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2011/08/12

114北総石仏 柏の石仏 増尾Ⅱ

暑さで気力が萎えていますが引き続いての増尾です。県道51号線にある土小学校を200m北上すると増尾山少林寺があります。
114-1少林寺の石仏
永禄元年(1558)に創建されたと伝えられる、臨済宗大徳寺派のお寺です。門前右に謂れを記した立派な石碑が立てられています。それによると、増尾の領主であった相馬重胤の首級が増尾に葬られ、その墓碑である一石五輪塔がこちらに祀られています。北原白秋の2番目の妻、江口章子の歌碑もあるとか。
相馬重胤公の墓碑・一石五輪塔
山門右に上掲石碑と並んで、正徳元年(1711)の庚申塔が立っています。
山門を入った右に広がる墓地の手前には地蔵塔が3基立っています。
左から宝永六年(1709)・紀年不明・文化十四年(1817)の延命地蔵です。時代が違うとデザインも違うので面白いですね。
114-2土中学校裏門の石仏
増尾1丁目23-1に柏市立中学校があります。この裏門へあがる坂道手前のコンクリート囲いの中に台石に三猿がついた明和三年(1766)帝釈天塔と赤いケープを掛けた地蔵塔が祀られています。
日蓮系の庚申塔は帝釈天王を主尊にしていましたね。増尾地区ではこれから廻る妙蓮寺が唯一の日蓮宗なので、その主導で祀られたのでしょう。ずっと子供の往き帰りの安全を見つめ続けてくれたのでしょう。
114-3妙蓮寺の吒枳尼天(だきにてん)
増尾駅入り口信号近くに、中山法華経寺の末寺である慶長山妙蓮寺があります。慶長七年(1602)創立といわれます。ガイドに角柱型鬼子母神供養塔があるとのことですが不明。
お寺に聞いてみましたが「よく聞かれるのですが分かりません」とのことでした。
荼吉尼天とも書かれます
 その代わりといっては何ですが、大木の下にある無縁墓地の一角に珍しい石仏が置かれていました。日輪月輪を頂き左右に瓔珞を記した吒枳尼天(だきにてん)石碑です。紀年不明ですが比較的新しく明治以降でしょうか?Wikipediaでお勉強しておきましょう。白狐に乗る天女姿で現されていますが初見ですね。インドのダキーニーがジャッカルに乗っているので、日本版は狐で代用し稲荷と習合していったとの解説に納得。只、下部の梵字三尊らしきものがよく分かりません。
このそばには懐かしい文化十二年(1815)馬頭観音が祀られていますが、頭に馬印をのせたこの素朴形が私は大好きですねえ。

114-4土農協先の土村役場道標
土農協前に2基の青面金剛塔があるとのガイド表示ですが、さっぱり見つかりません。代わりといっては何ですが、大きな道標が倒れているのを見つけました。
傍らに紀年不明の山神碑もひっそりとたたずんでいます。柏・名戸ヶ谷方面との表示あるところを見ると、かってはこの雑木林右道が旧道として交通の要衝だったようですが、東武野田線の踏切廃止で廃道化したように思えます。意外なところに立派な石造物が歴史を静かに語っていたようです。


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2011/03/31

103 北総石仏 我孫子の石仏 柴崎

JR天王台駅の北西に位置し上辺を水戸街道国道6号線に抑えられた地区が柴崎です。柴崎自治会館のあるところが柴崎神社です。
103-1柴崎神社
草創は不明ですが、境内から永仁六年(1298)銘の板碑断片が発見されていて、市内でも最古の年号板碑であるところから祭祀の旧さが偲ばれます。又、当社と隣接円福寺の両境内は戦国期の城郭跡といわれ、当社の裏手通りは空堀の名残をとどめていると史跡ガイドに載っています。

現社殿は昭和63年の新築で神明造りの本殿・相の間・拝殿が連なる立派なものです。切妻平入で妻に棟持柱・棟に千木・勝男木をおいた 豪華なのも特徴です。
鳥居の左側表通り沿いに2基の庚申塔です。

左が文化六年(1809)青面金剛文字塔で右が文政九年(1826)庚申です。は「チョウ・つか」で塚は俗字であると角川漢和中辞典に載っています。石段を上れば左に覆い屋があります。
享保四年(1719)の六臂合掌青面金剛像と不明石碑が祀られています。(我孫子の庚申塔所在地調べでは伝庚申塔の表記っです)
その外に1995年金久保から移設された正徳五年(1715)六臂髑髏持青面金剛塔も立っています。他にも安永八年(1779)・文久元年(1861)道祖神もおられます。手水舎の嘉永五年(1852)銘亀趺と向かい合って亀趺と言っていいのか石亀4匹も並んでいたりします。

境内には本殿左に八幡社が祀られ、その手前に元禄十六年(1703)水天宮石祠・八坂・香取社などが長屋形式で建っています。社殿右は覆い屋のついた三峰社です。境内を巡れば文久元年(1861)月讀尊碑・文政十一年(18289秋葉大神碑などが散在していて、石仏探索の楽しみ?も味わえます。色々な石碑もありますが、良く紹介されるのは黒髪碑です。11名の女性名と2名の願主で明治39年2月の建立です。
史跡ガイドの解説に「夫の武運長久を祈願し黒髪を手向けたものであろう」とかかれていますが、前年9月にはポーツマス条約で終戦を迎えているのでなにか合わない気がします。ガイドでは未亡人再婚不可能説論争に言及があるので、個人的解釈では鎮魂と未亡人の未婚決意を表したものと理解しておきましょう?憶測は広がりますがそっとしておきましょう。
103-2円福寺の帝釈天庚申塔
柴崎神社の隣が真言宗円福寺です。過去帳に元和二年(1616)の書入があるので江戸初期の草創と考えられるとか。
昭和62年に新築の本堂は宝形造向拝付で、境内左手には文久三年(1863)建立明治37年修理の切妻正面唐破風の大師堂と鯖大師堂・不動明王堂が建っています。石仏は不動明王堂の裏手に墓碑に交じって並んでいます。
写真後列の5基がお目当ての石仏となります。左から享保三年(1718)髑髏環持青面金剛塔、元禄十五年(1702)天蓋付十九夜如意輪観音塔、享保十四年(1729)百堂(念仏)塔、元禄六年(1693)十九夜如意輪観音塔、元禄八年(1695)庚申(帝釈天)塔となっています。
このうち珍しいのは帝釈天の文言「捧持帝釈天王・・」を彫り込んだ元禄八年庚申塔で、日蓮宗系庚申塔の分類にはいり我孫子では唯1基のみ。今、日蓮宗寺院は柴崎にはありません。
それと百堂(念仏)塔も特色ある石仏です。我孫子市史では百観音の巡拝塔として記載されていますが、別に百堂念仏という信仰形態から造立する百堂(念仏)塔があるのでそちらを採りたいですね。房総石造物文化財研究会刊行の続房総の石仏百選で、「百堂念仏は村人達が講を組み近隣のお堂百箇所を巡拝し自身の幸福と先祖の成仏を願って念仏を唱え歩いた修行・・三年間の・・達成のあとに百堂念仏塔を造立・・茨城埼玉千葉三県を中心に180余基・・江戸中期まで盛行した利根川水系独特の念仏塔である」と石田年子氏が解説されています。

103-3東源寺の石仏
円福寺北沿いの道を西に向かえば隣接するのが天文九年(1540)開基といわれる曹洞宗東源寺です。山門の参道突き当たりに、赤い涎掛けをした六地蔵が迎えてくれます。右折すると県指定天然記念物の榧(かや)の大木が眼に入ります。相馬霊場開設の光音禅師お手植ですから約230年もの歳月を経ています。
右が本堂で左が大師堂
 参道を進むと右手に現代の慈母観音銅像が迎えてくれます。その傍らに石仏が10基ばかり整列して祀られています。向かって右から寛文十年(1670)二臂如意輪観音十九夜塔、享保七年(1722)青面金剛塔、延宝二年(1674)青面金剛塔、享保十七年(1732)庚申供養塔、天保十三年(1842)文字庚申塔、文久四年(1864)普門品十万巻供養塔、明治24年法華経千部書写須弥壇埋納碑と続きます。気になるものを載せておきましょう。
寛文十年塔と旧く素朴、頭部刻字不明
延宝二年塔で六臂全て体外展開は初見
享保十七年塔・南無妙法蓮華経 庚申講供養
更に、奥に行くと三基の文字塔石仏が並んでいます。
右から元文三年(1738)二十三夜勢至観世音塔 、延享元年(1744)文字馬頭観世音塔、文化六年(1809)文字虚空蔵菩薩塔となっています。真中の文字馬頭塔は「右高之山道 左成田道」と道標も兼ねています。
参道左側にも新しそうな地蔵塔と宝暦十四年(1764)馬頭観音塔がおられます。本堂横から墓地に入りと歴代住職の墓域中に智拳印の金剛界大日如来塔が祀られています。
延宝五年(1677)創立「奉造立為百堂念仏供養大日如来像」塔ですね。先ほどの円福寺でも見ましたがこちらは堂々の百堂念仏塔です。
あと、文政六年(1823)白山妙理大薩埵(サッタ)という石仏もおられましたが、勢至像か聖観音像か不明ながら白山信仰のものがなぜここにあるのか不思議な感じでした。
103-4石尊宮
東源寺前を道成に北上し国道6号線水戸街道の高架をくぐる手前に石尊宮があります。
急な石段を上ったところが、小山の上の小さなお堂といった風情の石尊宮となります。石段の途中に天明二年(1782)不動明王が素朴な姿でおられました。
我孫子の石造物所在地リストでは「疣取り信仰」の注記ありました。昔は農村の生活に密着した石仏様だったようです。

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2010/07/09

81北総石仏 柏・旧沼南町の石仏(大井Ⅱ)

まず皆様にお知らせです。信人が所属している房総石造物文化財研究会がこのたび、創立30周年記念事業として「続 房総の石仏 百選」(たけしま書房刊¥2,000)を発行いたしました。今回は像容の分類でなく県下の代表的な信仰石仏を収載しています。会長はじめ諸先輩のご尽力の賜物ですが、石仏全般に関心のある方には石仏にまつわる信仰塔の分かりやすいガイドブックと思います。是非、座右の1冊にお備え頂きますようご案内申上げます。それでは沼南の最終回を軽く回ってしまいましょう。

81-1風早北部小学校の庚申塔
県道282号沿いにある小学校の西隅に体育館があります。その体育館の沿って庚申塔など10基が並んでいます。左から弘化三年(1846)文字庚申塔ですが台石の三猿が全て左を向いています。右は宝暦九年(1759)大青面金剛塔で二猿ですね。続いて天保五年(1830)猿田彦塔で日蓮宗系の庚申塔です。右の文政十三年(1830)山神塔は碑面が剥離しています。真中に唯一のショケラ持ち青面金剛像塔は宝暦十二年(1762)の造立ですが崩落して像が不明となっています。唐破風笠石の大きな石塔は延宝二年(1674)庚申諸願成就の文字塔です。右隣は正徳三年(1713)帝釈天守護所を刻んだ庚申塔で二鶏・三猿つきです。嘉永四年(1851)南無阿弥陀仏の名号塔は味もそっけもありません。右端2基は馬供養で明治6年武州上岡写しの馬頭観音と明治37年日露戦没軍馬記念碑が並んでいます。種類も多く一度に学べるので、小学生に江戸時代民俗信仰を解説できる格好の材料なんですが。解説板が欲しいところです。
弘化三年庚申塔
左向き三猿
宝暦九年大青面金剛塔
二猿は初見?
猿田彦・山神塔・崩落像塔
延宝二年庚申諸願塔
正徳三年帝釈天塔
嘉永四年名号塔
明治6年馬頭観音
明治37年日露戦没軍馬

81-2妙照寺の庚申塔
前回の福満寺の南西800mの位置に正応元年(1288)開創といわれる日蓮宗妙照寺があります。坂道の途中から山門に上る石段の両側に、日蓮宗系の庚申塔である帝釈天王を刻んだ髭題目塔など3基が立っています。石段左は現代版帝釈天塔です。石段写真手前のアジサイの花に隠れている寛政十一年(1799)帝釈天塔が胴から二つ折れの痛々しい状のため復刻したもののようです。

台石の三猿が今風に変化していますね。3基の真中は髭題目が書かれている寛政九年(1797)三界萬霊塔となっています。
石段を上がれば左にある大きな観音像にちょっと戸惑いますが、山門をくぐれば落ち着いた境内に納得です。手前の手水場に浄行菩薩像が祀られています。日蓮宗の四菩薩の一つですがWikipediaで確認しておきましょう。側にタワシが置かれていて直したいところをタワシで清めればご利益があるという、巣鴨刺抜き地蔵の日蓮宗バージョンでありました。珍らしいですね。このお寺は中山法華経寺から鬼子母神を請来し、鬼子母神堂に祀っています。鬼子母神は安産・子育てなど女人に信仰されました。本堂左手前に鬼子母神女人講42名で寄進した慶応元年(1865)手水鉢が置かれています。このお寺には他にも龍神堂なるものもあり結構遺造物を遺しています。日蓮宗寺では題目塔ばかりが多く石造文化財は不作の所が多いのですが、こちらは民意の動きに従っているのでしょうか。境内に八幡神社も勧請しなかなか賑やかです。東側墓地方向の坂道に寛政四年(1792)道祖神と安永八年(1779)十九夜念仏供養塔が並んでいます。ガイドブックには二十三夜塔3基と載っていますが、本堂境内では目にしませんでした??本堂裏で「○○家畜生の墓」という新しい塔婆を見つけたりして、結構面白い時を過ごせました。(本寺の由緒などは、HP 妙照寺に詳しい案内が載っています)
尚、妙照寺前の小さな池にも明和六年(1769)弁財天石祠が祀られています。

81-3浅間神社
妙照寺の西南西500mの国道16号沿いにグーグル地図上で浅間神社の表示を見出せます。こちらは前回の福満寺の境外地となっています。国道16号が出来たために参道を埋められたのでしょう。登拝手段は16号の歩道からの不便なアプローチしかありません。その石段参道も手摺を埋められた不思議なトマソン(無用の長物)となっています。石段を上れば転びのない神明系鹿嶋鳥居が立ち、その奥山上薄暗い木立の下に、雨除けを付けた明治12年木花開耶姫命の立派な角石柱が祀られています。右手にある慶応元年(1865)石尊大権現碑は大型の自然石形状のものです。左側に浅間社の小社と宝永三年(1706)不明石祠が置かれています。不明石祠の左側面に「奉造立庚申講諸願成就二世安楽所」と刻まれています。気になる所です。

81-4中ノ橋の架橋石碑
(1)国道16号線を大井の交差点で南下し県道282号を西進します。中ノ橋のバス停が右手に見えますが、奥まったところに像容の崩れた唐破風笠石の享保年間青面金剛塔が祀られています。バス待の人には気づかれていないでしょう。撮影したデータが見当たらないので、気になる方はGoogle Street Viewでご覧ください。それらしきものが映っているかもしれません。
(2)架橋石碑は大井交差点から約700m西進した㈱ヨシケイの建物がある三叉路手前の歩道に行儀よく並べられています。それこそGoogle ストリートビューで見ると電信柱の奥に如意輪観音像1基と5基の石碑が並んでいます。
「沼南地域の命綱とも言うべき苅込橋の架橋に関する石碑が・・・・いずれも沼南における交通史を知る上の資料として貴重な造立物」と「沼南町史」に書かれています。
5基の石碑の中央の石柱が天保十四年(1843)苅込橋施工塔です。施主大井村中と碑文中央に刻まれ左右側面に近隣の鷲谷・布瀬・手賀村などが寄進しています。左端の明治24年架橋塔には「天保十四年まで土橋で、安政六年(1859)第2回目の竪板橋を架橋、明治12年数百枚敷石したが明治23年利根川出水で氾濫したため苅込橋が破損、交通量も増えてきたので明治24年に全面的に横板橋に改築した」と刻まれています。洪水による橋の破損で付近の村々の交通に支障をきたした事情が縷々述べられています。この明治24年石碑は裏向きで据えてあります。正面の碑面が読めなかったのは逆光のせいばかりでなかったようです。残りの石碑は明治12年苅込堤板橋敷石造立寄進記・大正6年苅込橋架橋寄付連名・大正13年工事紀念碑となっています。
左端の如意輪観音像は年代・経緯とも不明で導師が福満寺住職・念仏同行五十余人造立であるようです。首は後補ですね。

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