2012/02/23

131 北総石仏 柏の石仏 大室Ⅰ

大室地区はほぼ菱形のような矩形で、上下に当たる西北・西南辺は利根川堤防・県道7号線で大まかに区切られます。西方はつくばエクスプレスが南北に走り、東方は前回見た花野井地区に当たります。いまだ農村の色濃く残っている村ですが、柏ビレッジの団地化が進行しておりのどかな雰囲気もいつまで保たれるやら気がかりなところです。
131-1 大室ふるさとセンター(旧大室青年館)の石仏
県道7号線田中小学校入口信号のひとつ先の信号から右に入ります。道なりに1.5kmほど進むと右に大室するさとセンターの敷地があります。訪問時は道路拡幅整備中で、畑中に殺風景な景色が広がっていました。生垣内に石仏が密集しています。六地蔵と十九夜如意輪観音塔が見れます。
右の生垣内に石仏が密集しています
手前の六地蔵とその一番奥の1基以外は墓碑(無縁仏)
一番奥の十九夜念仏塔・市史に無収載
残念ながら六地蔵は崩落が進んでいて、紀年不明です。市史には、享保十七年(1732)か?との注記があります。昔、阿弥陀堂があったところのようですが明るく開けていてとてもイメージが湧きません。ふるさとセンターから50m先を右折するとその角が吉祥院です。
131-2  吉祥院の石仏
正式には薬王山金剛密寺吉祥院という真言宗豊山派のお寺です。

道路沿いの駐車スペースに、庚申塔などの石仏17基が訪問を迎えてくれます。
前列に13基、後列に4基が並びます
右から順にリストアップしておきます。これだけでも圧巻ですね。
前列右から紀年銘種類備考
前1天明二年(1782)青面金剛文字塔台石1猿で三面に
前2宝暦五年(1755)庚申供養文字塔台石三猿で背中合わせ猿
前3宝永六年(1709)六臂合掌青面金剛塔三猿
前4明和四年(1767)六臂合掌青面金剛塔三猿
前5寛政元年(1789)六臂ショケラ持青面金剛塔三猿
前6寛政五年(1793)六臂合掌青面金剛塔台石1猿で三面に
前7寛政九年(1797)異体字青面金剛文字塔台石1猿で三面に
前8文化八年(1811)六臂ショケラ持青面金剛塔三猿,崩落
前9明和六年(1769)庚申文字塔三猿なし
前10延享元年(1744)六臂ショケラ持青面金剛塔三猿
前11天保十三年(1842)猿田彦尊文字塔三猿
前12明和六年(1769)六臂合掌青面金剛塔三猿なし・像容荒れ
前13文化十三年(1816)待道大権現石祠波屋根起破風
後1明治20年待道大権現供養塔角柱型
後2明和二年(1765)十九夜念仏供養塔種字サ碑面荒れ
後3紀年不明不明・・講中と読めますが
後4文政八年(1825)六十六部廻国塔大乗妙典・日本廻国塔とも
気になる石仏写真を下に載せておきます。
前列1番台石・正面見猿・右聞か猿です

前列2番台石の左右は背中を向けています

前列6番7番とも台石の猿は1猿毎に3面に刻まれています
 境内に入ってみます。石段を上がれば、右に3基の弘法大師遠忌供養塔が並びます。一千年・一千百年・一千百五拾年遠忌碑です。 遠忌(おんき)とは「・・宗祖または中興の祖などの遺徳をたたえる為、五十年忌以後、五十年ごとに行う年忌法会」と国語大辞典に載っています。1千百五拾年遠忌碑が昭和60年(1985)に建立されているので、一千年碑は1835年即ち天保六年になるのでしょうか?空海は承和二年(835)に入定しているので当たり!のようです。だんだんデカくなっているのが面白いですね。
先に進むと、昭和61年の水子地蔵と延命地蔵が祀られています。境内にある大きなカヤの保存樹の前に2基の石仏です。元禄九年(1696)阿弥陀如来と元禄五年(1692)如意輪観音十九夜塔ですが、いずれも彫りもしっかりと穏やかな仏様です。
道路に沿った際に5基の新しい石祠が並んでいます。お寺で石祠のほうがはばを利かせているは、やはり地域の特色でしょうか、点検を忘れてしまいました。その傍に4基の石仏が控えるように祀られています。
右から、明治五年妙見大菩薩、享保六年(1721)勢至菩薩二十三夜塔、文政十三年(1830)不動明王、昭和8年馬頭観音塔となっています。そういえばこちらのご本尊は不動明王さんですね。
そして、立派な5基の石祠壇の左となりは、17基ほどの馬頭観音の大集合となっています。
明和元年(1764)馬頭観音像塔・文化十二年(1815)と天保十五年(1844)は馬頭を頂いています。あとは文久三年(1863)から明治・昭和の文字馬頭観音塔です。昭和4年塔は頭部に「初花」と刻まれていますが、何でしょうね。
明和元年塔
ささやかな楽しみですが珍しいものを見つけました。境内の石灯篭の基礎・各格子に干支が刻まれています。

現代の石造物なので意匠は自由に出来るのでしょう。日光へ出かけた折にどこかでであった記憶があります。今まで沢山であったかも知れませんが今頃気づいたので報告しておきましょう。
131-3 仲坪公民館の石仏
最初の大室ふるさとセンターへ戻り、センターを200m程過ぎた三叉路を左折します。200m程進めば左が仲坪公民館です。訪問時は敷地内の整備中だったのでしょうか、入口通路左に石仏・墓碑が無造作に片付けられていました。(東日本大震災以前の訪問)
右手前が明和五年(1786)六地蔵
 右手前に明和五年六地蔵が寄りかかるように集められています。奥にもたれかかる様に見えるのは、天保四年(1833)の十九夜如意輪塔です。
石仏手前は灯篭の台石や蓮座が積まれています
 もたれかかられながら石仏が一列に並んでいます。如意輪塔にもたれかかられるように見えるのは享保九年(1724)と読める供養塔のようです。頭部に浮き彫りは蓮持ちの地蔵のようですがはっきりしません。(北総でよく見かけた記憶はあるのですが)
その左は天保十五年(1844)如意輪観音十九夜供養塔です。左端も六地蔵の片割れに見えますが、碑面が荒れていてよく分かりません。
右が日本廻国塔です

続いて2基の石仏は、紀年不明の大乗妙典日本廻国塔と頭部に石仏(大師?)を浮き彫りにした「供養塔」となっています。石仏の集まりを見ると小さな村の庵があったのでしょうか、今は空も開けていますが江戸期はもっとずっと寂しい所だったかもしれません。
今回はこれまでとしましょう。
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2012/02/04

130 北総石仏 柏の石仏 花野井

柏市の北部利根川沿いに、県道7号線我孫子関宿線が走っています。前回の宿連寺地区から北に続くのが花野井地区です。寛保元年(1741)「郷差出帳」には家数133軒人数633人、内寺2軒(堂)寮4軒で出家(僧)3人道心(墓守等)6人と記されていると「柏市史近世編」に載っています。寺は以下に廻る真言宗長泉寺と曹洞宗大東(洞)院が記されています。比較的大きな村だったようです。
130-1 大日庵の石仏
県道7号線の柏市立病院交差点から北西へ500mで、県道に北面した大日庵があります。私は余所者で無知だったですが、北総では○○庵と称して実際は墓地「≒墓地中の粗末な小屋など」を指している事が多いようです。

県道に面した入口。右手門柱の裏に石仏が並びます
  門柱の裏にまわると県道沿いに、石仏が整列して祀られています。県道の交通量?で痛みが進んでいるようです。状態はよくないので写真の見栄えはしませんが。

左から寛政六年(1794)文字青面金剛塔・正徳五年(1715)ショケラ持青面金剛塔・大正10年・8年・13年・天保十一年(1840)各文字馬頭観世音塔・延享三年(1746)宝馬を頂いた馬頭観世音像塔が並んでいます。あっけらかんとした印象の所で、並んだ石仏達も周囲の変わり様に驚いているようです。
延享三年馬頭観世音塔
 130-2 TUTAYA北柏店(花野井1019-1)近くの三十番神
ガイドブック(柏市史)に記載がない石仏です。このあたりでは余り見かけませんが、日蓮宗のお寺では番神堂なるお堂によく祀られる石仏です。県道7号線沿いのTUTAYA北柏店の斜め向かいの駐車場の隅で見つけました。お堂の中に大正五年の三十番神、後方のブロック壇に昭和の水神宮など石祠が4基祀られています。
個人所有の駐車場敷地隅にあります。お断りして御参りするのがベターでしょう。
長崎県島原市護国寺の三十番神本社へ参拝記念と記されています

日本の神様読み解き事典(柏書房)に「1ヶ月30日の間、毎日番がわりに国家人民などを守護すると信じられる三十柱の善神・・、種類は多く天地擁護の三十番神から如法経守護の三十番神まで10種類の三十番神があって・・・」と載っています。Wikipediaでも三十番神を見ておきましょう。
後方の石祠は 昭和9年最上稲荷・昭和32年文字馬頭観音・昭和32年水神宮・土公?神となっています。
130-3 長泉寺の石仏
先ほどのTUTAYAから100mほど西進すると、広く長い参道と駐車場のある長泉寺です。入口の大きな表示(真言宗長泉寺ぼけ封じ)が目印です。
両側の門柱の続いて、庚申塔などの石仏が並んでいます
門前の石仏から見ていきましょう。大きな立看板の後ろに3基の石造物が並んでいます。右から文化七年(1810)光明真言供養塔、文化三年(1806)坂東西国秩父百番観音塔、宝永七年(1710)六臂合掌青面金剛塔の大物揃いです。
左:青面金剛塔、中:百観音巡拝塔、右:光明真言塔
光明真言塔は、真言密教の呪文で大日如来の真言=光明真言を読誦し百万遍など目標達成の記念に建立されます。上に載った丸い石に下から右回りで23字の光明真言梵字を刻み、円内に「アビラウーンケン」の胎蔵界大日を種子で刻んでいます。光明真言を唱えることで一切の罪業が消滅するといわれ真言講で盛行されたようです。柏市史に市内19基存在し、元文四年(1739)が初出と記載があります。面白みのない塔ですが、真言宗壇徒には日常のお勤めに出てくるポピュラーな真言に由来する塔なので往時の村人の信仰心の厚さが偲ばれます。左側門柱並びにも3基の石仏が並んでいます。
左:梵字庚申塔、中:出羽三山供養塔、右:ショケラ持青面金剛塔
左から文化三年(1806)ウーン種子庚申塔・文化十一年(1814)湯殿山主尊三山供養塔・宝永五年(1708)ショケラ持二邪鬼青面金剛塔となっています。
ショケラと二邪鬼が可愛いですね
山門をくぐれば立派な本堂が正面に見えます。
右に見えるぼけ封じの赤い幟の傍にブロンズの観音像が立っています。よく見ると、観音の足許にすがりつくのはジジ・ババではあーりませんか?
観音様に縋りつく爺・婆は可愛い?
山門を入った左手にも屋根付きで、宝暦十三年六地蔵・寛保三年(1743)延命地蔵・昭和22年馬頭観音塔が祀られています。延命地蔵には「光明真言百万遍結衆」の文字も読み取れます。
中央が寛保三年延命地蔵
130-4 香取神社の石仏ワールド
長泉寺から30m西進すると香取神社です。県道入口から100mも続く長い参道を進めば、木製の両部鳥居があって、その先に緑色の屋根がある拝殿が建っています。
長い石敷きの参道です
神社内は合祀された神々であふれています。拝殿右奥には大正14年鹿嶋大神宮碑を祀り、参道左に文政十一年(1828)鹿嶋大神宮奉納灯篭、右に宝暦八年(1758)香取大神宮奉納灯篭が置かれています。
低照度の為、被写体を調整していますが合成写真ではありません
拝殿左には、こじんまりした妙見神社もありますが居候の態ですね。
石仏群は参道途中の左にある寛政六年(1794)石鳥居に続く参道奥に広がっています。下の写真では、石鳥居の脇に宝暦八年(1758)香取大神宮奉納常夜灯と力石が置かれています。力石は「花四十五メ」と刻まれていて、本当に重そうです。
鳥居を進んだ右に三峰神社などお堂が並んでいます

石祠は三峰神社・浅間大神・天保五年愛宕大明神・天満宮・秋葉神社・文化十三年妙見菩薩・天明六年(再建?)待堂大権現・天明八年疱瘡守護・明治21年山神宮・宝暦五年大六天・明治27年二十三夜塔・明治28年成田山石祠などが祀られています
お堂に続く石祠群
上の写真、右端は亀趺に乗った文化十三年「南無妙見大菩薩」碑です。写真右手で先程の鳥居正面に5基の庚申塔・地蔵と脇に文化十三年文字馬頭観音が祀られています。
逆光強く正面からは撮影出来ず、やむなく右前方からの撮影です
 写真右から正徳四年(1714)延命地蔵・正徳四年六臂剣人型青面金剛塔・文政?種字ウーン青面金剛塔・正徳五年六臂ショケラ持青面金剛2基となっています。正徳四年の青面金剛は、右手剣で左手は髑髏羂索を下げているタイプです。北総では圧倒的にショケラ持が多い中ではちょっと珍しいタイプです。
香取神社には奉納された算額(未見)があって貴重な絵馬との表示がありました。
130-5 大洞院
柏市立花野井小学校の南に位置します。市史によれば、江戸時代は既出の我孫子市都部(いちぶ)正泉寺の末寺であったとか。お寺HPでは室町後期の開山で花野井木戸から宝暦元年にこの地に移転したと記載されています。大洞院の大銀杏は樹齢450年と古く、市教委の表示やネットブログの書き込みが目に付きます。
左が樹齢450年の大銀杏です
 曹洞宗であるところから、参道入口には結界石「不許葷酒入山門」「南無地蔵菩薩願主大菩薩」が建っています。

その脇に頭部に如意輪観音を浮き彫りにした、文政二年(1819)十九夜塔が立っています。写真左に見えるのは明和五年(1768)六地蔵です。境内の石仏(墓碑を除く)は特記なしですね。
只、壁画が明るく描かれていてこういうお寺もアリだなあと思いました。
地獄か極楽か、楽しそうです
 130-6 旧吉田家住宅歴史公園
花野井の石仏は以上ですが、こちらに足を伸ばされるならこの歴史公園をお勧めします。広々した芝生の広がる先に黒塗りの旧吉田家住宅が見えます。茅葺の本宅は昔の大庄屋みたいです。
左の入口が通常の土間へ続き、右の玄関はオフィシャル専用
 明治27年頃「下総国東葛飾郡田中村花野井醤油醸造吉田甚左衛門邸宅」と表示のある銅版画で往時の賑わいが分かります。
石仏らしきものは駐車場南西隅に安政五年(1858)石函宮石祠があります。「(吉田家敷地で)古墳らしきものを整地中に石棺が出てきたのでこれを祀ったものと伝えられているようだ」と市史に記述があります。
以前は小堂に祀られていたようです
以上で花野井を終わることにしましょう。

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