2009/10/17

53.北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅱ(手賀)

今回は手賀地区をめぐります。当地区では早くから布教基地となったキリスト教会や混合墓地など、特異な石造物を見ることができます。沼南町めぐりでは、以降テキストは教育委員会発行の「沼南町史金石文Ⅰ・Ⅱ」」「沼南の歴史をあるく」「沼南風土記」を使用し引用は(金石文・歴史あるき・風土記)と略記します。

53-1.畑中の大日如来庚申塔
前回の布瀬から手賀方向へ県道282号線を戻ってくると、手賀1442番地先?右手に開けた畑の県道沿いにそれは建っています。寛文八年(1668)舟形金剛界大日如来・庚申塔です。お顔は荒れていますが智拳印と像容から金剛界大日如来と分かりますが、下部の三猿を見ないと庚申塔とは気づかないでしょう。村境とはいえないでしょうが、昔からここに佇んでおられたのでしょうか?

53-2.手賀城主・原様・御墓場の五輪塔・・・石塔の解説は(歴史あるき)より引用
県道282号線柏-印西線でバス停東台・手賀片山道の交差点から300mほど進むと左は「御墓山」と呼ばれる山林です。入り口目印は「ゴミも心もすてないで」という看板です。この中に「御墓場=おはかば」と呼ばれる手賀城主・原氏の墓地があります。千葉介勝胤より相馬郡手賀の六百貫を原胤定(たねさだ)が受領し胤親(たねちか)-久胤と続きます。木漏れ日の中に墓所の静謐な雰囲気が漂います。城主の墓といえ個人の地所です。敬虔な気持ちで入らせていただきましょう。正面、弘化三年(1846)銘の入った石柱で囲まれたところに、五輪塔7基と十字架型墓塔が立っています。手前右に3基の五輪塔です。右端は久胤の妹の墓塔で空風火水輪は別石。隣の2基はいずれも元和七年(1621)の一石五輪塔で、江戸町奉行組与力となった子孫・原胤次が建てた両親の供養塔。中央の大きな五輪塔は現流山市鰭ヶ崎(ひれがさき)の総名主・渡辺寅が文化末か文政初に旧主原氏供養に建立したもの。左後方の3基の五輪塔は右が寛永十七年(1640)胤次、中が寛永十八年(1641)胤次の四男主馬介、左が延宝七年(1679)胤次の後嗣・胤重の墓塔です。十字架は信仰の大将・原萬胤之墓となっていて明治39年に3歳で亡くなっています。後述のキリスト教徒・原胤昭の夭逝した子息の墓ですね。墓地の左手に4基の角柱型墓塔が並んでいます。白色墓塔3基の真中が原胤昭之墓(近衛文麿筆)となっています。江戸幕府最後の与力であった原胤昭は遠祖・原胤信(原主水)の堅い信仰心に打たれキリスト教解禁の明治7年にキリスト教に入信し、余生を出獄人保護に捧げた人物です。その遠祖原胤信(原主水)の信仰心の凄まじさはWikipediaでご覧ください。原胤昭は亡くなっても引き取り手のない出獄者53人をここに埋葬し23名を刻んだお墓8基をこの敷地内で弔っています。偉人ですね。ところで小さな不明石塔があります。首塚塔、生島氏は教誨師と(金石文)に載っています。見送った死刑囚の供養塔なのでしょうか?今まで墓碑は扱わない方針できましたが、今回は調子にのって盛り込みすぎたようです。

53-3.柳戸(やなど)御墓山傍の庚申塚
原様の御墓場から40mほど西寄の県道沿い北側に塚状に4基の庚申塔が並んでいます。先祖の腰掛も供えられていて地元で大切に祀られています。左から弘化二年(1845)文字庚申塔、文政七年((1824)文字「庚申」塔、享和三年((1803)青面金剛尊、享保七年(1722)六臂ショケラ持青面金剛となっています。特に右端の享保七年青面金剛は頭部の形と法輪を水平掌にのせておりアーモンド型に思えます。どうでしょうか。恒例のお猿さんも載せておきましょう。
53-4.兵主八幡神社(ひょうすはちまん)南の庚申塔
東台のY字路から700mほど北上すれば八幡前のバス停・兵主八幡神社ですがその南道路沿いに8基の庚申塔が並んでいます。キャ・カ・ラ・バ・アの種子を書いた真新しい角塔婆(というのでしょうか?)を立てた庚申塔群です。訪れた日のわずか1週間前の塔婆も墨痕鮮やかに立ててありました。厚い信仰に守られた庚申様です。左から寛政十二年(1800)庚申年の青面金剛塔・天明五年(1785)青面金剛王塔・明治6年猿田彦大神塔・延享元年(1744)六臂ショケラ持青面金剛塔・明治40年文字庚申塔・安永七年(1778)青面金剛尊塔・文政十二年(1829)異体字青面金剛王塔・正徳二年(1712)青面金剛(各願之満所)塔となっています。アーモンドヘッドの青面金剛像は側面に二童子を浮き彫りにしていて近在にないものです。別途、活動的なお猿さんの写真も載せておきましょう。53-5.兵主八幡神社(ひょうすはちまん)
庚申塔塚の先、バス通りから別れ鳥居の建つ200m程の参道が続いています。二の鳥居をくぐれば兵主八幡神社となります。「兵主(ひょうしゅ)とはもとは中国の風雷神で、はじめ但馬(鳥取県=引用文献の誤りで正しくは兵庫県)養父の郷に祀られたと伝える。・・・八幡はもとは豊前の国(大分県)宇佐郡に祀る神・・・綾機アヤハタ織の技術・・・アヤハタの略化・やはた(八幡)と考えられる・・」(金石文Ⅱから引用です。但馬自体は鳥取県でも正しいですが、養父(やぶ)は兵庫県にあり筆者の本籍地なので修正しておきます)Wikipediaで兵主神社関係を掲載しておきます。Wikipediaの外部リンクから各地の兵主神社をたどれます。
さて、この神社は戦国時代末期の手賀城主原氏の鎮守八幡社として祀られました。そして200m程の参道は元は”ばんば”と呼ばれ原氏の専用馬場であったとのことです。のち、原氏の重臣が内神として守り、享保七年(1722)に二の鳥居(沼南最古)が立てられました。文化十四年(1817)、本殿が手賀・片山の両村で造営されてから両村鎮守となりました。(風土記参照)
さて、境内は両村や庚申講・女人講などからの寄進で石造物アワアワ状態です。先程の二の鳥居写真の中でも本殿前参道両側に常夜灯・御神灯が両側8基が写っています。境内全部あわせると石造物の正確な数は知れませんが、メモに残っている凡その資料だけでも載せておきましょう。
石灯籠14基享保十三年(1728)~昭和55年
出羽三山碑6基昭和10年~平成5年
伊勢講碑2基明治40年・大正15年
富士講碑大正7年
古峯神社碑2基昭和19年・60年
石祠では大きさを揃えた宝暦七年(1757)の石祠6基や女講中建立のものが目に付きます。
手賀村庚申講
平野大明神
同上
香取大明神
同上
稲荷大明神
片山村明神講
天神宮
手賀村庚申講山王権現
同上
大杉大明神
文化五年女人三十人
鹿嶋大神宮
明治39年女講中
粟嶋神社
寛政元年
疱瘡神
他にも新四国石塔があちこちに立っています。変わったところでは太子堂の中に文化十三年(1816)柄香炉持聖徳太子がおられました。
珍しいものでは明治天皇の勅語が本殿に掲げてあったので載せておきましょう。

53-6.興福院の石造物
兵主八幡神社から北へ約1km北上し村中の道を手賀構造改善センターを目印に行けば、そこが興福院の境内となります。取り残されたような山門をくぐれば、写真のように正面に本堂、右に聳え立つ寶篋印塔その前の六地蔵と六地蔵石幢が見えます。写真右奥には墓地も見えています。そして興福院の参道左は大師塔・巡拝塔などが並んでいます。
興福院は大同年間(806~810)に開創された古刹です。その後変遷もありましたが、手賀城主原氏の帰依もあり江戸時代には大いに栄えました。末寺は布瀬に福蔵院(既出)・宝寿院、柳戸に弘誓院、平塚(白井市)の延命寺(既出)、名内(白井市)の東光寺(既出)、片山の南蔵院など11か寺を有する大寺院でした。今も立派な経蔵でしょうか、このお寺は「大般若経」六百巻を有し隣村持ち回りで大般若転読会が行われているとか。傍に四十五(貫)メ目余≒168kgと刻まれた力石も置かれています。
聳え立つ寶篋印塔は高さ5.5m、正面西面塔身に弥陀の種子キリークを刻み順に不空成就如来の種子アク、阿閦如来の種子ウーン、宝生如来の種子タラークが刻んであります。安永五年(1776)に十九夜講中・斎(時)講中など手賀村・布施村の幅広い人々の結集で創設されました。台石には十九夜講中174人とか斎講中67人、布瀬惣村中・塚崎村中など創立メンバー名が記され当時の本寺の隆盛ぶりが伺われます。寶篋印塔の前には宝暦十二年(1762)六面憧六地蔵が中折れをつなぎ合わせて立っています。また、本堂左前では元禄十年(1697)延命地蔵が塔婆を括り付けられてお立ちです。先ほどの写真右手奥の墓地には正徳六年(1716)☐齋月供養佛と刻まれた金剛界大日如来立像があります。その左は安永二年(1744)光明真言五十万遍修を刻んだ阿弥陀如来立像も立っていてこちらは正徳元年(1711)の造立です。尚、光明真言の真は「有+大」を上下に組んだ面白い異体字ですね。墓地の中にはまだまだ供養佛像がありそうですが今回はこれくらいにしておきましょう。おまけですが境内に町指定無形文化財「手賀ばやし」の解説板があったので貴重な民俗行事も仕入れておきましょう。

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