新年もよろしくお願いします。古い記録の整理になっていると反省してますが。
国道356号線はJR成田線湖北駅の北を東西に走っています。湖北駅入口の信号の一つ東の信号交差点角に中峠不動尊があります。敷地内入り口に中峠下公民館がありその奥が中峠不動尊で旧照妙院跡地となっています。
95-1中峠不動尊(なかびょうと読みます)
「湖北村史」記載の伝承で「延暦二十三年(804)空海僧正遣唐使に随い入唐の船中にて、一刀参礼の作と称せられし不動尊の像なりしが・・・・(故あって)・・・現在地へ移転せるものなり 」とのべられています。我孫子の石造物所在地リストではこの地で石造物が57件もリストアップされ、我孫子石仏の博物館ともいえる存在となっています。境内は下の写真のようになっています。
昭和59年修築の不動堂が正面に見えています。不動堂の後に天明四年(1784)の石尊大権現石碑が(富士塚状で)祀られているのはちょっと不思議ですね。
石仏は写真左手でトラック状の通路の手摺に沿って並べられています。手前のブロックは庚申塔・山岳信仰碑・十九夜塔などが中心です。
その先は庚申塔・二十六夜塔・馬頭観世音塔などが行儀良く並べられています。
じっくりみていくと元禄十六年(1703)~寛政七年(1795)まで7基の庚申塔が確認できました。正徳二年(1712)~文政十三年(1830)で3基の十九夜塔も確認できます。文政十二年(1829)二十三夜塔は1基だけですが、愛染明王をいただく二十六夜塔は3基も存在しています。馬頭観世音塔は宝暦三年(1753)~昭和十七年で9基が並んでいます。いやあ、勉強になりますが混乱してきますね。
そんな訳で、気になる石仏を少々載せておきます。上のほうの写真左端は寛保元年(1741)塔でショケラ持ちの2童子付です。
踏みつけられた邪鬼が正面向グー拳なので、こういうのがお好きな同好の士がおられるかもしれません。
その隣も2童子付ですが、磐座の下で童子が向き合う形も珍しく左の童子が杖状のものを持つ姿も変わっています。下のほうの集合写真の左から2基めは、この中で最古の元禄十六年(1703)青面金剛塔は「奉彫刻 庚申尊影一基・・」と刻んでいる珍しい表現の石仏です。又、この地区では二十六夜待信仰も盛んだったようで愛染明王・二十六夜塔が3基も並んでいます。Wikiで愛染明王を確認しておきましょう。
分かり易い写真を撮れないのは残念ですが、つい先入観で藍染の壷に座っているわなあと思い込んでしまいます。下の方の集合写真で右端は文字馬頭観世音塔の団体です。江戸後期・明治・大正・昭和と時代は変わっても律儀に祀られているのはそれだけ縁が深かったからと思えます。
境内には別途、天神社と愛宕神社の小堂が あります。
中には文化八年(1811)勝軍地蔵像と大正四年天神像が祀られています。紀年名は所在地リストからの引用で未確認ですが、この地区では珍しく出来のよい像容なので拝見しておきましょう。
95-2龍泉寺
開山開基不明ながら、湖北村史に最古の草創伝承を載せている古刹です。度重なる羅災で古記録などが消失しています。立派な寛永六年(1629)寶篋印塔を除けば、石仏も寺の入口脇の大師堂側に寂しく残されているだけです。
正徳元年(1711)大杉大明神石祠と地蔵か馬頭観音と思われるものしか目にすることが出来ませんでした。
95-3宝照院
開山・開基不明ですが、安永四年(1775)新四国八十八箇所の第二十八番土州大日寺写しの霊場になっています。我孫子市史には法照院で記載がありますが、地図上は宝照院で表示されています。大師堂の手前に四連の長屋形お堂が建っています。
左から待道権現・天満宮・石神社・阿弥陀如来の額がかけてあります。石神社には立派な金精様=陽石や木製が何基が祀られていて実にご利益が分かり易いようになっています。
お堂の右手前にはやや荒れた延享三年(1746)愛染明王の二十六夜待塔が置かれています。
95-4中里の庚申堂
国道356号の湖北駅入口信号を南下します。1本東の筋の四つ角に庚申堂が建っています。
堂内に正徳元年の青面金剛像塔が祀られています。
お堂左には昭和17年・明治35年の文字庚申塔が立っています。奥にある昭和58年庚申塚再建記念碑が住民の信仰の篤さを表しています。又、お堂右にも小さな大正元年猿田彦塔が置かれていて昔は庚申塚として存在していたようです。尚、写真に見える小さな石覆屋には大師坐像に地蔵の首を継いで祀っています。違和感があり過ぎて???
95-5中峠後作の一石七観音
テキストは後作=旧字名の表示ですが地番は中峠1118先となっています。T字路の角にある覆い屋に墓石とならんで祀られています。我孫子で唯一の七観音ですが、無名の場所にこのように祀られているのは不思議ですね。並んでいる墓石などから見て、昔は庵があったのでしょう。元禄十三年(1700)に「道心三箇年願望相當今月庚申年正月二拾三夜以前所願成就奉安置」されたものです。
下段右=四臂・千手観音?、下段中=未敷蓮華持聖観音、 下段左=合掌馬頭観音、中段右=十一面観音?、中段中=花瓶持准胝観音?、中段左=如意輪観音、上段=合掌観音となっています。通常、六観音に不空羂索観音を加えて七観音とするそうです。六観音は六道に迷う人間を救済する思想で、地獄道-聖観音、餓鬼道-千手観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっていますが、さて、七観音となるとどうなるのでしょうか?
95-6中峠・下根古屋足尾神社
国道356号線湖北駅入口交差点の西50mで北上する道路を800m程辿れば、カーブミラーのところで足尾山神社に向かう細道が右に別れて神社へと導いてくれます。もと今井四郎兵衛家氏神で今井家が管理しているそうです。
広場状の境内に、ポツリポツリと石造物が置かれています。大正12年蚕影山神社、文化拾年(1813)足尾山大権現石祠・天保三年(1832)水天宮石祠等等。十九目と三十四目の力石も置かれています。
足尾山の連想から足の病に霊験ありといわれ、わらじ奉納や病気回復のお礼が上の写真のようになっています。
ところで神社入口のカーブミラー側に昭和12年町村道路改修の紀念碑が建っています。何気なく見ていると「中峠渡船場第一号線・道路延長1220m・・」と表示されています。
どうやら前の道路は利根川渡船場に通ずる道路のようで、往時は結構な人通りで栄えた事が思い浮かばれます。
より大きな地図で 95北総石仏 我孫子の石仏 中峠(なかびょう) を表示
路傍や社寺の片隅にある石造物に心惹かれて。 出来ないことを数える人生でなく、出来ることを数える人生を歩みたいと思います。ホームグラウンドの房総の石仏(主に北総)を巡ります。時々Eシリーズで近県へ遠足拝観を行います。文末の地図は拡大表示ができ、マークをクリックしてごらん下さい。 このブログは筆者の備忘録のつもりで記載を始めたものです。東日本大震災前の記録も多く、現状と相違している場合もあるのでご承知願います。 10年ぶりに見直したところ、Google地図が仕様変更となって、地図のリンク切れが散見されました。分かる範囲で復旧するつもりですが、更新記事は地図再掲のものが主となります。
2009/12/13
60北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅵ(泉)
泉地区は東が柳戸・南に白井市今井地区・北に鷲野谷手賀沼に接し、古文書から見てその成立が鎌倉前期にまで遡ることができる出来る古い地区のようです。至るところ湧き水が見られるところから泉と呼ばれるようになったのでしょうか、泉地区の鎮守は「伊津美神社」の額がかかっています。既出の11印西永治Ⅲで述べた印西市和泉(いずみ)地区は「小倉いずみ」と呼ばれ、こちらの地区は「相馬いずみ」と呼んで区別されたようです。
尚、訪問される場合は雑草などの冬枯れ2月~3月頃の時期をお勧めします。
60-3二十三夜堂(三夜さま)
大日様の分岐から県道を西に150m進むと手賀西小学校への道となる信号のある交差点です。交差点を北へ小学校への道を400mほど進むと下り坂のT字路になります。この角が通称三夜さまと呼ばれる(二十)三夜堂です。
元は吉祥院と呼ばれた真言宗寺院でしたが明治18年小学校創設の際にお寺の本堂を改修使用され、以降寺院機能はなくなったようです。この三夜堂だけが小学校(現在の手賀西小学校)隣に移設されて今日に至っています。写真右の道路際大きな石柱は文化五年(1808)新四国七十番泉村吉祥院と刻まれた札所石です。元のお堂は文化年間(1804~1818)造営で本尊は聖観世音だそうです。堂の左奥に年不明・二十三夜塔がすえられています。
この塔は泉地区字三夜という田んぼから出土した古塔で出土にちなんでこの字名がつけられたようです。
三夜堂の角から小学校正門前へ右折100mほど進むと校門と道を挟んだ小高い場所におせし様板碑が祭られています。
60-4おせし様板碑
大木の下に「おせし様板碑」がひっそりとたたずんでいます。はい、板碑です。Wikipediaで板碑を見ておきましょう。こちらは緑泥片岩で出来た武蔵型板碑です。北総地区は武蔵型板碑と下総型板碑の併存地帯です。沼南には武蔵型板碑が約380基に対し下総型板碑は数基と偏在しているようです。下総型板碑は筑波産黒雲母片で出来ていて結構分厚い板碑ですが、大井地区の「阿弥陀さま板碑」でご紹介しましょう。おせし様板碑は大木の根元にお参りの踏み石があってその先にコモを被って祀られています。
コモを外してじっくり拝観してみると、室町時代末期の簡略形の図案ですが典型的な武蔵型板碑と思われます。
天文四年(1535)庚申待供養で二郎四郎、源五郎さんなどが建立しています。
天蓋の下、月輪の中に釈迦如来の種子バクを刻み蓮台の上に載せています。敷布を掛けた三具足には中央に香炉・右に燭台・左に花瓶(けびょう)が置かれています。板碑のテキストに載っている通りですね。”おせしさま”は”勢至菩薩”のことなので、種子=釈迦如来なのに勢至菩薩とどういうことかと、「沼南風土記」ではその経緯に触れています。つまり、先ほどの二十三夜堂は元はこの板碑のあたりにあって、二十三夜講の本尊は勢至菩薩であることに由来すると述べていますね。
この項を書いた後で確認の為、10ヶ月ぶりに現地確認をしたところ上の写真のとおり立派な解説板が設置されていました。
60-5妙見社の庚申代石
妙見社は字中城という戦国時代の城址に位置します。三夜堂から南側の坂を登って右折したところに位置します。
稲荷社の横、石段を上がると粗末な拝殿の後ろに写真のような本殿が隠れています。テキストによると永正九年(1512)建立の由緒ある神社で、安政四年(1857)京都白河殿へ「相馬神社」の社号申請をしたようですが相馬郡の総社と間違われるとして「北斗」の二字をつけて「相馬北斗大神社」の社号を受けています。明治43年妙見社は先ほどの鳥見神社に合祀されて本殿もそっくり移転してしまいました。
その時の「遺跡碑」が本殿の横、写真のように立てられています。でも、その後凶事が続いたことから妙見大明神が旧跡に帰りたがっていると感得して、昭和9年にもとのこの地にささやかな本殿をつくり祭神を祀ることになって戻ってきた次第です。調べてみると結構曲折があって面白いものですね。ついでに「遺跡碑」横にある「庚申代石」というのも見てみましょう。
碑面を読むと「享保十五年(1730)、村の庚申講で妙見社の神木松ノ木を買って寄付したので今後住み込む僧は切るべからず、吉祥院住僧」と理解したのですが如何。昔は神仏習合で庵や社に僧が住んでいても不思議ではありませんからありえたのでしょう。尚、妙見社は妙見菩薩との関わりで理解することになるのでWikipediaを参考にしてください。
今回はここまでとしましょう。次回は泉地区で県道印西・柏線の南側を歩きます。
より大きな地図で 60北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅵ(泉 を表示
60-1鳥見神社(伊津美神社)の石仏
県道282号印西柏線で手賀郵便局を過ぎ明治牛乳沼南販売所で南方へ村道を進めば泉青年館が隣接する鳥見神社となります。こちらは鳥見・香取・春日の三社を祀っています。
安永九年(1780)の明神鳥居には「伊津美/鳥見神社」と併記された額が掛かって、泉の地名との関わりが窺えますが鳥見神社でもあって、ちょっと戸惑います。境内に大型の石造物はそれほど多くありませんが小さな石祠がとりどりに幾種類かあるので載せておきます。境内の左側にコンクリートで基壇をつくりその上に石祠や石塔と金精様というのでしょうか石神石棒が置かれています。
左から不明石祠、文久二年(1862)秋葉山祠=火防せの神、天保二年(1831)石神大明神=この場合は生産の神、そし金精様・石神=男根型の石棒・木棒が置かれています。屋外に露出しておいてあるのは珍しいですね。今時は社内で目立たないように置かれているものが多いのですが。
少し離れて安政八年(1859)大杉神社=疫病・疱瘡除け、文久二年金比羅宮=通常は海上交通の守り神、文久二年弁財天石祠=通常は技芸神の三基の石祠です。
参道を挟んで向かいには同じく文久二年笠石唐破風屋根の駒形宮=馬の守護神で岩手県水沢市の式内社駒形神社信仰塔も置かれています。他に天神宮・雷神石祠もあるようです。江戸時代末期の農村の鎮守に様々な信仰記念物がひしめいている姿から当時の様子がしのばれます。
60-2泉の大日様の勝軍地蔵
先ほどの県道282号印西柏線の北側へ戻ると北上してすぐに二股に分かれます。この二股が塚状になっていてここが大日様となっています。潅木に囲まれていて道路側からは塚になっていることは全く分かりません。
三角州状の塚の北口が正面階段になっていて、そこから入ると写真のように左手に出羽三山碑が2基並んでいます。文政六年(1823)駒形の湯殿山主尊で頭部に胎蔵界大日如来の種子アーンクを刻しています。右は明治34年自然石型で新しいから月山主尊ですね。階段正面から見ると奥に石碑2基と前に3体の石仏が並んでいます。
写真後列左が文化十二年(1815)六字名号塔で上郷下郷村々講中一蓮托生と刻まれ15村300人余で建立されています。後列右は昭和54年月山主尊出羽三山供養塔です。前列に並ぶのが左に年不明(江戸末期カとテキスト記載)丸彫りの勝軍地蔵です。
Wikiでは道祖神と習合した地蔵となっています。日本石仏事典では火伏神となって少しニュアンスが違います。左手宝珠持ちで惜しいことに右手の槍は無いのですが北総で丸彫りの勝軍地蔵を見ることができるのは大変貴重なものです。「房総の石仏百選」では馬乗り馬頭観音のような佐原市大倉の石像を掲載していますが、私はこちらのほうがやんちゃ坊主のようで好きですね。中央が明和六年(1769)胎蔵界大日菩薩です。実はなんか変だなあと思っていたのですが、これをブログに載せようとしてハタと気がつきました。この大日菩薩は弥陀定印を結んでいる不思議な大日さんなんですね。
両手の人差し指を折り曲げて合わせる印を結んでいます。胎蔵界大日如来は悟りの世界を表す法界定印(両手の親指の先を合わせ他の指を伸ばす印相)を結ぶ筈なんですけど、阿弥陀如来の印相を結んでいます。この仏は本当に大日さん?と疑われるなら、背中に「私は大日如来です」と刻まれているのでご覧ください。
右端の年不詳大日如来も載せておきます。こちらはお約束の法界定印ですね。県道282号印西柏線で手賀郵便局を過ぎ明治牛乳沼南販売所で南方へ村道を進めば泉青年館が隣接する鳥見神社となります。こちらは鳥見・香取・春日の三社を祀っています。
安永九年(1780)の明神鳥居には「伊津美/鳥見神社」と併記された額が掛かって、泉の地名との関わりが窺えますが鳥見神社でもあって、ちょっと戸惑います。境内に大型の石造物はそれほど多くありませんが小さな石祠がとりどりに幾種類かあるので載せておきます。境内の左側にコンクリートで基壇をつくりその上に石祠や石塔と金精様というのでしょうか石神石棒が置かれています。
左から不明石祠、文久二年(1862)秋葉山祠=火防せの神、天保二年(1831)石神大明神=この場合は生産の神、そし金精様・石神=男根型の石棒・木棒が置かれています。屋外に露出しておいてあるのは珍しいですね。今時は社内で目立たないように置かれているものが多いのですが。
少し離れて安政八年(1859)大杉神社=疫病・疱瘡除け、文久二年金比羅宮=通常は海上交通の守り神、文久二年弁財天石祠=通常は技芸神の三基の石祠です。
参道を挟んで向かいには同じく文久二年笠石唐破風屋根の駒形宮=馬の守護神で岩手県水沢市の式内社駒形神社信仰塔も置かれています。他に天神宮・雷神石祠もあるようです。江戸時代末期の農村の鎮守に様々な信仰記念物がひしめいている姿から当時の様子がしのばれます。60-2泉の大日様の勝軍地蔵
先ほどの県道282号印西柏線の北側へ戻ると北上してすぐに二股に分かれます。この二股が塚状になっていてここが大日様となっています。潅木に囲まれていて道路側からは塚になっていることは全く分かりません。
三角州状の塚の北口が正面階段になっていて、そこから入ると写真のように左手に出羽三山碑が2基並んでいます。文政六年(1823)駒形の湯殿山主尊で頭部に胎蔵界大日如来の種子アーンクを刻しています。右は明治34年自然石型で新しいから月山主尊ですね。階段正面から見ると奥に石碑2基と前に3体の石仏が並んでいます。
写真後列左が文化十二年(1815)六字名号塔で上郷下郷村々講中一蓮托生と刻まれ15村300人余で建立されています。後列右は昭和54年月山主尊出羽三山供養塔です。前列に並ぶのが左に年不明(江戸末期カとテキスト記載)丸彫りの勝軍地蔵です。
Wikiでは道祖神と習合した地蔵となっています。日本石仏事典では火伏神となって少しニュアンスが違います。左手宝珠持ちで惜しいことに右手の槍は無いのですが北総で丸彫りの勝軍地蔵を見ることができるのは大変貴重なものです。「房総の石仏百選」では馬乗り馬頭観音のような佐原市大倉の石像を掲載していますが、私はこちらのほうがやんちゃ坊主のようで好きですね。中央が明和六年(1769)胎蔵界大日菩薩です。実はなんか変だなあと思っていたのですが、これをブログに載せようとしてハタと気がつきました。この大日菩薩は弥陀定印を結んでいる不思議な大日さんなんですね。
両手の人差し指を折り曲げて合わせる印を結んでいます。胎蔵界大日如来は悟りの世界を表す法界定印(両手の親指の先を合わせ他の指を伸ばす印相)を結ぶ筈なんですけど、阿弥陀如来の印相を結んでいます。この仏は本当に大日さん?と疑われるなら、背中に「私は大日如来です」と刻まれているのでご覧ください。
尚、訪問される場合は雑草などの冬枯れ2月~3月頃の時期をお勧めします。60-3二十三夜堂(三夜さま)
大日様の分岐から県道を西に150m進むと手賀西小学校への道となる信号のある交差点です。交差点を北へ小学校への道を400mほど進むと下り坂のT字路になります。この角が通称三夜さまと呼ばれる(二十)三夜堂です。
元は吉祥院と呼ばれた真言宗寺院でしたが明治18年小学校創設の際にお寺の本堂を改修使用され、以降寺院機能はなくなったようです。この三夜堂だけが小学校(現在の手賀西小学校)隣に移設されて今日に至っています。写真右の道路際大きな石柱は文化五年(1808)新四国七十番泉村吉祥院と刻まれた札所石です。元のお堂は文化年間(1804~1818)造営で本尊は聖観世音だそうです。堂の左奥に年不明・二十三夜塔がすえられています。
この塔は泉地区字三夜という田んぼから出土した古塔で出土にちなんでこの字名がつけられたようです。三夜堂の角から小学校正門前へ右折100mほど進むと校門と道を挟んだ小高い場所におせし様板碑が祭られています。
60-4おせし様板碑
大木の下に「おせし様板碑」がひっそりとたたずんでいます。はい、板碑です。Wikipediaで板碑を見ておきましょう。こちらは緑泥片岩で出来た武蔵型板碑です。北総地区は武蔵型板碑と下総型板碑の併存地帯です。沼南には武蔵型板碑が約380基に対し下総型板碑は数基と偏在しているようです。下総型板碑は筑波産黒雲母片で出来ていて結構分厚い板碑ですが、大井地区の「阿弥陀さま板碑」でご紹介しましょう。おせし様板碑は大木の根元にお参りの踏み石があってその先にコモを被って祀られています。
コモを外してじっくり拝観してみると、室町時代末期の簡略形の図案ですが典型的な武蔵型板碑と思われます。
天文四年(1535)庚申待供養で二郎四郎、源五郎さんなどが建立しています。
天蓋の下、月輪の中に釈迦如来の種子バクを刻み蓮台の上に載せています。敷布を掛けた三具足には中央に香炉・右に燭台・左に花瓶(けびょう)が置かれています。板碑のテキストに載っている通りですね。”おせしさま”は”勢至菩薩”のことなので、種子=釈迦如来なのに勢至菩薩とどういうことかと、「沼南風土記」ではその経緯に触れています。つまり、先ほどの二十三夜堂は元はこの板碑のあたりにあって、二十三夜講の本尊は勢至菩薩であることに由来すると述べていますね。
この項を書いた後で確認の為、10ヶ月ぶりに現地確認をしたところ上の写真のとおり立派な解説板が設置されていました。60-5妙見社の庚申代石
妙見社は字中城という戦国時代の城址に位置します。三夜堂から南側の坂を登って右折したところに位置します。
稲荷社の横、石段を上がると粗末な拝殿の後ろに写真のような本殿が隠れています。テキストによると永正九年(1512)建立の由緒ある神社で、安政四年(1857)京都白河殿へ「相馬神社」の社号申請をしたようですが相馬郡の総社と間違われるとして「北斗」の二字をつけて「相馬北斗大神社」の社号を受けています。明治43年妙見社は先ほどの鳥見神社に合祀されて本殿もそっくり移転してしまいました。
その時の「遺跡碑」が本殿の横、写真のように立てられています。でも、その後凶事が続いたことから妙見大明神が旧跡に帰りたがっていると感得して、昭和9年にもとのこの地にささやかな本殿をつくり祭神を祀ることになって戻ってきた次第です。調べてみると結構曲折があって面白いものですね。ついでに「遺跡碑」横にある「庚申代石」というのも見てみましょう。
碑面を読むと「享保十五年(1730)、村の庚申講で妙見社の神木松ノ木を買って寄付したので今後住み込む僧は切るべからず、吉祥院住僧」と理解したのですが如何。昔は神仏習合で庵や社に僧が住んでいても不思議ではありませんからありえたのでしょう。尚、妙見社は妙見菩薩との関わりで理解することになるのでWikipediaを参考にしてください。今回はここまでとしましょう。次回は泉地区で県道印西・柏線の南側を歩きます。
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