柏市は千葉県北東部に位置する人口40万人の中核都市で、この柏市に平成17年3月に編入されたのが今回巡る旧沼南町(しょうなんちょう)です。中世では千葉氏・北条氏の支配を受け、近世では幕府の中野牧に見られる幕府直轄地と細分化された旗本知行地から成り立ってきました。明治に入っても20以上の小さな村が残り今でも大字として残っています。明治初期の町村合併で旧風早村と旧手賀村に集約されこれが沼南町の前身となりました。旧風早村は南相馬郡塚崎・大井・大島田・箕輪・五條谷・高柳・藤ヶ谷・藤ヶ谷新田と印旛郡箕輪村新田・大井村新田が合併したものです。旧手賀村は南相馬郡泉・若白毛・岩井・鷲野谷・金山・柳戸・片山・手賀・布瀬ほか印旛郡のそれらの新田などを合併して出来たものです。(以上、沼南町史より引用)テキストは沼南町史Ⅰ・沼南町史-資料集金石文ⅠⅡを使用しました。
今回の石仏廻りもこれらの旧村名を戴いた地区ごとの拝観となりました。布瀬の地名は手賀沼の渡津でここから湖北の新木にわたる所に布施屋を置き旅人を救護する習わしがあったことによるとの説があります。(沼南風土記より)
52-1布瀬の百庚申
県道282号線通称柏・印西線で旧沼南町の東端地区が布瀬・布瀬新田に当たります。柏方向から布瀬地区に入る所に小学校入口バス停があります。バス停傍から県道沿い北側に百庚申が並んでいて「これぞ北総の百庚申」と思わず頬が緩みました。
中央に天保三年(1832)の青面金剛像塔を置き9基の文字庚申塔ごとに1基の青面金剛塔を並べ計97基が確認できました。
左が中央の正面金剛塔でショケラ持ちですが、右の正面金剛はショケラを抱きかかえています。ちょっと見かけない像容ですね。これらは文政七年(1824)から明治8年(1875)の約50年間で造立されています。恒例のおどけ猿たちの大行進を載せておきましょう。
他に延享三年(1746)から明治15年までの造立で青面金剛像塔2基、文字青面金剛塔3基、文字庚申塔3基、西国・坂東・秩父巡拝供養塔1基、文字馬頭観音塔1基が林の中にも並んでいます。又別に、百庚申の東端には庚申供養の石製御寶前が置かれています。滅多にお目にかかれない珍しいものですね。そして、百庚申先の筋向い林中にも頭部に胎蔵界大日如来の種子アを刻んだ、明和六年(1769)六十六部日本廻国塔がスマートに建っています。次のバス停から南に入ると木崎・薬師堂ですが、安政六?年己の十九夜塔1基を見つけただけでしたので先を急ぎます。
52-2中原・地蔵堂の六十六部塔
県道282号から南に中原集落へ入っていくと左曲がり角に地蔵堂があります。入口左に7基の石仏が並んでいます。墓標がほとんどですが中の2基が供養塔です。背の高いのが安永七年(1778)廻國六十六部像塔です。脚絆の六部が笈を背負って廻國する姿を彫っています。有名なのは同じく旧沼南町高柳公民館庭にある房総の石仏百選・廻國行者像ですが、この埋もれた所にも廻國行者像塔があるとは驚きです。像容はイマイチですが貴重な石仏なのでもう少し手入れよく残されるといいなあと惜しく思いました。隣にも同じく安永七年の十九夜塔が並んでいます。テキストに記載ある筆子搭は未見です。
52-3.布瀬農業構造改善センターの石仏
県道282号線から別れ字駒形の福蔵院跡にある布瀬農業構造改善センターに向かいます。センターの前には巡礼の弘法大師ブロンズ像が祀られています。今は村の広場ともいえる空間ですがその東側敷地に沿って9基の石仏と2基の石祠が2段で置かれています。
右の写真は前面左・昭和44年大師講供養碑、前面右は昭和19年新四国巡拝塔です。その間に顔をのぞかせているのは後列に並ぶ宝永七年(1710)青面金剛塔で す。写真左端は文政九年(1828)湯殿山主尊出羽三山塔であります。この写真では見えませんが大師講碑の後ろ隠れて2基の十九夜塔があります。延宝六年(1678)遊戯座(右膝立)如意輪観音像と貞享五年(1688)立像如意輪観音像2体の写真を載せておきましょう。
他にも首の取れた大師像?や2基の石祠・無縫塔なども並んでいます。改善センターの前や奥にも平成11年百八十八箇所巡拝塔・昭和54年出羽三山供養塔なども置か れていて、金石遺物として現代にも残される習俗の強さに改めて感じいりました。
52-4布瀬・西口墓地入口辻の道標
構造改善センターから村道に戻り300mも北上すれば左に西口墓地が広がる四辻に出ます。交差点の中がロータリー状の島になり道標や石祠が竜のひげに取り巻かれるように置かれています。
右端の石柱は昭和8年道標で「手賀小学校ヲ経テ片山方面ニ至ル」「柳戸泉ヲ経テ千間渡船場」と刻まれています。非常に興味深い文言です。この辻をどんどん行くと県道282号線の更に南方に手賀沼と千間堤に行き着きます。そのあたりは千間という地名も残り手賀沼の渡し場が主要交通路であったことを明言しているのですね。
このページの冒頭・旧沼南町の黄地図で片山・柳戸・泉の字が確認できますね。大師道の道標は両手人差指が矢印代わりです。竜のヒゲで隠れていますが「手賀・布瀬」と指図する地名も刻まれています。他には明治24年と?政元年の傷んだ道祖神も置かれています。
きっと交通量の多い村境だったのでしょう。
尚、左手に広がる西口墓地は「仏教・キリスト教・神道の墓塔が同居する珍しい墓地」とテキストに紹介されていますが、神道墓標がどれかは確認できませんでした。手賀地区の寺台墓地ではキリスト教・仏教墓塔の顕著な同居事例を見ることが出来るのでその折に同居写真を紹介することにしましょう。
52-5宝寿院の時念仏供養塔(地蔵)
先ほどの辻を右にとり三叉路を右手に降りるように下ると左に宝寿院があります。中世末期・享禄元年(1528)年の創立といわれ明和安永年代(18世紀後半)に石段や諸堂整備が進んだようです。正面参道は南西の山門下から石段が続いています。この石段左に宝暦十一年(1761)年時(斎)念仏供養塔と刻まれた延命地蔵が立っています。大日如来像など5基の墓塔が地蔵の足元に佇んでいます。石段の右手は新四国七十九番の石柱です。35段の石段を上がればがらんとした境内がひろがります。
左手のフェンス沿いには筆子搭3基と平成13年・平成元年の大師講供養塔の5基の石碑が並んでいます。
右手には七十九番・六十二番大師堂やお堂に祀られた石仏や石祠が並び、その奥に墓地が広がっています。写真の左の石仏は天保八年(1837)念佛講と刻まれた金剛界大日如来です。お堂に祀られているのは文政九年(1826)子安観音です。安政四年(1857)稲荷大明神石祠が続き、その並びは安永八年(1779)十九夜塔となります。明和九年(1772)六臂合掌青面金剛塔は童顔丸顔の農村青年みたいですね。
52-6香取鳥見神社の石祠群 宝寿院からもと来た道に戻ります。さらに村中の道を北上します。台地が尽きて手賀沼が見える下り坂になること右に畑中へ分かれる道をとれば香取神社の木製両部鳥居(稚児柱のついた四脚門)が迎えてくれます。鳥居の横駐車場に香取鳥見神社再建記念碑があるのでお勉強してからお参りしましょう。「文武二年(698)の創建・・・平将門の乱で灰燼・・千葉常重が拠出・・・・天保九年(1838)改築・・大正六年新築・・・昭和61年焼失・・昭和63年再建」と住民の厚い崇敬で維持されてきたことが記されています。ここから約100mほど薄暗い参道が続きます。30mほど進むと右に3mもある立派な鴨猟記念碑が建てられています。上部タイトルは「鴨猟記念碑」となっていますが碑文の最初は「手賀沼猟場碑」となっています。始まりは14世紀までさかのぼるといわれ、下沼12の集落で手賀沼鳥猟組合を結成して鴨猟を行ってきました。猟期は11月初旬から翌年2月までの4ヶ月。出猟時はテッカメシ(アカメシといって人参炊込ご飯)をエビス様に供えてからとのことで、アカアシ(真鴨)をなぞらえた好猟信仰にちなむようです。かって、カモは歳暮に珍重されて高値で求められ、農閑期の農家にとって貴重な収入源だったとか。(以上、教育委員会「沼南の歴史をあるく」から抜粋引用)解説版も読んでおきましょう。さらに進んでいくと簡単な板葺き屋根をかけて下に9基の石塔・石祠が並んでいます。左端から寛政四年(1792)稲荷大明神・昭和4年稲荷神社・不明石祠・文政八年(1825)箭弓稲荷大明神(やきゅういなり)・文政九年(1826)飯綱権現・明和八年(1771)蔵王大権現・文化十三年(1816)牛頭天王・安政四年(1857)大黒天宮・明治10年辨財天が並んでいます。箭弓稲荷は初出かもしれませんが矢弓の意で、東松山市にあって日本三大稲荷にも数えられるとか、Wikipediaでお勉強しておきましょう。ついでに飯綱権現(いづなごんげん)も載せておきましょう。続いて7基の石祠石塔も少し離れて並んでいます。左から不明石祠・安政七年(1860)三輪大明神・安永八年(1779)大黒天・文政四年(1821)六字名号塔・明治30年神明宮・明治41年水神宮・不明石祠が並んでいます。「神明」宮は天照大神をさす言葉なので伊勢内宮を総本社とする神社をあらわしているようです。明治41年水神宮の裏面は大猟記念・猟業者という文言が読み取れます。ここでも鴨猟碑で紹介したとおり地元民の水産業に生きた時代の痕跡が垣間見えますね。それにしてもこれだけの神様をよく境内合祀したものです。明治元年の神仏判然令により各地で独立した神社を明治政府は後半期に統合する動きに出ます。これが神社合祀令で「大正3年までに20万社のうち7万社が取り壊された・・」とWikipediaに載っています。そしてこの香取神社のように境内合祀の神社が団地のように祀られることとなったわけです。余談ですが、先日我孫子市緑の香取神社を拝見してきましたが、明治40年の石の鳥居柱に合祀した12の神名を綺麗に彫り込んでいて、目が点になったケースもありました。ご参考までに写真を載せておきましょう。ほかにも拝殿前の慶応二年(1866)狛犬は重厚感あふれるいい作品です。石塔群にかくれていますが、大正天皇成婚碑(紀念敷石奉納)というのもありました。村人たちの祝福をパブリックスペースの整備に充てているというのもいいなあと思った次第です。
今回は写真の配置を試行錯誤してみたので、ブラウザによっては見難いものとなったかもしれません。
今回の石仏廻りもこれらの旧村名を戴いた地区ごとの拝観となりました。布瀬の地名は手賀沼の渡津でここから湖北の新木にわたる所に布施屋を置き旅人を救護する習わしがあったことによるとの説があります。(沼南風土記より)
52-1布瀬の百庚申
県道282号線通称柏・印西線で旧沼南町の東端地区が布瀬・布瀬新田に当たります。柏方向から布瀬地区に入る所に小学校入口バス停があります。バス停傍から県道沿い北側に百庚申が並んでいて「これぞ北総の百庚申」と思わず頬が緩みました。
52-2中原・地蔵堂の六十六部塔
県道282号から南に中原集落へ入っていくと左曲がり角に地蔵堂があります。入口左に7基の石仏が並んでいます。墓標がほとんどですが中の2基が供養塔です。背の高いのが安永七年(1778)廻國六十六部像塔です。脚絆の六部が笈を背負って廻國する姿を彫っています。有名なのは同じく旧沼南町高柳公民館庭にある房総の石仏百選・廻國行者像ですが、この埋もれた所にも廻國行者像塔があるとは驚きです。像容はイマイチですが貴重な石仏なのでもう少し手入れよく残されるといいなあと惜しく思いました。隣にも同じく安永七年の十九夜塔が並んでいます。テキストに記載ある筆子搭は未見です。
県道282号線から別れ字駒形の福蔵院跡にある布瀬農業構造改善センターに向かいます。センターの前には巡礼の弘法大師ブロンズ像が祀られています。今は村の広場ともいえる空間ですがその東側敷地に沿って9基の石仏と2基の石祠が2段で置かれています。
右の写真は前面左・昭和44年大師講供養碑、前面右は昭和19年新四国巡拝塔です。その間に顔をのぞかせているのは後列に並ぶ宝永七年(1710)青面金剛塔で す。写真左端は文政九年(1828)湯殿山主尊出羽三山塔であります。この写真では見えませんが大師講碑の後ろ隠れて2基の十九夜塔があります。延宝六年(1678)遊戯座(右膝立)如意輪観音像と貞享五年(1688)立像如意輪観音像2体の写真を載せておきましょう。
52-4布瀬・西口墓地入口辻の道標
構造改善センターから村道に戻り300mも北上すれば左に西口墓地が広がる四辻に出ます。交差点の中がロータリー状の島になり道標や石祠が竜のひげに取り巻かれるように置かれています。
右端の石柱は昭和8年道標で「手賀小学校ヲ経テ片山方面ニ至ル」「柳戸泉ヲ経テ千間渡船場」と刻まれています。非常に興味深い文言です。この辻をどんどん行くと県道282号線の更に南方に手賀沼と千間堤に行き着きます。そのあたりは千間という地名も残り手賀沼の渡し場が主要交通路であったことを明言しているのですね。
尚、左手に広がる西口墓地は「仏教・キリスト教・神道の墓塔が同居する珍しい墓地」とテキストに紹介されていますが、神道墓標がどれかは確認できませんでした。手賀地区の寺台墓地ではキリスト教・仏教墓塔の顕著な同居事例を見ることが出来るのでその折に同居写真を紹介することにしましょう。
52-5宝寿院の時念仏供養塔(地蔵)
先ほどの辻を右にとり三叉路を右手に降りるように下ると左に宝寿院があります。中世末期・享禄元年(1528)年の創立といわれ明和安永年代(18世紀後半)に石段や諸堂整備が進んだようです。正面参道は南西の山門下から石段が続いています。この石段左に宝暦十一年(1761)年時(斎)念仏供養塔と刻まれた延命地蔵が立っています。大日如来像など5基の墓塔が地蔵の足元に佇んでいます。石段の右手は新四国七十九番の石柱です。35段の石段を上がればがらんとした境内がひろがります。
左手のフェンス沿いには筆子搭3基と平成13年・平成元年の大師講供養塔の5基の石碑が並んでいます。
右手には七十九番・六十二番大師堂やお堂に祀られた石仏や石祠が並び、その奥に墓地が広がっています。写真の左の石仏は天保八年(1837)念佛講と刻まれた金剛界大日如来です。お堂に祀られているのは文政九年(1826)子安観音です。安政四年(1857)稲荷大明神石祠が続き、その並びは安永八年(1779)十九夜塔となります。明和九年(1772)六臂合掌青面金剛塔は童顔丸顔の農村青年みたいですね。
今回は写真の配置を試行錯誤してみたので、ブラウザによっては見難いものとなったかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿