2011/05/31

109 北総石仏 我孫子の石仏 高野山など

我孫子市の北西部の端まで紹介を済ませました。今回は手賀沼をわたる手賀大橋の傍にあたる高野山(たかのやま/こうのやま)地区あたりを巡ります。尚、写真・記述などは取材当時のままなので、東日本大震災で蒙った被害現状と相違する可能性がある点をお断りしておきます。
109-1高野山・香取神社の百庚申
手賀大橋の西側に手賀沼親水広場・我孫子市鳥の博物館があります。その先200mほど進めば香取神社の参道・石段への上り口となります。車だと手前の車道を登りぐるっと回り込んで神社前にたどり着きます。我孫子市史によると、「古老伝によると天慶三年(940)創立というが、平将門の乱が平定した年に仮託したものであろう・・・中世以前は不明で・・・貞享元年(1684)の棟札・・この時に香取の神を勧請したもの・・」と載っています。安政三年(1856)の石鳥居をくぐれば両脇に百庚申を並べた参道が社殿に続いています。

現社殿は昭和53年のコンクリート造り権現造形式だそうです。
さて、百庚申ですが社殿左前の天保十五年(1844)から始まり鳥居方向へ弘化 ・嘉永五年(1852)まで95基が並んでいます。文字庚申の間に青面金剛塔像搭が建てられているのも、よく見かけるお約束なのでしょうか。そのほかにも文化四年文字青面金剛塔や像搭などもスタンドアローンで並んでいます。いくつか写真を載せておきましょう。

そして社殿前には庚申灯篭があります。

宝暦四年(1754)「奉持庚申供養為二世安楽・・」と刻む西の屋型灯篭(というらしい)ですが、信人(筆者)は庚申灯篭を見るとなぜか嬉しくなるんですね。何でだろう。
社殿周りは明治から昭和にかけて出羽三山碑・伊勢講碑・阿夫利神社碑が並んでいます。享和三年(1803)・安政四年(1857)などの山神宮も盛んだったようです。
左から万治二年庚申塔・宝永三年山王祠・元禄十二年三猿庚申塔
 そして社殿後方には、当所で一番古い万治二年(1659)板碑型庚申塔・宝永三年(1706)山王祠・元禄十二年(1699)三猿型庚申塔がトリオで祀られています。やはり見応えがありますね。帰り際に鳥居そばの寛政十一年(1799)「道陸神」も見ておきましょう。
109-2千勝神社
香取神社前の湖岸沿いの道を200m西進すれば、手賀沼親水広場の前に狭い敷地の千勝神社があります。

市史によると元禄二年(1689)の水神社に始まり、昭和54年の沼べり道路開通で移転修築されたとあります。フム、だからえらく立派なんだと妙に納得できました。『千勝は「せんしょう」とも聞くが神社辞典に「千葉茨城に多い千勝(近津=ちかつ)神社の祭神は云々」とみえるので「ちかつ」と称してよいと思う』と記載があります。どっちだろう?
左端:昭和8年出羽三山碑

境内には明治29年常夜灯に始まり昭和年代の伊勢講碑などが並んでいます。写真左に見えるのは昭和8年出羽三山碑(正面)四国八十八箇所・西国坂東秩父百観音(側面)を刻んだ石塔です。
千勝神社から西進400mで手賀大橋のたもとの若松交差点です。右折して県道8号を北上し国道356号線との交差点が消防本部前信号です。
109-3消防本部前の子の権現燈篭道標
区画整理された交差点の国道356号線成田街道南側歩道に、「子大権現道」と記した六角柱の燈籠が立っています。
前方は成田方向です

高さ2.5m程の道標をかねたもので寛政十二年(1800)造立です。ちょっと珍しい燈籠ですね。子の権現は子之神延寿院といい元はこの成田街道沿いにありました。今は移転してこの地点の400m南南西に位置します。「武江年表」に安政三年(1856)深川に出開帳した記録もある足腰に霊験効能の信仰あついお寺です。これは次回に記載しましょう。
109-4最勝院の石仏
国道356号成田街道を成田方向へ500m東進すると真言宗豊山派最勝院があります。古老伝説で天正二十年(1592)創設といわれ、小林一茶「七番日記」の記述には文化七年(1810)3月27日最勝院に立ち寄ると大師詣で賑わっていたとあるそうです。当院は安永五年(1776)に新四国二十七番土佐神宮寺写しの霊場札所となっていて大師堂が整っていました。
山門を入って右に新四国札所搭に並んで2基の石仏です。中央が貞享元年(1684)十九夜念仏・如意輪観音塔でその左が文政八年(1825)子育地蔵です。ブロック塀を右に入れば墓地となります。宝暦十二年(1762)六地蔵の後ろにいるのは種子キリークを大きく頂いた元文四年(1739)十九夜如意輪観音塔です。
写真左奥に見えるのは昭和35年子育地蔵ですが、子供が裾に纏わりついているような構図です。見ておいて損がないのが下の写真の十九夜の如意輪観音像です。
左右の腕は彫抜きで見事
渡邊家墓所に延命地蔵など3基で祀ってありますが、左端が寛文十一年(1671)十九夜如意輪観音搭となっています。麗らかなお顔ですが、一の腕が彫り抜きで見事です。お顔に近づけた掌の位置も微妙で反手?今風で言えばナイスバディの観音様というところでしょうか。

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2011/05/25

108 北総石仏 我孫子の石仏 根戸・台田

この地区は柏市と境を接し、市制施行時に境界が再三変更された経緯があるそうです。国道6号線水戸街道の北に位置しています。文政七年根戸村明細帳には、東陽寺と市内唯一の日蓮宗妙蓮寺の二ケ寺が記載されています。
108-1 東陽寺墓地の石仏
東陽寺は真言宗豊山派のお寺で開基開山不詳ですが、宝篋印塔や写本から17世紀には相応の寺院であったとか。当寺は妙見社(後出の北星神社)・牛頭天王(八坂神社)、白山大権現などの別当であったと文政七年根戸村明細帳に記されているそうです。

さて、石仏は東陽寺と道を隔てた墓地の入口通路沿いに祀られています。合計11基並んでいますが右端が墓搭なので都合10基の石仏です。奥のほうにも丸彫地蔵が見えています。
左から2基は延宝八年(1680)・延宝三年(1675)の十九夜念仏如意輪搭です。次の3基は庚申塔が並んでいます。安永八年(1779)青面金剛尊搭、元禄二年(1689)三猿庚申供養搭、延宝七年(1679)笠付三猿庚申供養搭です。正面の大きな百観音巡拝搭は大正8年の造立です。その両脇が大正十一年・昭和26年馬頭観世音搭でさらに寛政十二年(1800)馬頭観音・万延元年(1860)普門品搭となっています。
延宝八年十九夜塔は返手如意輪観音

奥に見えるのは錫丈を無くした享保元年(1716)地蔵趺座像です。庚申講・地蔵講・念仏講の寄進で建立されました。下の写真をご覧ください。
六地蔵・大師搭や墓搭が並びます
墓地に進むと無縁塚に石仏が合祀されています。寛文十年(1670)阿弥陀如来搭と塚頂に宝暦六年(1756)地蔵種子搭が載っています。
寛文十年(1670)阿弥陀如来搭
右正面は地蔵種子カの下に梵字真言
108-2東陽寺前白山さま
東陽寺の墓地に隣接する雑木林が白山社があった所。道路からの石段がなければ、それと気づきません。朽ちた社の周りに石仏が散在しています。
手水石・湯殿山大日如来・愛宕山大権現・三猿庚申塔
見かけない石仏や珍しいものがあるので紹介しておきましょう。下の写真は木造の葬頭河婆像です。白山さまにあった堂宇の壁に祀ってあったようですが、今はこの有様です。一般に脱衣婆(だつえば)ともいわれ、閻魔大王の妻とも俗説されるお方ですが、見る影もなく哀れ。
葬頭河(そうずか)で亡者の衣服を剥ぎ取る姥
宝暦五年(1755)金剛界大日・湯殿山三度登山(供養)碑とは珍しい文言です。
安永二年(1773)愛宕山大権現は地蔵像を刻んでいて珍しいものです。
地面に横たわっているのは文政六年(1823)聖徳太子孝養像・文化十年(1813)馬頭観音・ 明治10年黒駒稲荷大明神です。黒駒?稲荷?
108-3 妙蓮寺
白山さまから100m東進すれば我孫子市内唯一の日蓮宗寺院・妙蓮寺です。

参道左に熱心な日蓮宗徒・加藤清正を祀った文政七年頃の創建・清正公堂があります。又、入口塀際に「妙法 馬頭観世音」「妙法 弁財天」「三十番神宮稲荷大明神」の石碑・石祠があって日蓮宗の主張が顕著です。
左:三十番神稲荷大明神 右:馬頭観音・弁財天石塔
このお寺には京の名工=仁阿弥道八作の陶製仁王像・三十番神像などもあって南北朝期建武年間創立といわれる由緒が偲ばれます。
108-4 北星神社
国道6号をはさんで妙蓮寺の南西200mのところに北星神社があります。相馬根戸城主が妙見菩薩を勧請したことに始まりますが、明治の神仏分離令で天御中主命を祀って北星神社に改称しました。昭和58年の鉄筋コンクリートの社殿に、天保四年刻銘の石積基壇に立つ旧来の木造社殿を収めているそうです。
国道6号に面した歩道に、 いずれも自然石型の安政四年(1857)庚申塚と嘉永四年(1851)庚申塔がで立っています。写真のお堂内石祠は不明です。
 境内に入ると亀趺が4基も置かれています。天保十三年(1842)一対と昭和59年改築時の一対です。
天保十三年の亀趺
本殿左の際に長屋式で10基の石祠石神が祀られています。
左から香取・八坂・・と続き右端は不在
 左から明治41年香取神社・明治37年八坂神社・嘉永六年「魔王第陸天」・文政四年吾妻大明神・明治41年天神社・三峰神社・明治37年金比羅神社・明治23年不動明王・明治41年稲荷神社・文政十三年待道大権現となっています。
魔王第六天搭

天神は石像を存置

明治23年搭・矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)付
本殿の右側は十九夜塔・二十三夜搭・山神宮・庚申塔・馬頭観音・疱瘡神・筑波山雨宮供養搭・伊勢講碑などがずらっと並んでいます。
文化・文政期以降の比較的新しいものばかりですが、物量で圧倒されてしまいますね。


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2011/05/16

107 北総石仏 久寺家(くじけ)

ゴールデンウィークはパソコンが故障し散々な休日になりました。パソコンを修理に出すと怠け心が忍び寄ります。備忘録としてのブログ作成がおざなりになってしまいました。心の弱さが身にしみます。あと少しで我孫子も終われるのですが。
107-1 宝蔵寺の北向不動(庚申塔)

真言宗明王山宝蔵寺は国道6号線水戸街道の久寺家信号を500m北上した高台にあります。台地の突端、久寺家城二の郭址に位置し手賀沼が望める景勝の地であったようです。寺伝に元和三年の(1617)創建、宝暦三年(1753)銘の半鐘があるお寺です。相馬霊場では地形が四国の屋島に似ているところから、第八十四番讃岐国屋島寺移しとされています。
車道から山門を入ったところ
 左から上がっていく車道を進むと、右手に六地蔵、山門を入った左の築山のような塚上に石造物がオンパレードしています。樹木の陰にも安永八年(1779)新四国道標明治9年月山・百観音巡拝碑などが寄り集まっています。築山を回りこんだ先の大師堂には天保十五年(1844)大師像なども。
それでは北向不動に向かいます。山門を戻るように進むとその途中に十九夜塔や出羽三山碑・普門品供養塔が並んでいます。
中央左が寛文九年・右は元禄十三年の十九夜塔
寛文九年(1669)は反手の如意輪観音
さらに進むと元禄九年(16969三猿庚申塔・平成9年馬頭観音塔・昭和9年百観音巡拝碑などがあります。その隣の覆屋には延享二年(1745)馬頭観音塔が祀られています。
左が平成9年馬頭観音塔、右が三猿庚申塔
 回り込んで進むと、明治39年待道大権現石祠が社地を構えて祀られています。そしてたどり着いたのが北向不動尊の表札をかけた庚申塔です。

立派な享保四年(1719)数珠持剣人型青面金剛塔がなんでこうなっちゃったんだろうと不思議です。台石にも三猿がついていますし、お不動さんにするには何か由来があるかもしれません???
17-2 鷲神社の庚申塔群
宝蔵寺から200m西進し細いT字路を下る鷲神社(おおとり)があります。

我孫子市史によると平将門の家臣久寺家豊後大炊左馬助が勧請したとの由来あり、元文二年(1737)万延二年(1861)昭和53年に社殿が造営されてきました。現社殿は平成6年に新築された5本の鰹木をのせた現代的なお社です。
左右の神使は鷲となっています


大正三年に下居村附の明治41年香取社・上居村附の八坂神社・神立台の明治26年雷社を合祀しています。又、天保九年山神・昭和53年水神・文化二年石尊大権現・明治27年久寺家祖神・大杉大明神・昭和2年天満天神・今宮社・宝永四年二十三夜様・大正14年尾鑿賀蘇山神社なども祀られています。狭い敷地の本殿周りに神々の大集合というところでしょうか。
さて、石段を上った参道の左右に庚申塔の勢ぞろいです。
左側6基の庚申塔、右には馬頭観音や3基の庚申塔
参道左は手前から文政十三年(1830)・寛政六年(1794)・宝暦九年(1759)の青面金剛文字塔が並びます。元文五年(1740)のショケラ持六臂青面金剛像塔・天保十年(1839)・弘化五年(1848)青面金剛文字塔の6基が並びます。久寺家中学校裏から移設されたものです。
元文五年塔ショケラが重そうです
参道右は、10基の石仏が並んでいます。手前には紀年不明の馬頭観音塔があります。


側面に「南無大悲馬頭大士・志馬畜類祓?苦引導」を刻んだしっかりしたものです。明治19年自然石型文字庚申塔は台石に三猿が居ます。文化九年~明治19年まで文字庚申塔・青面金剛塔が6基並んでいます。お猿さんなど気になるものを載せておきましょう。
慶応四年・文字庚申塔の見・聴猿は片手の仕草
安政五年塔は扇子・桃?持ちでしょうか。
明治19年庚申塔の三猿は足ブランコみたいです
本殿を取り囲むように先述の合祀された神々が祀られています。その一角で覆屋の中に三夜様と呼ばれる宝永四年(1707)勢至菩薩様がおられました。すっきりと出来のよいお姿です。
又、伊勢講碑・敷石供養碑など8基が造立された一角に明治44年庚申供養塔が立っていますが、裏面に庚申講で石橋架橋を記念しています。
後列右端が明治44年庚申供養塔
 じっくりみてもたくさんの楽しみがある観仏スポットでした。

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