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2009/07/07

41北総石仏 白井ⅩⅥ

旧白井本宿を北上し神々廻(ししば)地区へ向かいます。神々廻坂下のバス停を過ぎて坂道を登りきったあたり左手に潅木に埋まった石段があります。ところで、神々廻という地名は何に由来するのか「じつはよくわからない」と白井の文化遺産史2004に書かれています。不思議ですねえ。 41-1.神々廻庚申塚(ししばこうしんづか) 8基の庚申塔が居並ぶ神々廻庚申塚です。かすかな石段跡を見つけて雑木林に踏み込むとそこが庚申塚です。道路からは全く見えないので人目につかず保存状態は良好です。が、草木が生い茂り訪れる人が少ないことが果たして良いのかどうか考えが分かれるところでしょう。左奥から並べてみましょう宝永二年(1706)笠付文字庚申塔、延享三年(1746)六肘ショケラ持青面金剛塔です。次の写真は異体字で刻まれた嘉永三年(1850)文字庚申塔、明治十二年文字庚申塔、享和三年(1803)異体字の庚申塔です。次が昭和4年文字庚申塔、宝暦五年(1755)笠付六肘ショケラ持青面金剛塔、平成6年文字庚申塔となっています。いずれも白井地区特有の全面朱入庚申です。異体字も変化に富んで興味深いものです。お猿さんも嘉永三年塔台石は正面5猿+右側面3猿+左側面2猿=10猿が刻まれて珍しいものです。おまけのお猿さんも載せておきましょう。 41-2.神々廻・平塚口馬頭塚 神々廻庚申塚から約1km北上すると左の道路分岐にある鉄筋会社の立看板の手前に3基の馬頭観音塔が立っています。左から愛馬会の台石に昭和21年文字馬頭観世音塔、大正七年馬頭観世音塔、明治41年馬頭観世音塔は右うらべみち・左ひらつかみちと道標を兼ねています。いずれも線彫りや刻像の宝馬がついてます。元は塚をなしていたのでしょうが、近世・現代になっても木下街道沿いでは荷役・農耕馬への信仰が厚かった証と見えて興味深いものがあります。 41-3.神々廻神宮寺の犬供養 神々廻坂下のT字路信号を西進します。1kmほど進むと左手に天台宗神宮寺があります。山門を入ると正面に本堂とブロンズの聖観音が見えます。参道左手は3基の観音霊場巡拝塔が立っています。参道右手に下の写真のように石仏が散在しています。頭部欠落している石仏や傾いだ仏様を見ると気持ちが寂寞となるのは少し辛いですね。右手奥に見える3基の石仏を写真で見ると、明治13年子安塔、頭部欠落の文久二年(1862)子安塔、同じく文久二年十九夜如意輪観音塔となっています。同じく後列中央あたり十九夜塔が3基並んでいます。左から元禄十三年(1700)十九夜如意輪塔、同じく享保七年(1722)十九夜塔、頭部欠で年不明の如意輪塔です。又、手前にある宝暦十四年(1760)観音霊場百箇所巡拝塔はわかりやすいですね。左奥に千手千眼観世音菩薩・・陀羅尼十万巻真読行者と刻んだ法印塔(僧の位階を刻んだ石塔=供養碑)が立っています。僧侶の墓塔でしょうかね。本堂右方に子育て観音が立っていますがお地蔵さんがこれだけ並んでいると軍隊に見えてちょっと不気味です。 帰りがけに寺入口の生垣に真新しい犬塔婆が祀られていました。Y字の左右は「キャ カ ラ バ ア」の種子が書かれています。「是畜生発菩提心」「爰然子安祈福講中安穏」と読めました。利根川べりの子安講では、Y字型の柳や欅の表皮の一部を剥いでそこに梵字や経文を書いて村境や墓地庚申塚などに立てる習俗を有しています。(これを犬供養・犬(卒)塔婆といいます) 平成21年1月下旬の訪問でしたが、まさに現代にいきている民間信仰を目の当たりにして感動してしまいました。 41-4神々廻・薬師堂跡の花見地蔵 神宮寺から200mほど進むと左からのT字路に出会います。この角を左折して80mほど坂道の途中に薬師堂跡・墓地が左手に広がっています。墓地への入口に薬師堂があったようです。整備された区画の中に石仏が整然と並んでいます。その奥に大師堂が二つ並んでいます。写真は道路側を向いて石仏群を写したものです。石仏群は前列12基後列14基ほどですが、前列左端無縫塔をいれて10基ほどは墓碑となっています。残り16基ほどですが勉強がてら主なものを種類別に載せておきましょう。写真一番右・後列端の石仏は道路側を向いています。 これは「花見堂地蔵尊・元文二(1737)丁巳三月吉日同行四十五人」と記された宝珠持ち花見地蔵ですね。出ましたねえ。もう1体が前列左から3番目の前に傾いだ錫杖・宝珠持ちお地蔵さんです。「花見地蔵 子(供中)・文化九申三月吉日」となっています。花見地蔵のおさらいは、房総石造文化財研究会沖本会長の論文を参考にしてください。前列右端は嘉永四年(1851)二十三夜文字塔ですが普門品一万巻と付記されています。江戸も末期になると御利益を増すために有難いお経のデコレーションを好んだようです。同じ写真の後列左に宝暦四年(1754)「奉造立時念仏諸願成・・二月吉日同・・」と刻まれた石碑が見えます。時念仏=斎念仏講ですね。3月に載せた30白井Ⅵで29-3(追加)長楽寺の石仏群でも昭和55年斎講碑がありましたね。「トキに[斎]の字をあて仏教では食事のことを指すことから、仏前における共同飲食を伴った念仏講と解される」と日本石仏事典で述べてあります。次に前列2基目から手前の6基は享和三年(1803)六地蔵尊が並んでいます。 後列右端は先に述べた花見地蔵・左へ時念仏碑と続き、享保二年(1717)地蔵尊が並びます。その次が智拳印を結んだ明和二年(1765)金剛界大日如来像がかわいいですね。後は墓碑と宝暦九年(1759)・元文二年(1737)地蔵尊が混在します。そして後列左端が元禄五年(1692)十九夜念仏・如意輪観音像となっています。二つ並んだ大師堂の後ろも3基の石仏です。右端から明治27年普門品誦読塔、文久二年(1862)「西国坂東秩父百箇所神社仏閣」参拝塔、明和元年(1764)?碑=ちょっと判読しがたいですね。 白井町石造物調査報告第四巻の調査以降に墓地整備されたのでしょう、報告書に記載されていない石仏が続出ですね。 薬師堂跡の北隣が駒形神社です。 41-5神々廻・駒形神社の庚申塔 鬱蒼と茂った森の中に駒形神社があります。石段を上った奥に社殿が見えますが、左手の雑木の中に4基の庚申塔と1基の石祠があるのでそちらから見ていきましょう。まず左端に享保二十年(1736)六肘ショケラ持正面金剛塔があります。続いて文字庚申塔が3基、左から文政五年(1822)万延元年(1860)昭和5年(1930)が漠然と(言葉使いが変ですがそんな感じですね)立っているという表現が似合っていますね。恒例の変化猿として真ん中の庚申塔の三猿を載せておきましょう。 境内は参道左に昭和18年・昭和15年の出羽三山塔やぽつりぽつりと石祠が置かれています。年不明の淡島大明神石祠です。淡島願人という乞食坊主が広めた紀州海草郡加太村淡嶋神社の祭神を祀っています。婦人の下の病に霊験あらたかとか安産祈願や針供養と習合したようです。(日本石仏事典第二版)その隣は変形の大日如来石祠です。左側面は天文++一年(1552)勧請、弘化三年(1846)再建と刻んであります。一方右側面にも安永七年(1778)再建云々と彫られています。???ほかにも大正13年(1924)三峰神社石祠などがあります。今は寒村の神社イメージですが江戸後期以降ではどんな様子だったのでしょうか?案外、雑木林もまばらで神埼川沿いの耕地が見下ろせて見晴らしのよい高台だったかも知れませんね。

2009/04/18

33.北総石仏 白井Ⅸ

前回は小名内の稲荷神社まで来ました。今回は桜堤で有名な今井地区と名内地区集落を巡ります。今回もちょっと変わった石造物にお目にかかれます。
33-1.今井・稲荷神社の庚申塔
白井から白井工業団地へ向かう道路を白井市の外れまで進むと今井堤を横切ります。此処は春、2Kmに亘って淡い色の桜のトンネルが出現する名所です。今井堤に出る手前の道を右に入れば今井集落の稲荷神社の森が左手にあります。拝殿に通ずる小道に庚申塔など13基の石仏です。左から見ていきましょう。まず、昭和三年「御大典記念 庚申塔」、頭部に種子バク・釈迦如来像を戴く正徳二年(1712)六十六部廻國塔、明治39年文字庚申塔、文久二年(1737)六臂ショケラ持青面金剛となっています。像塔は写真を載せておきましょう。次は寛政七年(1795)青面金剛王、文化七年(1810)青面金剛尊、明和七年(1770)六臂合掌青面金剛塔、文政九年(1826)文字庚申塔となっています。明和七年青面金剛塔の頭部蛇とぐろ巻きははっきりと刻まれていました。恒例の文字塔・面白い三猿も載せておきます。左のお猿さんは後ろ向き・上向き「いわザル」でしょうか。中央はメス猿でしょう乳房があるように見えますが、これにお尻を向けているポーズも変ですねえ。 次は天明二年(1782)青面金剛王塔です。その隣から此写真となります。明治20年文字庚申塔、延宝八年(1680)六臂合掌青面金剛塔、宝永二年(1705)庚申三猿塔、平成2年庚申塔となります。上の写真の延宝八年は市内でも結構古いものです。次の三猿塔も良く見かけるようです。この先は稲荷神社に続きます。境内にぽつぽつと石造物があります。ここにも明和四年疱瘡紳石祠がありました。病気は庶民農民にとって本当に切実な問題だったのですねえ。榎本正三著「赤の民俗 利根川流域の疱瘡神」にも載っていますが、北総から利根川を越えた取手市には男女二紳刻像の特殊な疱瘡神塔が18基も遺存しています。参考に取手・青柳八幡神社の刻像疱瘡神二基を載せておきます。左が天保六年(1809)で男神が幣束を肩に担ぎ立ち姿、女神は長髪で皿椀物を持ち中央に三玉大明神と記されています。右は天保三年(1806)で上部に二神坐像を刻み牛蒡締め状の注連縄がはっきりと出ていて、下部には疱瘡神 東坪中と表示されています。利根川を越えただけでこれほど信仰モニュメントに違い出てくるとは、面白いし又不思議でもあります。
  33-2.今井の青年館の石仏
稲荷神社から500mほど東進するとバス停今井青年館があり、白井第3分団今井消防小屋の隣に青年館があります。入口左の大師堂の陰になって一見して石仏なぞ見えませんが、一歩中に入ると写真のように石仏アワアワ状態になります。7基の石塔5基の石祠等が一列にならんでいます。露天のために傷んでいるものが多いのですが、結構特色のあるものが多いんですね。では、左から寛政六年(1792)金剛界大日如来、3基続いて明和七年(1770)・享和二年(1717)・文久二年(1737)十九夜塔が並び石仏隆盛の幕開けを感じさせます。続いて天保十一年(1840)二十三夜文字塔が並び次に2基の元禄十三年(1697)・年不明十九夜塔が続きます。上の写真の子安観音石祠は女人講中十四人で造立されましたが刻像石祠は初見ですが珍しいものです。次から4基の石祠石塔が続きます。文政十二年(1829)・嘉永五年(1852)待道大権現石祠、不明石祠、文化十三年(1816)十九夜塔です。待道権現(まつどごんげん)石祠は白井ではここだけと思われます。待道権現信仰は利根川を挟んだ茨城南部・千葉県北部の地域的流行紳で、十七日を祀り日とする婦人達の子安講であると石造物調査書に載っています。我孫子地区の調査時に多出すると思います。他にも新しい六地蔵の陰に傷みの激しい享和二年(1802)一石二体六地藏があります。大師像も文政八年(1825)・安政九年(1859)の2体あり文政期のものは地区内古手です。当地区では印西大師(4月1日~9日)、柏大師(5月1日~5日)、白井大師(10月1・2日)の大師参りが行われていると調査書に載っていますが今はどうでしょうか?興味のあるところです。 今井青年館バス停で道路の向こう側に「今井の水塚」の説明板があります。ついでに読んでおきましょう。 
  33-3.名内・東光院の石仏群 
今井青年館をあとにして更に400mほど東進、右に戻るようにして集落への道路を右折して道なりに進めば右手に東光院があります。寺前に広場があって縁の沿ってお堂や石仏が点在しています。夕暮れ時でくすんだように見えた石仏石塔ですが、「恐るべし石仏パワー」というのは大袈裟ですが調べると特色のある石仏が沢山あります。丁度檀家の集まりがあったようで、お断りしてから拝見させていただきました。唯、惜しいことに風化が進んでいて読み取りが難しく石造物調査書に頼るしかなかったですね。 では、写真左端から明治13年子安観音が祀られているお堂です。新しいので穏やかな感じの石仏でした。隣とのお堂の間に年不明十九夜如意輪石仏がおられます。隣のお堂には宝暦十一年(1761)薬師如来石仏がおられます。北総では、なかなかお目にかかれない貴重な石仏です。お前立ちの石仏が続けて並んでいますが何れも墓標仏なので気をつけましょう。続いて隣のお堂には年不明不動明王と大師像が仲良く同居しています。そしてこのお堂と隣の六地蔵の間に文化十二年(1815)の一億供養塔と呼ばれる道標を兼ねた名号塔が立っています。この塔はNo.31-1で紹介した徳本塔を立てた一億講中(徳本上人の當地元信仰集団)の造立になるものです。「右 かたやま ぎょうとく みち 左 しろい いんざい みち」と刻まれ名内橋におかれたであろう道標でもあります。ならば、もっと目に付きやすい所に置かれたほうが引き立つのですが、惜しい。六地蔵は安永二年(1773)の造立です。写真で右端、六地蔵の陰になる位置に3基の石塔です。左から文久二年(1862)、天保二年(1831)の出羽三山塔です。もちろん江戸末期なので湯殿山主尊となっています。右端は宝暦十一年(1761)六十六部廻國塔であります。何れもお堂の後ろに追いやられているのはちょっと可哀想ですね。 本堂の左手に進むと縁沿いに寛延三年(1750)十九夜如意輪塔が置かれています。そしてその続きのように、角に沿って7基の石仏が並んでいます。左から宝暦七年(1757)地藏塔ですが大乗妙典六十六部日本廻国と刻まれた廻國塔ですね。隣が延命地藏経三千巻と記された宝暦四年(1754)地藏坐像となっています。延命地藏は錫杖持ち立像が定番ですが座った地藏が面白いですね。そして隣は寛文十三年(1673)阿弥陀如来像で右手施無畏印・左手与願印を結んでいます。この石仏に関しては、鈴木普二男著「野ざらし紀行 白井の文化遺産史」で「名内碑・松平住右衛門への謎」で考究されています。この石像の願主の一人・松平住右衛門は名内村の領主でしたが、寛文二年(1662)に知行替えになって何年もたってから願主に名を連ねたのは謎だとした趣旨の一文です。オマケに石造物調査報告の銘文が不正確と思われたのか詳しい銘文を掲げられています。興味ある方は一読されると良いでしょう。但し、その要旨に関心をもたれるかどうかは別ですが。 となりの地藏と聖観音は墓碑で割愛します。次の2体は貞享五年(1688)・寛文十一年(1671)如意輪観音塔ですが、古い時代によくある念仏衆による設立で貞享碑は念仏数萬遍・寛文碑は二萬遍の奉唱と刻まれています。寛文像は六手で彫りもよく「昔の仕事はこうでなくちゃ」と職人仕事の成果でしょうか。如意輪観音信仰も、女人信仰に移行する前の時代は念仏衆の形で信仰心の篤さをを律儀に碑面に表していたことがわかります。一通り境内を見終わりました。帰りに本堂前の立派な十三仏供養塔をチェックしておきましょう。人の死後はこの星道を歩んで天に上るとの解説も読んでおきましょう。 
33-4.名内の粟島神社の石祠
東光院前を右手方向へ南下し二又では左をとって進めば200mほどで粟嶋神社が右手にあります。石段を登った境内がこの写真のように現れます。さて写真左手に見えるちっちゃな石鳥居はなんでしょう?正解は、潜り抜け鳥居と名づけられ「病難苦難を潜り抜けて無病息災」ご利益ある鳥居だそうです。拝殿左の木の陰で見えませんが3基の石祠が並んでいます。左から寛政三年(1791)稲荷大明神です。次は明治28年八坂神社石祠、一番奥が慶応四年(1868)粟島大明神石祠となっています。この石祠正面は大己貴命・粟島大明神・少彦名大命の三神連記となっています。又、石造物調査書の弘化四年(1847)淡島神碑はお堂の中に鎮座されていました。うっすらと「淡嶋大明神、観世音普門品」と読めますね。 淡島(粟島)信仰に関しては榎本正三著「女人哀歓-利根川べりの女人信仰」に詳しく、最近では「房総の石仏18号」で石田年子氏論文「利根川中・下流の淡島信仰-野田市を中心として」に淡島願人の図や千葉県下47箇所の淡島塔関係碑が詳説されています。白井市ではこの2基と神々廻(ししば)駒形神社で報告する1基の計3基が載っています。淡島神社と淡島神についてはいつものようにリンクで確認しておいてください。 この粟島神社も昔は「あわしまさま(針供養)」として2月8日に裁縫生徒がお参りし、県下柏・市川・船橋・八千代・印旛一円から参詣客を集めたと言われています。往時の賑わいを取り戻すには潜り抜け鳥居ではちょっと無理、むしろ淡島信仰の解説を復活して参詣客に知ってもらうほうが為になると思いました。