2023/03/02

2.北総石仏 小林Ⅱ

1.巴塚
印西観光協会の立てた案内板が馬場集会所の先に立っています。道路右手の広いあぜ道を行けば見落としそうな土饅頭に小さな石盤と手向け花。これが木曾義仲の愛妾巴御前の終焉地と言われる所。 2.駒形庚申塚 巴塚の先に六体の庚申塔。文字塔3碑・青面金剛像2碑・三猿碑が行儀よく並んでいます。 左端が自然石の明治十九年、その右が安永八年(1779年)の青面金剛像です。 ショケラ付で6臂です 次が安政三年(1856年)の角柱型文字庚申塔です。その右が寛延三年(1750年)三猿庚申塔です。 隣は文化七年(1810年)の文字庚申塔で種子はアンのようです。これが何を意味するかこれから勉強します。 右端は享保七年(1722年)青面金剛像です。小林村の村中安全を祈願してます。

2023/02/27

30.北総石仏 白井Ⅵ

前回の長楽寺で大量の石仏群を見落としてしまいました。発見できて良かったのですが、このコースを始める前に載せておきます。 29-3七次・長楽寺の石仏群(追加) 長楽寺本堂左に鐘撞堂がありますが、その後方に印西大師堂82番と共に4段23基の石仏が勢ぞろいです。多いのは十九夜塔8基や観音霊場巡拝塔5基、月山三山塔3基や馬頭観音文字塔・文字庚申塔等です。代表で正徳三年(1713)笠付十九夜塔を載せておきます。前回天神八幡神社の灯篭で時講の話を載せましたが、下の写真のように昭和55年御斎講供養塔もあって現代にも信仰が息づいてきたことをうかがわせます。印西大師堂を見上げていたら興味深いものを見つけたので載せておきます。昭和16年戦時下、陸軍大臣東条英機名で感謝状が印西大師(講)に出ていますが何を供出したのでしょう?文面が「かたじけのう」と如何にも文語口調です。以上で七次を終えましょう。 今回は北総線白井駅から出発し、主に木下(きおろし)街道の南側をめぐる石仏紀行です。締めくくりに感動的な?ものに出会えます。白井駅から東京方向へ線路沿いの道路を500m程西進して、根交差点で木下街道と出会います。交差点を左折し1kmほど南下すれば競馬学校の表示が右手に見え、これが目印です。こちらは中央競馬会の競馬学校で騎手の養成所です。競馬学校の信号脇に根(白井新田)の天神社があります。 30-1.根(白井新田)の天神社の石仏 木下街道から入るとすぐ右手に自然石型の明治年代・二十三夜塔が2基ならんでいます。北総地域では江戸末期から明治・大正・昭和になっても女性の信仰を集めたこのような石塔石仏が遺存しています。(台石に村内安全とありこの石塔建立は女性限定でなかったかもしれません)そして続いて14基の石仏が並んでいます。石仏種類が多いのがこの神社の特徴です。文化二年(1805)の馬頭観音像で馬頭が良く出ています。隣は安政五年(1858)の地藏像です。そして左へ8基の文字庚申塔が並びます。続いて日蓮系の明和元年(1764)「奉勧請帝釈天王守処」庚申塔があります。その左隣に多分庚申塔と思われる寛政九年(1797)塔があります。次は明和八年(1771)羽黒山供養塔ですが像大日を上部に頂く珍しい石仏です。石仏上部は左が法界定印を結ぶ胎蔵界大日そして右が智拳印の金剛界大日如来です。左端で明治5年の文字庚申塔で一区切りとなります。明治35年石灯籠と昭和5年の狛犬の間を抜けて参道を奥に進むと左手に立派な石造物があります。昭和51年の開村400年記念碑が村の歴史を「1603年~1717年まで戸数13戸といえその存在は明らかである云々」と謳いあげています。更に奥に進むと左手に8基の石仏石祠が並んでいます。気が付いた石仏を挙げておきます。年不明の稲荷碑ですが「丸山稲荷大善紳」となっています。明治26年子安塔ですが胸元の石が剥がされています。乳の出が良くなるように母親が掻き取ったのでしょうか。他にも琴平宮記念碑や疱瘡神石祠があります。これくらいにして天神社を後にしましょう。競馬学校に到る道路は春4月桜並木が綺麗なのでお花見拝観にもいいですね。実は競馬学校内の正門左奥に6基の馬頭塚があるそうで拝観申出したのですが、私有地のため門前払いされたのにはちょっとガッカリ。 30-2.競馬学校裏の弁天堂 前回の七次・八幡神社で頼朝の愛馬生月(いけづき)の話をしましたが、此辺り昔は生月が良く遊んだ八幡溜(はちまんだめ)というため池となっていました。その名残の弁天池が競馬学校裏にあります。木下街道を市川方向へ300m程南下し弁当製造の会社の未舗装道路を右折します。梨畑の間を道なりに直進すると鬱蒼とした木立の奥に鮮やかな弁天堂があります。石仏はないけれど昔なつかしの手汲みポンプがあります。絶好の休憩ポイントですが細かな注意書きにちょっとびっくり。30-3.復・富ケ沢十字路の庚申塚 白井新田の競馬学校・天神社の信号の先に作業服チェーンのワークマンがあります。その角を左に曲がり直進すると梨畑の中に十字路があります。右角に黄色の鉄棒にガードされた5基の庚申塔と対角の角に文字太子塔があります。 左から嘉永元年(1848)・慶応二年(1866)・享和三年(1803)文字青面金剛塔、宝暦二年(1752)六臂合掌青面金剛、文化九年(1812)文字青面金剛塔です。三猿が面白いので載せておきます。四股踏み型?やあっち向いてホイッ型など可笑しいですね。 対角の明治15年聖徳太子塔ですが地元の人で「馬頭さんと呼んで拝んでるよ」という人に遇いましたが違う塔かな???30-4.復(富ケ沢)の光明寺の石仏 庚申塚から直進するとT字路左角に光明寺があります。コンクリートで現代的な本堂の裏に歴代住職の墓碑があります。その並びで左手角に墓標に交じって庚申塔など石仏が安置されています。上段角にひときわ眼を引くのは元禄四年(1691)合掌青面金剛塔です。古い時代のもので彫りも良く光背の円環もはっきり残っています。暗くて分かりにくいですがその左に文政二年(1819)二十三夜文字塔と寛政六年(1794)大日如来塔?(上部刻像)があります。同じく上段青面金剛塔からひとつ置いて明治21年子安塔(子供の顔が大きいですね)・文政三年(1820)如意輪観音塔・明治21年出羽三山供養塔があります。下段右に元禄三年(1690)十九夜塔・嘉永六年(1853)如意輪観音塔・延宝三年(1675)如意輪塔がならんでいます。市内でも比較的古い年代ものが交じっています。不思議(私の感覚ですが)な石祠がありました。平成15年に建立です。3基並びの右端の「水天宮」は分かりますが真中の「水天妃宮」で?となって、左の「妃眷属宮」に到っては????と言う具合です。明治36年水天宮石祠が建て替えられたものと思いますが、扶養家族が増えたようです。石造物調査に記載があった天保八年石祠はどこかへ消えたようです。左端の天神宮石祠には正月のお供えだったのでしょうか、モチ花が供えられていました。 30-5富ケ沢の香取神社の庚申塔 光明寺のT字路を左へ集落に沿って約300m道なりに進みますが、橋を渡ったところで農道の未舗装路を直進します。左手に集会所と広場らしきものと鳥居が見えます。こちらが香取神社の入口で此通路以外に通ずる道路はありません。(つまり今来た道は行き止まりの道路なんですね) 鳥居の右手前には木祠と石祠2基があります。木祠内は年不明道祖神が納められています。石祠は読めなかったのですが姫宮と若宮だそうです。又、鳥居左手の広場には新しい集会所があります。その庭先奥に小さな石祠がコンクリートの区画に独立して祀られています。寛延四年(1751)と刻まれた弁財天です。結構な年代物で地域の人が大切にしてきたことがうかがわれます。鳥居の先の薄暗い石段を登ると左に明治26年子安観音がおられます。上部に妙法と刻まれ日蓮系の影響が見られます。子安観音といえ立像で赤子を正面懐に抱く変わった像容です。砂岩なので像容が荒れているのが惜しまれます。香取神社は簡素な社殿ですが一対の石灯籠は文化八年(1811)でほぼ200年のビンテージ物です。 さて庚申塔ですが、神社の石段の鳥居をくぐる手前の藪を右に入るとひっそりと3基がたっています。左から天保九年(1838)帝釈天塔、万延元年(1860)大帝釈天王塔、寛文十三年(1678)笠付三猿文字庚申塔です。ここでも日蓮系の関与が濃厚ですね。それにしても行き止まりの斜面に祀られた神社の周りに、これだけの年代物石仏が祀られていることに驚くと同時に江戸時代の重みを実感した次第です。 30-6富ケ谷の薬師堂の石仏群 来た道を戻り今度は川沿いに船橋市との境を約1km道なりに北上すると橋のある道路に出ます。此道をU字状に左折すると坂道右手に石仏群が並んでいる薬師堂があります。庭先に石仏群が整然と並べられています。前列には力石が5個右から四十メ・三十メ・二十二メ・十九メ・十七メとならんでいます。メは千匁(もんめ)≒3.75kgと思われます。祭りの晴れ舞台で、きっと何人もの若者が力自慢に挑んだことでしょう。中列にも十九夜塔が四基並んでいます。右から2番目は正徳二年(1712)頭部が後補ですが丸彫地藏塔です。「二世安楽云々」と十九夜講が建立したものです。ここでも「おみや・おせん・おゆき・おはる・おまん・おふく・・・」と台石に「お」のつく女性名が並びます。後列左端は延宝三年(1675)笠付三猿文字庚申塔ですが、猿が一尾ずつ正面・左右側面に彫られています。右端の十九夜塔は文久三年(1863)ですが年号や「夜」が異体字で刻まれています。道路沿いに明治33年札所百八十八箇所供養塔が屹立しています。羽黒三山・四国・西国・秩父・坂東・伊勢・善光寺・備前などなどを刻んで故人の供養塔でしょうか。立派!!!!30-7.富ヶ谷の鳥見神社 薬師堂の左をあがれば鳥見神社の参道になります。木漏れ日の参道をのぼり特に変わったことのない普通の社殿です。右手に小さな石祠が3基あります。普通のように思えましたが、「信仰は感動だ」という発見をしました。道祖神のお供えを見て、民間信仰・民俗の根深さを実感したしだいです。解説は私がもっと深く理解できた時にやっと語れるようになると思います。以上、今回はこれまでとしましょう。鳥見神社脇の車道の坂道を登って道なりに左方向を目指して約1kmで北総線白井駅です。

26北総石仏 白井Ⅳ

鷲神社の辻を西へ川沿い方向に約500mで、右手に別れる道沿いの広場に青いトタン葺小屋と有線放送スピーカーの鉄塔が建つ集会所があります。
  26-1.木(野口)の地蔵堂 白井町石造物調査報告書では地蔵堂となっていますが、集会所の看板は大集会所となっています。広場左に石仏群があります。また、道路沿いに下の写真のように石仏が3基並んでいます。左から昭和8年羽黒三山塔、明治44年自然石型「武州上岡馬頭観世音」碑、文化三年(1806)青面金剛王文字塔です。青面金剛王塔は左「行とく道」右「まつ戸道」と道標も兼ねています。前回も「行とく道」道標が出ていましたが今で言うところの木下街道に相当します。行徳道はこのあたりからの行き先を示した表現方法ですから、江戸からみれば木下へ行く道(木下街道)となるわけです。そしてこの時代は、おそらくこの前の道が行徳へ通ずる「木下街道」であったろうと思われます。江戸時代には「木下街道」は複数のルートとして存在していたようです。広場左手にある石仏群(墓碑が多数)の中で上の石仏が目に付きます。左から明治20年子安塔、宝暦七年(1757)花見地藏「見園堂地藏大菩薩」、年不明出羽三山塔・秩父坂東西国記載の石塔となっています。残念ながら地藏は磨耗していて文言が読み取れず白井町石造物調査報告から引用記載しました。花見地蔵は房総石造文化財研究会でも究明中の話題となった地蔵です。
  26-2.愛宕神社途中の不動明王
地蔵堂の前で二手に分かれる道を右にとり薄暗い林の中を上っていくことにします。右手林の中で個人のO家門へ通じる道があります。その道から下の写真のようなトタン屋根の小屋が目に付きます。
左に不動明王 右に稲荷を祀った木祠でした。不動明王は台座に成田山とO家個人名表示があり二童子(こんがらどうじ・せいたかどうじ)もついています。年代は新しそうな石仏でしたが大切に信仰されていることが分かり安心しました。 
  26-3.木(野口)の愛宕神社 林を抜けると綺麗に区画された千葉ニュータウンの分譲住宅が広がります。愛宕神社は住宅1区画分左手奥に回り込んだところにあります。わずか7軒の氏子で創設されてきた神社が、宅地開発の波でこのような場所にこんな形で落ち着いた変遷を見てみましょう。境内左手に6基の石造物が並んでいます。左から宝暦十年(1760)不明石祠・明和四年(1767)天満宮・昭和14年山神宮・宝暦元年(1751)弁財天宮・明治15年三山塔道標となっています。山神宮は初見、日本石仏事典で探してみましたがあるいは「山の神塔」が該当するかもしれませんが詳細不明です。
  26-4.愛宕神社の庚申塚
神社参道右手に庚申塚があります。写真のように庚申青面金剛像塔が6基並んでいます。写真には載っていませんが一番左に明治14年猿田彦文字塔で、次から宝永六年(1709)六臂合掌、天保十二年(1841)六臂ショケラ持、明和元年(1764)六臂合掌、元文元年(1736)六臂ショケラ持、宝暦三年(1753)六臂ショケラ持、享保十四年(1729)六臂ショケラ持青面金剛像塔となります。何れも三猿付で平凡ですが写真をすこし載せておきます。庚申塔群はニュータウン団地造成で移されてきたのでしょうが、並べ方まで団地のように定型的では想像力のない役人仕事に思えてきてちょっぴり残念ですね。