2012/12/20

148 房総の石仏二百選 野田の石仏

今回の神明神社には2体の石仏(石神)が祀られています。富士山信仰の祭神である木花咲耶媛命と、富士講の開祖とされる長谷川角行の像塔です。いずれの石仏も房総では珍しい石仏です。
148-1 神明神社の木花咲耶媛命(房総の石仏NO.78)
Wikipediaでは「コノハナノサクヤビメ」と表記しています。テキストには剥き出しで元浅間社跡に祀られていて心配との記載ですが、いまでは地元民の尽力で立派な神明神社が建立され角行像と共に遷座されています。
平成13年新築。御伊勢様仙元様として信仰されていたとの銘記があります。
 木花咲耶媛命は、天孫降臨のニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母なのだそうです。その絶世の美女だったそうですが、その美貌は石像からうかがえるでしょうか?
宝永三年(1706)の石祠に入っており、背銘に明治31年の記載
富士山信仰は本宮浅間大社を本山に、全国配下1300社で信仰されているそうですが、詳しくはリンクしてあるWikipediaでご覧ください。
なお、木花咲耶媛命の石仏は千葉県にはあと1体しかありません。白井市木の鷲神社にありますが、筆者はこちらのほうが 好みです。如何?
頭上に富士山と日輪月輪、紀年不明
148-2 神明神社の角行像(房総の石仏No.94)
木花咲耶媛命と共に堂内に祀られていますが、写真のように上辺の欠けた小さな像塔で一見したところではどんな行者か分かりません。ガイドブックに房総石造文化財研究会のO会長が、詳しく説明をされています。富士信仰の元祖・長谷川角行東覚の県下唯一の像塔だそうです。貴重。
文政二年(1819)の背銘
角行に関する説明はWikipediaをご覧ください。
役行者のお告げで富士山麓の人穴に至り、四寸五分(15cm)角の角材の上で千日修行し角行の行名を与えられたとか、本当!!
富士講の後の後継者が、「大名清光」と呼ばれた村上清光と「貧乏身禄」と呼ばれた食行身禄につながるとの話は江戸の富士講碑を訪ねるときに大変参考になります。富士講もWikipediaでみておきましょう。
地理的に飛びますが、次に富士講角行記念碑を載せておきましょう。
148-3 稲毛浅間神社の角行記念碑(続房総の石仏No.50)
角行二百回忌の記念碑が千葉市稲毛の浅間神社の境内にひっそりと建てられています。 この浅間神社は、大同三年(808)富士山本宮浅間大社の御分霊(木花咲耶媛命)を奉斎して造営されたと伝える由緒ある神社です。
コンクリート造の本殿、石段の右手前に下へ降りる通路がある(食行身禄像へ)
HPによると江戸期には22,500坪あったとか、現在でも6,400坪の境内は充分広く、境内には八坂神社・大宮神社・稲荷神社・小御嶽神社・厳島神社などが並んでいます。下に境内見取り図を載せておきます。
中央部庚申碑の左斜上の●(4)が角行記念碑です
角行記念碑は木製の鳥居で祀られた庚申塔のお堂の北側に立っています。
元文三年(1738)?合掌青面金剛と延宝?文字庚申塔

上の写真では右奥の木陰になったところに角行二百回忌碑が背を向けたように建てられています。
書行藤佛(人+狗=クウ、行者尊称)と食行身禄(クウ)
ガイドによると弘化三年(1846)角行二百回忌を120にも上る講社で祀った記念碑となっています。
148-4 浅間神社の食行身禄像(房総の石仏No.95)
上に載せた社殿の写真説明で、手前から下に向かう通路があります。その途中に 香取神社・若宮社・小室神社がありその並び奥にこの像が祀られています。
写真左に注連縄の張られた雨除けが見えます
 連棟式の囲いのなかに、合掌坐像として食行身禄像が祀られています。表示がないので、普通の人では分からないでしょう。結構、貴重な像塔です。
左は弘化四年記銘の山包正講石塔、中央が食行身禄像、右は3体の地蔵?
合掌の食行身禄像
 食行身禄は富士山8合目烏帽子岩で断食入定した富士講の指導者です。詳しくはWikipediaをお読みください。
この流れが、鳩ヶ谷の小谷三志の不二道孝心講に至るようですがこの石仏は又今度にいたしましょう。



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2012/11/28

147 房総の石仏二百選 野田の石仏

浦和の石仏遠足を終わり、「房総の石仏」に戻ります。野田市は舟運の要衝であったこともあって近世は早くから開け、人口集積もすすみ石仏文化(勝手に名づけました)が豊かに残っているところです。ガイドブックの「房総の石仏百選」(正・続の2冊)にも種々の石仏がリストアップされています。
147-1 羽黒神社の摩担利神塔
野田市中里の羽黒神社に、赤痢の疫病封じを祈願したこの摩担利神塔が祀られています。農地の縁にある石鳥居の階段を上り、赤い木鳥居をくぐれば神社左に石塔石仏が点在しています。
石鳥居右にも庚申塔などが並んでいます

聞きなれない神名ですが、ガイドブックによると「孔雀経の女夜叉で行疫神」と解説があります。明治30年この地を襲った疫痢大流行の際に、周辺で14基ほど勧請されたと記載されています。
明治30年摩担利神塔・赤痢流行の八月建立です
  孔雀経は毒蛇を食す孔雀を神格化した孔雀明王を本尊として修する秘法で、諸病・三毒(貪瞋癡)消除・息災延命・請雨止雨などに祈祷されました。同曼荼羅 に二十四薬叉(やくしゃ)が描かれているそうなのでその一種かと推察しますが不明です。日本石仏事典第二版に摩担羅神(またら)の索引はありますが、記述 が見当たらずでまさに「複雑怪奇で迷路に入り込む」ようです。
境内には他に、文久二年(1862)百観音巡拝塔・天明二年(1782)大杉明神塔や重量刻印のついた力石などが置かれています。
上の写真石鳥居右に並ぶ庚申塔など8基の石仏を載せておきます。
右から明治17年馬頭観音/天保三年・十一年・嘉永四年・万延元年・文政八年庚申塔
ここの記述は漢字が多くて我ながら読みにくいですね、はんせい!!
147-2 舟形・香取神社の石見守(いわみのかみ)感恩塔
野田市のガイドブック野田紀行にものっている有名な石塔です。参道の石鳥居右手前に石祠が角柱台座にのってたっています。
鳥居右手前が石見守感恩塔です

寛政四年(1792)から房総三牧の野馬奉行として村民から善政を慕われてこの塔が建てられました。
正面には岩本仰喜殿と記されています
 岩本石見守正倫という名前ですが、どうやらその善政に感謝し信仰を怠らないように「仰喜」を神の名前として標したようなのです。(私見ですが)
裏面には造立理由が225文字で記されています
裏面は「 右仰喜殿之謂傳・・・・御慈悲双百姓相助難有仕合則来世為冥加乍恐百姓共拝禮・・・末葉至迄謹信仰不可怠・・・」と記されています。

 我が房総石造文化財研究会の機関紙第22号に、石田副会長が「生祠・石見塔と小金牧周辺の山神塔」を発表されています。それによると石見塔は柏・流山・野田で計4基が確認されていますが、単なる報恩感謝でなくて生き神様を祀る生祠であることを証明されています。
①柏市大青田円福寺・岩見大権現②野田市中里愛宕社・石見守③当社④流山市長崎天形星神社・岩本大明神 がその4基です。
①岩見大権現と記され、脇に和歌がしるされています。(No.139-2柏市円福寺 既出)
2010年10月に柏・円福寺で見たときは「岩見大権現」とは変わった石祠?と思いましたが、2年後にやっと氷解してやっぱり石仏は楽しいなと実感ですね。
当社には他に 庚申塔が石見塔の前のほうに3基並んでいます。
右手前から文化十二年庚申供養塔・寛政八年青面金剛・文政七年庚申塔
いずれもお猿さんが可愛いいですが、左の文政七年塔を載せておきます。
中央は異体字庚申塔で右は剥離されています
とりあえずここまでとしましょう。
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2012/11/15

146E 浦和の石仏Ⅲ

浦和も最終回です。備忘録のつもりがなかなか終わりに出来ず「怠慢」を反省反省。
146E-1 三室の庚申塔
川口市赤山の関東郡代伊奈氏陣屋敷からそれぞれの支配事業地まで延びていた道を赤山街道というそうですが、その赤山街道沿いの三室にある庚申塔です。住宅地の三室高砂自治会の表示の傍に整備されて立っています。
この塚は「さるまん塚」と呼ばれています
塔の高さ2.2mと市内最大級、ショケラ持・二童子・四夜叉・二鶏・三猿がついた豪華な青面金剛塔です。
寛保二年(1742)造立
 側面に「東ハ赤山道」「西ハ大宮道」と刻み道標を兼ねています。傍にある解説板では「東八赤山道」との表記ですが、書き手が間違ったのか原稿にそう載っていたのか気になるところです。
146E-2 清泰寺の三百五十庚申塔
清泰寺は旧赤山街道沿いにある天台宗の古刹です。見性院(武田信玄の娘で信州高遠城主保科正之の養母)のお墓で有名です。
平安初期の慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)の開創とされる清泰寺
こちらは天明三年(1783)庚申五拾ケ度供養塔と万延元年(1860)三百庚申塔のあわせて三百五拾庚申塔が祀られています。唯、並んでいるのは敷地際の境界線に沿っていて、ちと分かりにくいところです。三百四十九基の文字庚申塔と一基の青面金剛塔から成っています。
左は元治元年(1864)甲子塔、右が三百庚申自然石塔(万延元年)

唯一の青面金剛塔が剪定植え込みの陰に隠れています
駐車場際の庚申塔は唯のブロック柵のように見えてしまいます
境内には他にも嘉永五年(1852)萬霊供養塔や安永六年(1777)日本廻国塔などが風情無く並んでいます。名刹であるのですが、環境が変わってしまいちょっと残念ですね。詳しい見所などは下の解説板を拡大してご覧ください。
 146E-3  中野田・重殿社そばの庚申塔
東北自動車道浦和料金所の傍に、曹洞宗明照寺と重殿社(じゅうどのしゃ)が隣り合っています。「隣の明照寺は観応三年の文書が残るがそれより古い」神社のようとネット記事に載っています。本殿と中西流算額が市指定文化財に登録されています。
扁額裏面に享保十一年(1726)銘あり築年代推定と解説板の表示
 重殿とは珍しい名前ですが、埼玉県全域で「殿」がつく蔵殿・通殿・頭殿・十殿などたくさんの地名が残っているようです。(参考資料:HP気まぐれ旅写真館・関東地方の川)
神社入り口に 4基の庚申塔が祀られています。
左右の文字庚申塔は弘化三年、青面金剛塔は□永三年?、左端は不明
変哲も無い庚申塔ですが、左右の文字塔の変わり猿が楽しそうです。

146E-4 明照寺の石仏
こちらには、貞和三年(1347)地蔵種子板石塔婆と康暦三年(1381)釈迦種子板石塔婆があるはずです。博物館資料に記載があるものの境内では見当たりません。人気も無くあきらめて退散です。
仁王門はありませんが露座でのお勤めです

ピカチュウやゴエモンも
東北自動車道の敷地買収補償の影響でしょうか、板碑の代わりに現代の石仏が所狭しと並んでいます。写真に載せませんが、大きな七福神の石仏までそろっています。石造物を並べるだけでは人の心は癒せませんが、さりとて無ければ無いでさびしいものです。以上、遠足終わり。


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2012/10/31

145E 浦和の石仏Ⅱ

20年前の日本石仏手帖埼玉編に載っている「浦和の石仏」を巡ります。北総と違って埼玉は板碑の文化圏です。前回は、浦和博物館で板碑を見学してからの出発でした。
145E-1 眞福寺の阿弥陀三尊板碑
国道17号沿いに浦和別所小学校があります。南接して、「船をつなぐ為に逆さに打ち込んだイチョウの杭が根付いた」といわれて有名な逆さイチョウの眞福寺があります。本堂と道を挟んだ墓地内に市指定文化財の正和三年(1314)板碑があります。今は六地蔵と同じ覆い屋に収蔵されて大切に保存されています。
格子に阻まれて168cmの全貌を捉えきれず、下の3分割写真になりました。
中央・阿弥陀キリークに、観音サ、勢至サク
中央部に光明真言
右下に「諸悪莫作 諸善奉行・・」と七仏通戒偈が読めます
解説板に鎌倉後期の典型的な板石塔婆と記載されています
 逆さイチョウの傍にも享保十二年宝篋印塔・天保五年出羽三山百観音
塔・寛延二年善光寺四十八番 ?供養塔などが並んでいました。
後ろの大木が逆さイチョウです
145E-2 大谷場庚申塔
浦和競馬場の南に大谷場小学校があります。敷地の北西角に寛文八年(1668)大谷場村講中の三猿庚申塔が祀られています。
中央部に三猿で板碑型、早い時期の庚申塔です
145E-3 二十三夜
県道34号産業道路に二十三夜交差点があります。交差点の北100mに歩道橋があってその東側に天保三年二十三夜塔が立っています。この地は祈念堂があって月待信仰が盛んでした。「天保三年(1832)廃堂にあたりこの石塔を建立したと伝えられています」との解説板が傍にあります。
145E-4 行弘寺の百不動尊供養塔
二十三夜塔から300m北進したセブンイレブンの西方斜め向かいに行弘寺があります。道路沿いながら一段低い境内で見過ごしてしまいそうです。日陰のがけ下に、幕末期安政六年(1859)再興の足立百不動尊供養塔が祀られています。壱番中尾の玉林院から百番行弘寺まで浦和48寺を最多に、川口・鳩ヶ谷・戸田・大宮・与野・蕨に及んで信仰巡礼されていたようです。
( 浦和市教育委員会解説板)

右上に壱番玉林院から左に続きます
傍に「高欄供養」の石塔がありました。
委細不明ですが、橋供養の類でしょうか?
145E-5 中華食堂日高屋駐車場の猿田彦?
県道35号線産業道路沿いでガイドには長崎ちゃんぽんの表記ですが、確かに当時は「リンガーハット」の特徴あるとんがり屋根の塔がついた建物が今は日高屋に変わっています。駐車場三角形の頂部にお堂のような覆い屋があります。
元禄十三年「奉侍庚申供養塔」の台石ですが、石仏は別石?
石仏は欠損した六肘で印相は不明です。ガイドブックは猿田彦の表記ですが、時期的にも様相からも違和感がありますね。憤怒相から類推すれば青面金剛と思われますが、地域では猿田彦と呼んで知るかも知れません。
隣にも覆い屋があって、崩れた馬頭観音と庚申供養石灯篭が祀られていました。
145E-6 セブンイレブン駐車場の青面金剛塔
約800m北上すると大田窪北の交差点にセブンイレブンがあります。敷地北の耳鼻科との境壁際に、青面金剛塔が自転車に囲まれて立っています。
元文二年(1737)六肱合掌青面金剛
台石の三猿はちょこんと座った形で可愛い姿です。
145E-7 玉蔵院墓地の六地蔵石幢
大田窪北の交差点を北西上して200mで田口石材店です。この角を北上すると左が市営墓地でその北に玉蔵院墓地です。玉蔵院は前回144E-5で「守護侍の杭」を見学したお寺です。墓地の西隅に無縫塔などがある歴代住職の墓所があります。その入り口に2基の六地蔵石幢が建っています。
左が寛永十五年(1636)で右が元禄三年(1690)
 しかし、ガイドブックには位置表示が無いので墓地内を歩き回り本当に疲れました。本稿のグーグルマップのポイントは正確ですから大丈夫。
145E-8  大谷口火の見下の庚申塔
県道1号線はバイパスになって広い道路に整備されました。いまやガイドブックに表示された火の見の痕跡はありません。庚申塔は別の場所に移設されていました。
明和七年(1770)の立派な青面金剛塔
旧県道1号線の国際興業浦和行バス停の向かい角に、単独でぽつねんと立っています。バイパスの立派さに比べ、石仏への処遇の対比に絶句してしまいました。
145E-9 広ケ谷戸の庚申塔
400m北上したセブンイレブン向かいにこの庚申塔があります。生垣に隠された覆い屋に鎮座しています。市内最古(ガイドブック表記)の寛文四年(1664)のショケラ持六肱青面金剛塔です。
頭部顔面の劣化で容貌が不明が惜しい

二童子と御幣(鈴?)持ち二猿、四夜叉、二鶏と豪華な庚申塔です
 とりあえず、これまでとしましょう。


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