2009/08/25

46E.伊那 高遠の石仏Ⅰ

お盆に伊那の山中、高遠へ行ってきました。ここは江戸後期、高遠の石工で名人守屋貞治(さだじ)を生んだところです。石仏写真でよくお目にかかる願王地蔵を一度見てみたいと出かけてみたのでした。テキストは昭和55年高遠町史編纂委員会「高遠の石仏 付石造物」と石仏地図手帳・長野編「石工の故里 高遠・長谷の石仏 守屋貞治仏は招く」を参考に回ってみました。テキストの時代から20~30年経過しているため貞治仏は別として他の石造物の所在・保存状態など環境がかなり変化しています。見つけられなかった石仏も沢山ありブログを参考にされるかたは、簡単な現況レポートという位置づけでお読みください。今回は貞次仏を中心に回ります。 46E-1伊那市南割の庚申塔 伊那ICで降りて天竜川を渡り、高遠へ向かう国道361号線を5kmほど行けば途中に伊那市南割地区があります。国道左に庚申塔などの石造物が並んでいます。下の写真のように左区画に昭和55年庚申塔・寛政十一年(1799)道祖神がならび、右区画に庚申塔など12基の石造物がまとまって立っていますこのような自然石に刻んだ文字庚申塔と文字道祖神が高遠地区で頻出します。右区画で目に付いたものでは元文五年(1740)角柱型文字庚申塔、三猿つきですね。宝暦十三年(1763)西国巡礼聖観音塔でしょうか?あとは元禄時代の名号塔、明和六年(1769)大乗妙典一千部供養塔、元治元年(1864)甲子塔など仏教民間信仰の石造物が入り混じっています。ここでは甲子塔は目立ちませんが今後頻出するので予備知識を仕込んでおきましょう。「甲子(きのえね)または子の日に、講中または個人で夜遅くまで起きていて精進供養をする行事を子待(ねまち)といい、甲子待(こうしまち、かっしまち)ともいう。子待の供養に造立されたのが子待塔である。」と日本石仏事典に出ています。「子待塔の最古は今のところ埼玉県富士見市にある天和元年(1681)造立の燈篭である」との記載もあります。Wikipediaでも予備知識を仕込んでおきましょう。 事前に高遠町歴史博物館で「高遠の石仏 復刻版」1500円を手にいれると更に便利ですが、残念ながら博物館には石仏関係資料はありません。代わりと言っては何ですが、保科正之公(徳川家光の異母弟)と生母お静の像と目黒成就院にあるお静地蔵を写したものが博物館前に平成21年4月に建立されています。保科正之公については解説板をご覧ください。ここで面白いのは地蔵前の賽銭箱に添えられている茶色断り書きに「浄財は名君保科正之公の大河ドラマ化運動等に役立てる云々」とありました。そうか、こういう風に観光誘致を組み立てるのかと大変参考?になりました。 46E-2.高遠・建福寺の貞治仏 さて核心の守屋貞治仏が一番多い建福寺に参ります。建福寺は商店街の一本奥の道路の北側斜面に立っています。建福寺の石仏解説板を読んでおきましょう。石畳・参道石段の両側に石仏のお出迎えです。向って右に渋谷藤兵衛作の嘉永二年(1849)揚柳観音(ようりゅうかんのん)も見ごたえがある観音様です。渋谷藤兵衛も名工といわれ貞治の19歳年下の弟子で、貞治の20年後嘉永六年(1857)になくなっています。楊柳観音は「観音の慈悲は、楊柳が春風になびくように、衆生の願いに応ずるところから生まれた観音様で右手に持った楊柳が三麻耶形(象徴)の観音である」=日本石仏事典第二版に載っています。三十三観音の筆頭で独尊では極めて珍しい石仏です。合掌。石段左は貞治作の延命地蔵大菩薩と表示があります。しかし、私の持っている昭和55年「高遠の石仏」ではこの延命地蔵は「渋谷藤兵衛作といわれる」と記述され、貞治の手控「石仏菩薩細工」に記載のある延命地蔵・建福寺は不明となっています。何時の間に貞治仏に復活したのだろう?実はこの延命地蔵は写真で見るように石が甘く裾の流線形が荒れています。地蔵の顔もやや角型で「連弁線の太さや作風がおおらか、貞治と異なった量感のある逸品である=高遠の石仏」との記載も頷け、心情的には貞治仏に与したくないのですが・・・??この寺にある貞治仏の傑作・願王地蔵菩薩と比べてみてください。 建福寺は実は門前が石仏ワールドになっています。石段右の揚柳観音の上段は貞治作の六観音が並んでいます。その並びに貞治顕彰碑と解説があります。更に離れた大岩の高みには不動明王が鎮座しています。台座に「但住衆生心相之中」と刻まれています。年不明ですが露座の割りにしっかりした像容です。石段左側は延命地蔵の写真のバックにあるような西国三十三観音のお堂が三段に分かれて並んでいます。西国三十三観音をWikipediaで確認しておきましょう。石仏の代表選手を載せておきましょう。一番那智山青岸渡寺の一面六臂如意輪観音では右手は反手となっています。新発見。二番紀三井寺の十一面観音はこちらです。三番粉河寺の千手観音はこちらですが、「千手千眼自在菩薩ともいい、千の慈眼千の慈手で衆生を済度するので大悲観音ともいう」・・日本石仏事典に載っています。九番興福寺の不空羂索観音はこちらです。Wikipediaで不空羂索観音を勉強しておきましょう。一面三目八臂が一般的と載っていますが、貞治仏では六臂で与願印を結ぶ二臂が見当たらないようです。 次は十一番上醍醐寺の准胝観音です。一般的な一面三眼十八臂になっているでしょうか。この像で面白いのは蓮華座を支える難陀(なんだ)跋難陀(ばつなんだ)、という釈迦などを困らせた六人の弟子のうちの二人がいることです。33観音中この像でしか見られません。 次は二十九番松尾寺の馬頭観音です。宝馬を頂き三面六臂の憤怒相です。やっぱりいいですねえ。 中段のところに首を後補した文政十年の聖観音の百観音巡拝供養仏があります。「高遠の石仏」では貞治仏に入れたいけれど不明仏と気にしています。 この貞治仏ワールドの西側に9基の石造物が一列に並んでいます。左から4基は顕彰碑でしょうか、昭和12年小松一雄先生碑・昭和2年白鳥先生碑いずれも高遠出身の画家で書家の中村不折の筆に因っています。書体を違えて揮毫していますね。この隣は昭和28年六波羅千代碑・三?峰先生碑となっています。この右方には上部が欠けた大乗妙典一千部供養塔・寛政十二年(1800)庚申塔・年不明庚申塔・万延元年(1860)庚申塔・文久元年(1861)文字馬頭観音が続いています。ひとまず、門前拝観を終えて山門をくぐりましょう。お寺の由緒は山門脇のこの解説板を読んでおきましょう。左の燈篭の陰には既出した貞治作願王地蔵菩薩がこのように祀られています。また、境内右方に天保六年(1835)仏足石が造立されています。仏足石には恭仏跡一十七首之碑が直立して建てられていて、万葉がなで書かれているとのことですが薄くて全く読めませんね。以上で建福寺をあとにしますが、貞治作の西門脇お堂内・佉羅陀山(きゃらだせん)地蔵と墓地内・斉藤氏願主の聖観音像は見ておりません。 46E-3桂泉院の貞治仏 建福寺から約3km東方の山中に桂泉院があります。こちらには3体の貞治仏です。まず、石段右に准胝観世音菩薩、左が延命地蔵菩薩でいずれも文久三年(1820)で貞治56歳の作だそうです。見て分かりますね。尚、准胝観音の右に寛文五年(1665)の地蔵六面石憧が置かれています。この地では六面石憧によくお目にかかることになります。裏の墓地に参ります。武田信虎公の墓を目印にしてその上部に住職墓地があります。そこに貞治仏の表示で可愛らしい聖観世音菩薩像が祀られています。更に上段石垣内住職墓地に貞治仏表示はありませんが、宝珠を持った延命地蔵菩薩が鎮座しています。一目で貞治仏とおもわれるのですが、台石に刻まれた建立が嘉永元年(貞治没後十六年)となっており「高遠の石仏」でも疑問の1体と載せています。 境内には塚原卜伝の墓や長野県宝の文和四年(1355)の梵鐘などがあります。戦国時代など梵鐘は戦利品として引きずってくることがあり、乳と呼ばれる突起が欠けているのを見るのも歴史の勉強になります。門前に戻ると、石段を登る手前に石塔が2基あるので確認しておきましょう。右に年不明・大乗妙典一千部供養塔が置かれています。左に二猿の延宝八年(1680)二猿笠塔婆型庚申塔、側面に鳥が彫られています。桂泉院へ上る道路角に年不明の立派な二十三夜塔が置かれていました。 46E-4.常盤橋西袂の貞治仏・不動明王 荒川三峰(みぶ)の水切不動として文化文政のころ勝間の人々により建立され、幾度かの変遷の後ここに祀られたものとテキストに書いてあります。枝垂れた枝葉で車上からは分かりません。橋の傍からお参りできるのですが、足場が悪く踏み外せば下の岩場に真っ逆さまです。信仰心を試すにはよい機会でしょうか?立派な解説板もお読みください。46E-5.市野瀬・円通寺の貞治仏 美和湖の南端長谷溝口から国道152号秋葉街道を約5km南下します。集落に入り市野瀬郵便局が目印です。市野瀬郵便局の手前にある角を右折し細い路地のような道を登れば円通寺の駐車場・山門前に着きます。外観は立派で無住のようには見えません。駐車場にある解説板を見ておきましょう。山門を入って右に、解説板に「心に琴線を感じ・・力強いものを感じる・・」との説明がある聖観音像がおわします。教育委員会の解説にしてはえらく感傷的な表現です。一方の左には杓杖と宝珠持ちの延命地蔵が左足を前に出した姿でおわします。貞治仏は一定のスタイルとでも言うのでしょうか、実に写実的に仕上げ微塵も揺るがない信仰心を全体に表現していると私は思っています。 貞治仏はこれくらいにして、次回は文字庚申塔や双体道祖神・普段見られない石仏を杖突街道沿いに見て行きましょう。

2009/08/16

45.北総石仏 白井ⅩⅨ Last

お盆も過ぎました。この北総の地では、先祖供養に先祖の腰掛を供える所が残っています。お盆前に大手DIY店で売られているのを見つけました。思わず携帯で写真を撮ってしまいました。 さていよいよ白井地区も今回で最後です。お終いは古い習俗がのこり日本の良き田園村落を象徴するかの如き印象が強い平塚地区を回ります。白井地区石仏の博物館とも言える(私が勝手に称していますが)平塚延命寺をメインに周辺を回ります。白井市循環バス「ナッシー号」でバス停98平塚本郷集会所で下車すると目の前が本郷集会所です。 45-1.本郷集会所の十九夜塔石仏群 こちらでは子の安全を祈る圧倒的な女性パワーがここに結集した様子が伺えます。集会所の庭の境界沿いに北面して11基の石仏が並んでいます。又、直角に交わるように西面して5基の石仏が並んでいます。まず西面する石仏ですが左から安永三年(1774)十九夜塔と次は箱形の天明七年(1787)大乗妙典日本廻國供養塔です。明治2年の地蔵の次に文化八年(1811)と文政九年(1826)の十九夜塔が2基並びます。次に北面する石仏は子安塔と二十三夜塔などがほぼ年代順に並んでいます。奥から天保十四年(1843)、慶応三年(1867)子安塔、明治19年十九夜塔、明治7年文字二十三夜塔、大正元年子安塔、大正七年二十三夜塔、昭和8年子安塔、28年・40年・58年・平成11年子安塔となっています。子安塔は乳飲み子が乳房を含んだ造形が主ですが平成11年塔は赤子が正面向きに合掌しているちょっと無理かなという石仏に仕上がっています。平成11年本郷念仏記念碑という石柱もあってこの地区で女性を主としたと思われる念仏講の今も盛んなことが偲ばれます。 45-2延命寺の石仏群 本郷集会所の200m先に平塚の延命寺があります。読みにくいですが由緒は写真で確認しましょう。石造物調査書で当寺をA~Eまで5区分に分けて資料掲載しているように、こちらでは多種多量の石造物を一堂に見ることが出来ます。田村能里子画伯の意匠による梵鐘などもあって時間をかけて訪れたいお寺です。お正月にはこの鐘を突かせていただけるので我が家の初詣スポットにもなっています。では、お参りしましょう。山門の前には立派な灯明台が2基立っていますが大黒天の赤い幟に影が薄くなっています。山門をくぐる手前左から石造物の行進は始まります。宝暦八年(1758)三界萬霊塔の丸彫地蔵がスマートに立っています。お隣は昭和37年印西大師結願記念碑です。この平塚地区は独自に平塚大師講による巡礼も有する大師信仰の強いところです。更に進むとあちこちで大師信仰記念碑が現れます。お隣は明治11年職人講中が建てた文字聖徳太子塔です。勉強したところが実にシンプルに出てきますね。この隣は昭和62年印西大師講記念碑で新四国八十八番などの石塔も立っています。その奥に昭和56年高野山奥の院・西国・秩父・坂東百観音巡拝記念碑と盛り沢山の内容です。上の写真に写っている赤い社は天神社です。合格祈願の幟も立っています。社の側面にテレフォン法話の内容で天神社の解説が載っています。ご参考にどうぞ。境内に入ると右に梵鐘、左が寛文八年(1668)に石川県金沢の大工によって建てられた県指定有形文化財の観音堂です。解説板をどうぞ。(石仏に夢中で観音堂の写真はありません、残念)観音堂の裏、道路に平行して境内に石仏が並び道路に面した方には庚申塔が並列しています。境内道路沿いに見て行きましょう。先ほどの天神社の奥に大正三年平井先生之碑なるもの、多分現代版筆子塔といえるものが大きく建っています。ちょっと離れてシャガの花の叢に3基の金剛界大日如来塔が佇んでいます。左から明和元年(1764)・天明三年(1783)・文化十一年(1814)となっています。文化塔は石質が悪いのかかなり像様が傷んでいます。しかし3基とも素朴な味わいが出ています。少し離れて3基の石仏です。倒れているのは延享四年(1747)大乗妙典日本廻國塔、真ん中は貞享四年(1687)三猿付庚申供養塔、右が宝暦五年(1755)十九夜念仏如意輪観音塔となります。この先は大師千百年御遠忌記念塔や大正2年出羽三山塔があって道路から入る参詣路に交差します。次は道路に出て道路沿いに並ぶ11基の庚申塔群を見てみましょう。11基の内訳はショケラ持青面金剛塔(多分、アーモンドヘッド型ですね)、種子庚申塔1基、文字青面金剛尊塔、青面金剛王?塔各1基あとは文字庚申塔が8基となります。下の写真は左から8基の庚申塔です。この右の並びに3基の文字庚申塔が続きます。では左から見て行きましょう。昭和53年・明治29年・昭和49年・昭和25年のいずれも文字庚申塔です。次の木陰になって見えないのは文化十二年(1815)文字青面金剛塔です。その左も隠れていますが享和元年(1801)種子庚申塔です種子(アシュク・ウーン)を全面に刻み木綿台講中の寄進です。おどけたお猿さんもおまけです。次が宝暦六年(1756)ショケラ持青面金剛塔です。見づらいですが左手の宝輪を水平手で持っているのでアーモンド型と思われます。続いて安永七年(1778)文字青面金剛尊ですが、深い薬研彫りが印象的です。残りの3基は天保十年(1839)・萬延元年(1860)・明治15年(1882)のいずれも文字庚申塔であります。最後の明治塔は道標も兼ねていて「右 とよいちむら さくら道、左 木おろし なり田みち」と刻まれているそうです。(見忘れた!) では、もう一度境内にもどりますが境内に入る参詣口の左手は出羽三山塔でアワアワ状態です。 いずれも現代の出羽三山塔で昭和58年・26年・4年・33年・平成10年・昭和44年・明治34年となっています。従ってすべて月山主尊であります。本堂脇に印西大師54番のお堂があります。その奥一段上に東葛・印旛大師65番84番札所の表示とお堂があります。その裏には「デッケー!」と思わず言いたくなるような大師講記念碑もありました。平成16年造立ですから現代に活きている民間信仰の証でもあります。 このあたりも石仏ゾーンとなっています明治7年弘法大師千五十年遠忌供養塔、大師像を柱頭に刻んだ明治6年一万人講供養塔、右には小さな天明三年(1783)馬頭観音塔、嘉永元年(1848)南無大師遍照金剛塔、線彫大師像碑が並んでいます。その裏に回ると、天宝十五年(1844)文字大日如来塔、文久三年(1863)湯殿山主尊出羽三山塔、嘉永三年(1850)観世音菩薩普門品供養塔が並びます。そして墓地ゾーンへ入る手前に歴代住職の墓地があります。私はパスしたのですが、五輪塔のオンパレードなので関心のある方は拝観されるとよいでしょう。入口右に印相から見ると延宝五年(1677)来迎阿弥陀像が佇んでいます。そして墓地の外通路側に、年代・像様からしてなんとも美しい十九夜念仏塔如意輪観音像が並んでいます。左が寛文十年(1670)、右が元禄十三年(1700)と地区でもビンテージ物といえる石仏です。境内に戻れば忠魂碑と昭和18年遍照金剛塔が参道右手に立っています。見ておきたいのは田村能里子画伯の「二都花宴図」を池ノ間にデザインした梵鐘でしょう。乗馬の民やシャボン玉を吹く着物姿の少女、駱駝の姿まで登場するスケールの大きなデザインです。経緯については説明碑写真をご覧ください。以上駆け足ですが、石仏石造物をこれほど多種類を一覧できる所はなかなかありません。私は白井の石仏博物館と称したいですね。 45-3.平塚の鳥見神社 延命寺の50m先に鳥見神社があります。鳥居は稚児柱のついた両部鳥居で木製です。拝殿が大きくて流れ造りで覆庇の中の本殿は見えません。一見すると村の集会所みたいですが、回り込めば側壁の飾りも豪華な社に驚くでしょう。参道左は4基ほどの伊勢講碑です。大正3年狛犬・昭和10年灯明台・文政八年(1825)石灯籠は神社の定番です。拝殿左手に宝永六年(1709)大杉神社石祠があります。参道右に入る道には寛政十二年(1800)子安観音石祠・安政六年(1859)再建の水神宮・天保十四年(1843)山神石祠などが散在します。今年の干支の絵馬ならぬ絵瓦が奉納されていました。ちょっと寂しい感じですね。 45-4.白井小学校平塚分校 石仏と関係はないですが、立ち寄りスポットで載せておきます。白井分校は鳥見神社に隣接し本殿奥に校庭が広がっています。惜しくも2003年4月に第二小学校に統合され廃校となりました。しかしながら木造の校舎や正面玄関脇の二宮金次郎銅像を見ると、山間の学校を連想しノスタルジアに誘われます。校庭に佇んでいると古き良き時代が偲ばれます。 45-5.本郷エビ屋角の馬頭観音道標
平塚東地区(旧本郷)の入口にあるえびや商店の店先に2mほどの角型石柱が立っています。背裏側を見せているので反対側を覗き込みましょう。大きな書体で馬頭観世音と刻まれています。これは明治二十九年の文字馬頭観世音ですが「東 白井道 西 松戸道 東京道」と記された道標にもなっています。分かり易い道標です。どこにあったのでしょうかねえ。
45-6.向台入口の庚申塔 エビ屋角を左折し約300m、白井聖地公園への入口を過ぎて次の角で左折し向台道を北上します。700mほど進み右側林の道路沿いに3体の庚申塔が立っています。いずれも文字庚申塔です。左から元文四年(1739)の庚申供養塔、正徳五年(1715)三猿庚申塔、寛政元年(1789)庚申供養塔となります。多分村境に建てられたと思われますが、二百年以上も前に祀られた信仰石造物が畑と森の間の一本道にただの石柱のように立っている姿はいかにも寂しそうです。 45-7.向台庚申塚 ここから約300mでT字路に突き当たります。角にも馬頭観音と思しき磨耗の激しい石塔2基がありますが、先をいそぎましょう。左に曲がり50m進むとカーブミラーがたっていますが、その土手状の所が庚申塚です6基の石仏がたっています。左から天保十年(1839)文字庚申塔、次が万延元年(1860)文字青面金剛王塔で台石三猿付、次も文政九年(1826)青面金剛王塔三猿付です。この庚申塔は右側面に「右 松戸道 左 白井道」と道標になっています。次の自然石型庚申塔は明治13年です。残り2基はいずれも二十三夜塔です。左は文久三年(1863)、右が文政十一年(1826)となっています。特に右端は碑面が読めないですね。2基目の年号と5基目の内容は石造文化財報告書に拠っています。 45-8.向台薬師堂の庚申地蔵 庚申塚から200mほどで左に集会所のある旧薬師堂跡に着きます8基の十九夜塔・子安塔が道路を向いて佇んでいるのですぐ分かります。石段正面に大師堂があります。その左手前が庚申地蔵です。「奉造立庚申供養 二世安楽・・」と刻まれて享保七年(1722)に祀られました。久しぶりの庚申地蔵です。しげしげと眺めてしまいます。左手の昭和63年現代版子安観音塔に目を奪われますが、庚申地蔵に背を向けて振り返ると木陰に小さな聖観音が佇んでいます。宝暦五年(1755)「奉念仏供養 念仏弟子 千二百五十六人」と刻まれているようです。小さな体でも当時の信仰エネルギーが詰まっているようです。敷地の大半は墓碑で埋まっていますが、奥のほうに新四国十九番の大正六年の大師塔があるので見ておきましょう。この敷地の向かいにもガードレール外に明治8年新四国八十八箇所第七十番線彫弘法大師像が祀られています。それでは、道路際の石仏を載せておきましょう。左から寛政六年(1794)・寛延四年(1751)・文政七年(1824)十九夜塔です。次が大正13年・明治29年・天保十年(1839)・文久元年(1861)・明治13年の子安塔でいずれも赤子を抱いています。明治13年塔は南天に隠れて写真には写っていません。明治29年塔は赤子が含んだ乳房あたりが欠けています。母親たちが乳の出をよくするために欠いた欠片を煎じて飲んだかも知れません。それにしても赤子の頭のデカイこと! 白井の石仏をほぼ一巡しました。最後の締めくくりに秘境にそびえる谷田の飯綱権現社を載せておきます。 45-9.谷田の飯綱権現 場所は谷田になっていますが、接面道路がないので車では近寄れません。おまけにY氏プライベート神社なので所有者にお断りのうえ、行き方を教えていただくことが必要でしょう。久しく探し回っていた神社なので、前置きを並べてみましたがこちらには石仏はありません。白井市指定文化財「印西牧場之真景図」にも載っている「見通しの松」の記念碑(昭和41年)が置かれています。旧飯綱権現社は昭和57年千葉ニュータウン開発の為に御座所をこちらに移されたようです。飯綱権現のお勉強は定番Wikipediaをご覧ください。溶岩を積み上げた富士型の山頂に社がありますが、見下ろした写真でも分かるように結構高くなっています。神社前に車道はありませんね。探し回る熱意と運がよければ、北総台地の林の中に白井市唯一の飯綱権現に出会えるかもしれませんね。以上、白井市の石仏を巡ってきましたがこれで一区切りとしましょう。平塚の新四国巡礼が行われているなら一度参加してみたいと思っていますが、又別の機会にいたしましょう。 次回は旧沼南町(現柏市)の予定ですが、遠足シリーズで信濃高遠の名人石工・守屋貞治の作品を載せることが出来るかも知れません。