2010/03/19

69北総 柏・旧沼南町の石仏ⅩⅢ(箕輪)

岩井地区の西隣が箕輪地区です。岩井から箕輪への境界地区は一大団地に造成され凄まじい変貌を遂げたようです。
今後の予定もあるので沼南地区の索引代わりに地区名と掲載済回号を載せておきます。

69-1如意寺の石仏

前回の68-4旧道角の石仏からバス道路に出て西へ500m進むと真言宗豊山派東福山如意寺があります。広々した本堂前ですが、右手墓地内に十九夜塔がまとめて祀られていたりあちこちに石造物があって案外楽しく時を過ごせます。石の山門を入ると左手に文化五年(1808)新四国八十一番石塔がぽつんと佇んでいます。右手は大正11年(1922)の光明真言塔です。参道右に59番・81番大師堂があります。昭和29年大師塔の傍に享保二十年(1735)建立、寛政十年(1798)修復の大きな寶篋印塔があります。笠に種子キリークを貼り付けた面は西面でしょうか。キリークは阿弥陀如来の種子ですね。種子タラーク(主尊宝生如来)を刻んだのは南面という事になるのでしょうか。その南面に寶篋印陀羅尼経(不空訳)の散文が刻まれています。勉強のため石仏偈頌辞典199頁から読み下し分を引用しておきましょう。「若し有情ありて、よく此の塔に(於て)、一香一華をもって礼拝供養すれば、八十億劫生死の重罪は一時に消滅す。生まれては災いを免れ、死しては仏家に生ず。」
近くに小ぶりの文政十三年(1830)五輪塔もあります。空・風輪は後補ですが円形の水輪に、坂東25番札所筑波大御堂から勧請した「大慈大悲観世音菩薩」を刻字しています。墓地の入り口には宝暦三年(1753)の童顔六地蔵がおそろいです。さらに墓地を進んでいくと、墓所の間に十九夜塔がまとまって祀られています。荒れていて刻字がなかなか読めませんが、テキストを参考にしながらみてみましょう。写真からみて右手前に延宝六年(1678)十九宿念仏供養と刻まれた如意輪観音像があります。種子サをいただき線香台が置かれている立派な石仏です。左側面には手前から延享三年(1746)拾九夜講の如意輪像、元禄三年(1690)十九夜所願成就の聖観音像、正徳二年(1712)十九夜如意輪観音塔などが墓碑に交じってならんでいます。十九夜の聖観音塔はちょっと珍しいですね。さらに墓地奥に進むとH家の墓所の入り口に丁寧に彫り込んだ六地蔵六面石幢が建っています。天保十年(1839)流山石工茂八の作だそうです。年代の古い石仏墓碑も多く古くから拓けた地区であることが分かります。

69-2香取神社の庚申塔
如意寺からさらに西に向かいます。およそ200mでバス停のある箕輪区民館にでます。区民館のある場所が箕輪の香取神社です。広くない境内に石造物が固まって置かれています。特に庚申塔は9基が整列していますが、村境でもないので多分こちらにまとめられているのでしょうか。正面からの写真ですが此の写真の右隣が箕輪区民会館となっています。立派な石鳥居は大正5年建立です。ひなびた常夜灯は寛政十年(1798)製です。右端(半分しか写っていませんが)に見える自然石型石碑は天保三年(1832)富士浅間宮碑で、左のお堂には天保十年(1839)待道大権現石祠が祀られています。利根川を挟む地区になると待道大権現石祠が着実に増えてくるので過去の研究・論考が実感として味わえますね。
参道に入ってすぐ左手に下の写真のように石塔石祠が勢ぞろいです。あたかも正面明治29年稲荷石祠の参道となっているかのようです。庚申塔は此の列に交じって並んでいます。青面金剛造塔2基・文字青面金剛尊塔3基・文字庚申塔3基・猿田彦神塔1基となっています。気になる石塔を下に載せておきます。
延享四年(1747)
天保十一年(1840)
享保元年塔庚申幸神
天保三年塔種子ウン
嘉永七年塔の三猿しぐさ
正面が稲荷塔です
他にも享和四年二十三夜塔や山神塔などがありますが、社殿のお参りしておいて先をいそぎましょう。小ぶりの社殿ですが傍にまで入れるので精巧なつくりもみておきましょう。左の回縁奥の飾り板の透かしは「種蒔く農民?」となっています。収穫への切ない祈りが込められているのが伝わってきますね。

69-3香取神社そばの庚申塔
如意寺からの道が香取神社に出会う角、香取神社の道路向いに小さなお堂があります。木の陰で少し分かりにくですが傍に手水石や常夜灯・昭和10年出羽三山碑もあって、昔は此の角が小さなお堂として祀られていたのでしょう。お堂の中に青面金剛像が祀られています。此の像塔は正徳二年(1712)の二手金剛で、「日本の石仏」で横田甲一氏が東葛飾地方で同一作家による像塔として論及されたうちの1基です。「帽子状のものを被りチョッキ状のものを着て細く頼りない二本の腕・山袴またはスカート状のもを穿いて帯はゴムホース状・・・」と表現され、確かに一目見て他の青面金剛と区別のつく像塔です。

69-4間(あい)の坂の川獺(かわうそ)の碑
香取神社からバス道路を200m南下し、分離帯のある交差点を右折して坂道を下っていくとY字の分岐に出会います。ここに供養塔が置かれています。カワウソの碑として、これは他には例を見ない有名なものです。文化十四年(1817)造立で正面は「祭獺之制底」(=さいだつのせいち)と刻まれています。制底(せいち)とは梵語で廟を意味します。川獺の祭りという言葉があって、川獺が魚を取って川岸に並べておくことを先祖の祭りをしているとみたてて言う言葉だそうで、季語で「獺祭=だっさい」と載っています(国語大辞典)
昔、廣瀬佐惣治という魚とりの好きな若者が川獺を眼の敵にしてこれを殺してしまいそのせいか、佐惣治は若死してしまいました。これをを悼んで廣瀬家でこの供養塔を立てたものです。正面上部に普賢菩薩の真言「オン サ マ ヤ サトバン」と梵語が刻んであります。真下からオンで始まり順に時計回りで読んでいきます。サトバンは中央の種子となります。此の供養塔は道標も兼ねていて、側面は「右 枩戸道」「左 若志らが道」と記してあります。沼南風土記や「沼南の歴史をあるく」に詳しく載っています。箕輪はこれにてひとまずおしまいですが、近年の宅地開発で周りの環境はすっかり変わってしまいテキスト記述文とのギャップに本当にびっくりしてしまいました。

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2010/03/11

68北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅻ(岩井)

鷲野谷地区の西隣が岩井地区になります。手賀沼南岸にあって平将門ゆかりの土地ということになります。

68-1勝矢堂
No.65の鷲野谷バス停から西へ向かい次の岩井バス停前につけば、その前にお堂のある一角があります。テキストでは勝矢堂という表示です。その謂れには説明がありませんが、次に回る将門神社に奉納された石造遺物の寄贈者に勝矢姓が散見されるので勝矢家のお堂という意味かもしれません。小さなお堂のそばにミニ5重石塔が置かれています。写真手前にある明治45年出羽三山・百番碑(秩父・坂東・西国巡礼)が立派です。明治42年大師道標など明治期の石造遺物があって、その頃に整備された新しい史跡のようです。

68-2将門神社の石造物
勝矢堂の角から将門通りと称する道路を北西方向へ村中に入っていきます。右手石鳥居が見えるとその奥に岩井青年館が建っています。よく見ると青年館の土間とも思える参道の先に石段が見えています。その奥に日本に唯一と称して名前はビッグですが、社殿はスモールな将門神社が鎮座しています。神社の謂れは解説板をご覧頂き、将門伝説などはWikipediaを参照ください。沼南風土記によると「この地区では成田詣りをしない、桔梗の花は植えない等の風習がある。又、将門の三女・如蔵尼が父の霊を祀ったとの起源は、茨城県坂東市(旧岩井市)にある国王神社の将門伝説と共通して意義深い」と述べています。Wikipediaの調伏伝説を参照してください。
さて、その将門神社は青年館の陰で窮屈そうですが社殿前には石造物が散在しています。上の社殿の写真で手前に写っている小さな石祠は文化八年(1811)雷神宮です。天保二年・三年(1831・32)の燈籠も右方に写っています。頭部にバンの種子を頂く宝暦十年(1760)水神石祠、種子サクを刻んだ文政七年(1824)奉需廿三夜供養塔石祠などはちょっと珍しいものです。文化十四年(1817)鹿嶋大神宮石祠や明治・大正の出羽三山塔・光明真言塔なども点在しています。
隣接するのが真言宗豊山派の龍光院です。後学のためにWikipediaで豊山派を載せておきましょう。

68-3龍光院の庚申塔(岩井庚申塔群)
長享二年(1488)創建といわれる不動明王を本尊とするお寺です。境内に「南無地蔵尊」の紅い幟が翻る参道の奥に平将門三女如蔵尼が一門を弔った地蔵堂があります。お堂の側にある手書きの由緒書を読んでおきましょう。お堂の側に文政十三年(1830)六地蔵六面石幢が建っています。200年足らずの経過位では像容は綺麗に残っているものですね。
地蔵堂の南側広場に「岩井庚申塔群」標柱が立つ石仏群落があります。標柱の記載「この場所は岩井と箕輪地区の境にあたる・・・」との解説があるように、この石仏群は元の場所(ローレルヒルズ手賀の杜と呼ばれる大団地)が宅地開発されるに伴い引っ越してきたものです。青面金剛像塔1基・文字青面金剛王塔7基・文字青面金剛尊塔2基・文字庚申塔1基の集団移住です。一番古い正徳二年(1712)の青面金剛は二童子付の豪華なものですが、左手ショケラのように見えないものは何を持っているのでしょうか?写真に載っているお堂の横の青面金剛塔は左から文化元年(1804)・天明四年(1784)・天保十四?年・安永四年(1775)となっています。天保塔の台石の三猿は右が走り猿となっていて面白いですね。他にも弘化四年(1847)山神宮碑や→印がついた道標「大井ヲヘテ柏流山・若白毛風早村・・」などがあって楽しくなりますね。

68-4旧道角石塔群
ガイドの表示は旧道角となっていますが、隣接する分譲墓地・柏湖南聖地公苑を目印とするのが分かりやすくて正解です。写真内にすべての石塔が載っています。下の写真正面左は文久二年(1862)太子宮塔・寛政五年(1793)青面金剛尊塔・宝永二年(1705)板碑型庚申塔の3基です。太子塔の台石に職人講中と刻まれています。手前左は「箕輪大井ヲ経テ柏ニ至ル・若白毛ニイタル」道標です。隣の黒い石塔は人差し指印の大師道・道標となっています。写真右上の竹垣から半身を見せているのは聖地公苑の現代の千手千眼観音です。

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2010/03/04

67E江戸石仏 練馬石神井の石仏Ⅱ

日本石仏協会編石仏地図手帖東京編をテキストに石神井地区の特徴ある石仏を巡ってみます。前回の天祖神社から西へ道なりに300m進むと曲がり角の人家の一角に庚申塔が立っています。

67E-1路傍の丸彫り青面金剛塔
享保十二年(1727)の丸彫り青面金剛です。二鶏が台石下部に三猿ととも彫られています。腕が破損しているのでしょうか、顔付きもお猿さんチックでひょうきんなお顔に見えます。唐草模様?の風呂敷?状の涎掛け?がご愛嬌です。「練馬区有形登録文化財」のピカピカ表示板がなんともそぐわない感じです。

67E-2御嶽神社の造化三神
南北に走る県道444号へ出て400m南下、石神井消防署交差点の次の角を左折すればこじんまりとした御嶽神社です。お社が二社あります。中央は御嶽神社で立て札に祭神は「国常立命=くにとこたちのみこと・大己貴命=おおなむちのみこと・少彦名命=すくなひこのみこと」と表示があります。神社左隣にも小ぶりの社があってこちらは一山神社と表示されています。お目当ての石神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)のことでグループ名は造化三神というらしいですね。一山神社の後方に回り込み、富士塚を登ったところに三体が祀られています。日本神話の出発点となる神々です。中央が天之御中主神でしょう。あとは右左の順に祀られているようです。
狭い境内に明治30年御嶽大神碑・一山霊神碑など山岳信仰系遺物が建立されています。ガイドでは明治38年神前型燈籠の竿部の龍の彫り物が立派と褒めています。
次は郷土資料館にある申待板碑を見る予定でしたが、資料館を新しく建設中のため前庭の展示石塔を含め見学は出来ませんでした。石神井小学校前交差点には特産の甘藍(かんらん=キャベツ)の碑があるので紹介しておきましょう。
67E-3道場寺の馬頭観音石神井図書館に隣接して道場寺があります。三重塔があるそばに無縁仏供養塔があります。裏に回りこんだ角に長命寺の次に古い元禄六年(1693)馬頭観音が佇んでいます。像容は聖観音にみえて碑面右の「奉造立馬頭観音」が無ければ見分けがつかないと思われます。

67E-4三宝寺の石仏群
道場寺に隣接する三宝寺は真言宗のお寺で天正十九年(1591)10石を与えられた御朱印寺(徳川家より代々寄進を受けた寺)です。勝海舟邸から移設した長屋門が右手に張り出しています。長屋門前に元禄十三年(1700)六臂青面金剛塔がおかれています。山門は御成門と呼ばれ庶民は通さなかったと解説板に載っています。三宝寺は仏教施設の展示場みたいなので、広い境内を駆け回る前に案内図で見所をチェックしておきましょう。案内図7番大黒堂下が地蔵堂で、ガイドによると文明四年(1472)来迎弥陀夜念仏供養画像板碑など51点が展示されていると出ています。訪問日は厳重に戸締りされていました。20年前のガイド本なので現在も拝観が可能か否か分かりませんが、私は先を急ぐのでパス。6番本堂前にも元禄九年(1696)青面金剛塔があります。巡って楽しい?のは3番お砂踏み霊場めぐりですね。八十八箇所の霊場ご本尊碑が場内に乱立?していてジャングル状態ですね。面白ろ~い。前回の長命寺で見た十二日講は三宝寺ではお遍路姿で立っていました。4番平和観音は十一面観音と思われますが、写真右の白い幟が「如意輪観世音菩薩」と読めるので本当?と突っ込みたくなりましたね。

67E-5禅定院の切支丹灯篭
三宝寺前の旧早稲田通りを東へ500m進むと豊島橋三叉路の信号で、こちらが禅定院です。門前の解説板に板碑・大寶篋印塔・いぼ取り地蔵・織部燈籠の文言を見出して思わず頬が緩みます。本堂前の植え込みの中、左から寛文十三年(1673)切支丹灯篭竿部・年不明六地蔵石幢・板碑5基が置かれています。板碑は応安(1368~1375)至徳(1384~1387)の年号を持つようですが彫りが浅くて読めません。萱葺きの鐘楼は珍しいですね。墓地入り口で元禄三年(1690)青面金剛庚申塔の片割れと其の後に十九夜塔を見つけました。

67E-6笠松墓地の血盆経刻字塔
禅定院前から石神井公園へ向かって北上し石神井公園交差点の先、石神井池が切れるところで右折し道なりにゆるい左カーブ坂道途中に笠松墓地があります。小さな鉄門扉を開けて石段を上れば赤松林のがらんとした墓地となります。正面に5基の石仏です。右は昭和38年の阿弥陀・観世音の名号塔というのでしょうか?次が弥陀三尊種子を頭部に刻んだ宝永五年(1708)百所巡拝塔です。左側面に「奉納血盆経萬人志也」と刻まれています。血盆経という用語になじみの無い方もおられると思うので、千葉県我孫子市正泉寺の解説板を載せておきます。北総石仏・我孫子市編で用意しておいたものです。北総地区では民俗資料として時々見かける用語ですが、石神井の地でも信仰されていた証をみてちょっと感動しますね。次の延命地蔵は紀年銘ないですね。隣は元禄七年(1694)笠付青面金剛塔ですが、六臂中左第一手は蛇持ちのようですね。小さいのは明治15年の文字庚申塔です。

67E-7地蔵堂の庚申塔
富士街道のドラッグストア・ウェルシア練馬石神井店の交差点向いに地蔵堂があります。正面に元文二年(1737)延命地蔵が祀られています。参道左の小屋根の中に元禄十一年(1698)六臂青面金剛塔があって、武州豊嶋郡中武蔵下石神井村と読めますね。隣は寛政八年(1796)聖観音らしいのですが、頭が小ぶりで後補?の感じがする異様な観音ですねえ。「浅草観世音参篭一千日」だそうです。

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