2009/11/29

59北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅴ(片山)

57手賀地区で取り上げた兵主八幡神社から西北へ向かえば、隣接する片山地区に入ります。

59-1南蔵院の石仏 兵主八幡神社から約800M進み片山青年館がある細長い境内が南蔵院です。手賀興福寺の隠居寺として14世紀の創設と見られるそうです。西向きの参道からお参りしましょう。山門(石柱)傍に「山門不幸」の立て札があります。不勉強で分かりませんが、禅宗のお寺ではないのですが禅でいうところの公案(禅問答)の一種なのでしょうか?参道右手の道路沿いに境内を向いて石仏が並んでいます。72番大師堂を挟んで手前に昭和13年~昭和46年までの7基の弘法大師講供養塔(南無大師遍照金剛)が立っています。大師堂の先は写真のように石仏のパレードみたいになっています。手前は開敷蓮華を持つ丸彫りの地蔵(比丘形)?のようですが見かけないフォームですね。隣は新栄講中と彫られた明治7年の不動明王坐像塔ですが、像容がかなり傷んでいます。次に十九夜像塔3基・十九夜文字塔1基・子安塔1基が並んでいます。元禄年間のものがあるので結構古くから十九夜念仏の形式で女人講が盛んだったようですね。像塔を載せておきましょう。
天明三年十九夜
明治41年子安塔
元禄十年十九夜
宝暦十四年十九夜
宝暦塔は頭部の種子がサ(観音)に涅槃点がついた種子サク(勢至菩薩)となっていて変だねえと、沼南町史金石文Ⅰで指摘しています。

59-2ヨタイ観音堂
地図上は十左エ門観音の表記になっていますが正しくは重左衛門でしょう。何故なら敷地は重左衛門家の所有であり、観音・観音堂の施主は村田重左衛門であるからです。石段を上った窪んだような敷地に簡素な祠堂といくつかの石塔が置かれています。
ヨタイ観音堂
出羽三山・百番塔
宝暦二年西国三十三所額
文化十二年光明真言塔
祠堂の右に見える石塔は万延元年((1860)出羽三山西国秩父坂東供養塔と大正3年普門品講中造立「故村田重左衛門之碑」が並んでいます。他に文化十二年(1815)百万遍讀誦塔が延命地蔵墓塔と並んでいたりします。
さてヨタイ観音とは西国33観音+花山法王像=34体あるところから≒ヨタイ観音といわれるようになったそうです。お堂の額に赤く宝暦二年(1752)とあるように西国33観音巡拝記念に重左衛門家が施主になってこれらを造立したものです。大工作兵衛、石工庄左衛門と堂内に石碑があるそうです。実は窓から撮らせていただいたのですが石像の迫力に絶句ですね。いつか正式に許可を頂いて観音様のお姿を公開できればと思っています。尚、花山法王が加えられているのは西国観音霊場めぐりの創設者だからでしょう。

59-3手賀の丘公園の石仏Ⅰ
片山から手賀の丘公園正門へ向かう途中道路で丁度坂の上がり端右側に、手作りの木製鳥居になにやら石祠が祀られています。碑面から何も読み取れませんが、テキストにある道祖神祠でしょうか。それらしくご利益がありそうに二股大根がお供えしてありました。

59-4手賀の丘公園の石仏Ⅱ(道標)
さて、手賀の丘公園は片山・泉地区にまたがって昭和62年に開園された総面積24万㎡(うち3万㎡が運動施設)の公園です。開発中で残された石仏石塔がいくつか遺存していますが、目立たなかったり園内の林に入り込まないと見つからないものなどを見てみましょう。
手賀の丘公園正門を過ぎて北上した先に公園へ入る職員用・作業用の道路があります。曲がってすぐの道路際に道標と文字子安観音塔と勢至菩薩塔が目立たない風情で立てられています。明治16年子安観音塔は車にぶつけられたのか痛々しいですね。右側面に「松戸泉柳戸」左側面「船橋鎌谷富塚」と道標も兼ねています。こちらは明和二年(1756)勢至菩薩塔で日蓮系の影響でしょうか「南無勢至菩薩」と刻まれています。側面は「右ハ上柳戸道」「左ハ行徳道」となっていて矢張り道標も兼ねています。この大正12年道標は本格的に「手賀布瀬並ニ湖北取手道」と正面に刻み「→役場・柳戸・泉・柏道」「←名内橋・白井道」表示があって今で言う道路標識機能をしっかり果たしていたようです。

59-4手賀の丘公園の石仏Ⅲ(御嶽神社と千庚申塔)
手賀の丘公園内から目指すには外の道路と平行に林の中を東へ150m程進んだ所に御嶽神社があります。公園沿いの道路からですと東方から坂を上り、コンクリート製擬木柵が始まるところが参道状になって下の写真の小道に続きます。お社は無くて擬木鳥居の先の高みに明治11年自然石型御嶽神社碑があるだけです。写真のように台石に万人講の表示がある石灯籠は明治17年造立、右手前は昭和34年御嶽参拝紀念碑が立っています。御嶽神社碑の傍に割れた八海(山)塔があります。やはり修験道の流れでしょうね。鳥居の傍らに高さ2.5mの角柱御嶽塔が立てられています。明治15年「御嶽山供觀社供養塔」で塔身に驚くほど多勢で且つ広範囲な村の名前が載っています。沼南町史金石文Ⅱで調べると110箇村余りの村々から一千人を超える人名が刻まれています。我孫子55名、増尾50名、布施37名、大井35名、高柳34名など、手賀沼に面している現在の市町村で大字・小字に残る地名の村々や遠くは上総東金1名も載っています。これだけの(多分)寄付を募った事業の跡が今や無残な姿になっていることが不思議です。社も朽ちたのか見当たりませんし参道も公園事業で完全に破却されたとも思えません。いろんなガイドにも引用も無く一体この御嶽山信仰は何だったのでしょう?
この跡地の傍に木祠があって、一見すると不動明王のような年不明青面金剛塔と石祠が安置されています。青面金剛塔は下に三猿を刻んでおります。テキストによると文政十一年(1828)の造立です。左側面にも千庚申供養塔と刻まれ由緒があったのでしょうが、今は参る人も限られ寂しい限りです。
59-5手賀の丘公園の石仏Ⅲ(庚申塔群)
公園正門から西に伸びる通路を200m程進んだ所に二列の庚申塔16基が並んでいます。青面金剛像塔2基・文字青面金剛(王)塔3基・文字庚申(供養)塔が11基の構成です。公園に行かれる方もあるでしょうから特徴あるものを載せておきます。像塔・江戸前期早い時期の庚申塔・現代版庚申塔・三猿色々です。
宝暦八年(1757)
安永七年(1778)
元禄二年(1689)
寛政六年(1795)
昭和41年設置?
寛政六年・右後ろ向猿
文政九年・左冠猿
弘化四年・右端隠れ猿
安政四年・左手付右手延
天保八年・右見上げ猿
園内は他にも筆子塔や光明真言+出羽三山+百八十八所巡拝塔など林の中に点在しています。散策時に探してみるとのも楽しいものですね。

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2009/11/20

58北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅳ(柳戸)

手賀の集落から県道印西・柏線に戻ります。信号のあるY字路から西へ行けば柳戸(やなど)地区となります。200mほど進むと東武バスの一ツ井戸バス停があります。一ツ井戸は県道から南下へ降りたところのT字路傍に東屋風に保存されています。崖上の下柳戸集落では男子が朝野良仕事に出るときは天秤棒に水桶を提げて一ツ井戸において置き、昼食時・帰宅時に水を運び上げた辛い歴史のある所だそうです。「下柳戸には婿にやるな」という俚諺もあったとか。(沼南町教育委員会・沼南の歴史をあるく から参照引用)
柳戸には昔、手賀沼の渡し場があって”柳渡”と称したとか。柳のたくさんあった岸辺なのか、柳のように細長い水路が通っていたのか「柳の渡」≒「柳戸」に転化したと考えられていると「沼南風土記」に書かれています。

58-1下柳戸の花見堂地蔵
バス停の石段を上れば高台となって下柳戸の集落です。この石段の左側に寛延四年(1751)花見堂地蔵尊と刻まれたかわいいお地蔵様がおられます。花見堂地蔵については房総石造文化財研究会の会報60号で沖本会長が「房総石仏ノート・・花見堂地蔵のこと」と寄稿されています。唯、この石仏は11月吉日建立で三月で無いのが不思議。
少し離れたところに「大師道四国八十八ケ所 南蔵院四丁六間 (弘)誓院六丁四間」と刻まれた明治11年の道標がおかれています。

58-2六所神社
石段をあがって村道を100m進めば六所神社の参道となります。写真のように参道手前に昭和36年石灯籠、右が万延元年(1860)・左文化十五年(1818)の庚申講中で造立です。トタン葺の質素な社です。右手前にみえる木祠には天明五年(1785)天満宮石祠が祀られています。社の左に注連縄の張られた区画に年不詳の大杉大明神石祠が祭られていました。信仰が活きているなあと感じた次第です。沼南町史金石文Ⅰのテキストに記載がある宝暦八年(1758)成神大明神(雷神)石祠は写真を撮り洩れたようです。(残念)

58-3阿弥陀堂の十九夜塔
六所神社の西隣が阿弥陀堂です。今は集会所があってその奥に墓地が広がっています。集会所の裏の一角に女人講中の台石にのった子安塔などが数基集められています。写真の前列子安塔は左が昭和7年、右が明治16年の造立です。後列は5基の石塔ですが写真中央に見える文字塔は墓塔なので除外してのこり4基を左から載せておきましょう。延宝五年(1677)塔が古くてつくりはしっかりしていますが、私の好みでは宝暦十三年(1763)塔の清楚な感じがいいですね。
宝暦十三年十九夜
元禄元年如意輪
年不明十九夜塔
延宝五年如意輪
ちょっと余計ですが、平成八年に54名が参加した観音霊場巡拝供養塔が立てられています。会津・那須・中国・下総・津軽となっていて結構盛んなんだと関心しましたね。普門品講中の主導ですかね。

58-4街道脇(柏5方面6分団消防小屋前)の庚申塔
県道までもどります。一ツ井戸バス停から250mほど西進すると薄暗い木立の中に北側高台道路沿いに9基の石塔群です。写真の左奥木の陰に隠れて分かりにくいですが、向かって左から大正3年出羽三山塔・小さな安政五年(1858)第六天石祠・缶ビールが供えられた明治16年三猿付文字庚申塔・木の右側に文化八年(1811)三猿付文字青面金剛塔・正面が寛政七年(1795)大青面金剛塔・白い板碑型享保十三年(1728)文字二十三夜塔・昭和7年三猿付文字庚申塔・写真からはみ出た宝暦九年(1759)三猿付アーモンド型ショケラ持青面金剛像塔となります。そして少し離れて金属製の赤い鳥居を前に置いていますが実は馬頭観音と思われる石塔が祀られています。後ろの白い建物が消防小屋となっています。ここが村境だったようですね。

58-5弘誓院(ぐぜいいん)の御手水石(みたらし)
第33番下総観音霊場で「柳戸の観音さま」と呼ばれる真言宗豊山派のお寺です。手賀の丘公園の信号から200mほど西進し右に集落へ下る道をとります。熊野神社の前を通り大銀杏のある広場が弘誓院です。大同年間(806~10)行基の開創、本堂は寺伝で寛永四年(1627)造営の立派なもので、振り返れば石段高く鐘楼があります。行基自刻の秘仏本尊・聖観音像は60年に一度の開帳で前回は昭和46年(1971)だったので次回は2031年となるようですが、信人は拝めるかなあ。ガイドブックには伝・伝教大師作の延命地蔵(本堂の普請費用を集めるため陀羅柄杓を担って檀信徒を廻り夢枕に立たれた有難い地蔵さんです)、屋根裏から出てきた500年前の法華経版木、弘化四年(1847)の間引き絵馬など石仏どころではない気もしますが、とにかく観てみましょう。
この寺前では昔から朝市が盛んでその関わりでしょうか、明和二年(1765)商人講中と刻まれた御手水石(みたらし)があります。珍しいですね。並びに足先まで綺麗に刻まれた丸彫りの如意輪観音像が置かれています。写真の後方に赤い太鼓橋が見えますが、そこは弁天池になっていて橋を渡った所に平成元年の弁財天が祀られています。
大師堂と地蔵堂の間に不動明王像が2基、左が明治26年で右が正徳二年(1712)で明治12年改刻となっています。本堂前におびんずる様というのでしょうか、田舎の和尚さんのような木像が置かれていました。
道路を挟んだ墓地の一角に4基の石塔があります。貞享四年(1687)十九夜念仏塔、明和七年(1770)十九夜塔、天保八年(1837)二十三夜塔(1837)、年不詳文字馬頭観音塔が道路沿いに並んでいます。境内のあちこちに四国巡礼供養塔・百観音巡拝供養塔・文化十年(1813)札所石新四国31・33番などが潜んでいます。高い石段を上って鐘楼の鐘を見学し境内を見下ろすのも気持ちがいいものです。帰り道に柳戸の鎮守である熊野神社にお参りして行きましょう。伊勢内宮と同じ柱に転びの無いシンプルな大正3年神明鳥居の奥に質素な拝殿ですね。柱の陰に文政二年(1819)石灯籠・文久元年(1861)常夜灯が隠れています。
これにて柳戸はおしまいですが、手賀中学校に昭和12年二宮尊徳像(薪を背負い読書像)があるのを知ったのでいつか写真をゲットしたいですね。

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