り画像をのせておきましょう。左端は大六天神社から始まります。昭和12年の新しい石祠です。大六天(第六天)は民間信仰としては除災招福の神仏として、また仏教的には他化自在天をさすといわれ仏の成道を邪魔した魔王ですが天部の神仏として祀られたようですが詳しくは不明。(日本石仏事典第二版)何故、昭和の時代にこのようなものが祀られたのか更に不思議ですねえ。次は猿田彦大神碑が2基ですが、左から万延元年(1860)・弘化四年(1847)の造立です。次に六臂合掌青面金剛像が3基続きます。明和九年(1772)塔は3基中ではよく出来ていますが、別の三猿台石に載せたのでお猿さんが余っています。明和二年?(1765)塔は邪鬼が笑って?います。年不明の青面金剛塔は邪鬼の頭に金剛の片足しか乗っていない像塔です。次は寛政元年?(1789)文字庚申塔ですが講中安全のもじが交通安全にも通じて世の中変わらんなあと可笑しく感じます。六臂ショケラ持青面金剛塔は寛延三年(1750)ですがアーモンドヘッドのようですねえ。次はこのなかで最大の寛政七年(1795)笠付三猿塔です。隣が享保十年(1725)笠付六臂ショケラ持のこれもアーモンド型青面金剛塔のようです。文政十三年((1830)文字庚申塔、文化十一年(1828)文字青面金剛塔が続きます。享保十年(1725)六臂ショケラ持青面金剛塔は頭部が削れて不明ですが法輪を載せる水平掌からアーモンド型かも知れません。奉待二十三夜塔は安永五年(1776)の造立です。湯殿主尊の出羽三山塔は天保十年(1839)の造立です。年不明文字庚申塔の隣は人型と思えない何かの像ですが、不気味ながらひょうきんさも感じられる不思議な像です。年不明道祖神石祠、年不明文字二十三夜塔、明治21年(1888)月山主尊出羽三山塔、弘化二年(1845)普門品一千部供養塔が続きます。延享四年(1747)笠付大乗妙典供養塔の次は天明八年(1788)道祖神です。最後は嘉永四年(1851)常夜燈の竿部で終わっています。塚とはいえ何か舞台の上の石塔石碑のラインダンスを見るようで壮観ですね。
43-6谷田・八幡神社の石祠
西福寺でバス通りの道をとらず横道を南下します。北総鉄道の高架下の道路の交差点信号に出れば、高架をくぐった左角が八幡神社となります。集会所の傍を抜けてコンクリ階段を上りきった崖上=北総鉄道側壁に当たるところにミニチュア本殿が覆屋の下に鎮座します。北総鉄道の敷設で移転されたのでしょう。コンクリート側壁に様々の石祠が並んでいます。延享三年(1746)大杉大明神は疱瘡除けの御利益でしたね。天保十年((1839)金比羅大権現もあります。明治18年古峯神社・石裂神社は栃木県の山岳修験信仰に基づきます。文化十三年(1816)稲荷明神もありますが明和五年(1768)石祠は疱瘡神?でしょうか。都合8基の石祠が置かれています。それにしても石祠の種類が多くて混雑状態です。別雷神社と読める石祠もあって村人は個別御利益毎に神様を増やしていったのでしょうか?
今回はここまでとして、次回で白井石仏のフィナーレを迎えましょう。
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