2013/03/31

152 船橋の歴史散歩 二和・三咲

だんだん支離滅裂になってきたようです。北総二百仏は房総安房国の石佛20基弱を残すばかりになりましたが、自宅からの遠さと寒さに怯み足踏みしています。代わりに自宅近辺を巡ることで気休めになろうかと、地元をちょこっと巡ってみました。
テキストは宮原武夫編著「船橋の歴史散歩」の2章12「二和の開拓農民の歴史を訪ねる(滝不動駅)」、13「三咲の開墾の跡を歩く(三咲駅)」です。
152-1 二和の勢子土手
船橋市は東京から直線距離は約15km に位置します。南は海岸に沿って京葉道路が走り北東に伸びた「ノ」の字型の地形です。ノの字の中ほどに江戸幕府が運営した小金牧が横切っています。
野馬土手の解説板、年1度追い込んで新生馬に焼印を押したとの記載
小金牧では下野牧を3本の勢子土手で4分割して野馬を追い込んで行ったそうです。その野馬追込みの土手の名残が二和小学校の南側に残っています。
二和小学校の敷地南側道路に勢子土手が約500m続きます
これらの野馬は1.5kmほど北に位置する咲が丘小学校周辺の「大込」に集められました。大込(捕込=とっこめ)とも呼ばれ、捕獲のために集められた場所ですが、その追込の土手の名残も下の写真でかろうじてうかがえます。
右に進むと咲が丘ファミールハイツ、左方の畑地に先に木下街道が続きます
この地域は倒幕後の明治2年から開拓が始まったので 石仏もそれ以降に建立されたものになります。随って数は少ないですね。
152-2 星影神社の庚申塔
二和小学校の400m北西方向に、星影神社が祀られています。名前はロマンチックですが由来は現実的な説から出ているようです。一つは二和開拓請負人星野清左衛門に因む説、他方は明星夜星で野に働くとの由来だそうです。
木造の星影神社、元は稲荷社の記載
神社境内で参道右手の玉垣沿いに、庚申塔と馬頭観音の石佛が祀られています。3基の文字庚申塔と4基の馬頭観音塔です。
写真左枠外に大正7年庚申塔と大正8年の小さな馬頭観音塔があります
上の写真は左4基が馬頭観音、右1基が文字庚申塔です。真ん中が明治41年馬頭観音です。あとは大正9年や昭和9年といずれも新しく、明治2年からの開拓地が石塔を祀る余裕ができるまでに掛かった歳月がしのばれます。写真右の欄外にも道標を兼ねた庚申塔があります。右側面に「右神保新田道、左八木ケ谷道」左側面「右舩橋道、左御瀧道」と刻まれどこからか移設されたようです。
境内にはお堂に祀られた大正7年子安塔や二十三番・四十二番吉橋大師堂などもあります。境内からは東京スカイツリーの展望も得られる閑静な神社でした。
152-3 御瀧不動の石造物
こちらは地元で滝不動と呼ばれる、桜の花見どころでも有名なお寺です。正式名称は御滝山金蔵寺(おたきさん こんぞうじ)と呼ばれます。
縁起など詳しくはWikipediaでのリンクをご参照ください。本堂・天井絵画や絵馬などが飾られています。 本堂前右手に独特の形をした「御瀧型灯篭」
が展示されています。
横幅の広い独特な形の御瀧型灯篭、右は紀年不明の不動明王塔
御瀧山縁起由来にある「不動明王木像」掘り出しの跡から湧き出た清水が今でも水垢離場として残っています。
水垢離場には柄杓の備えもあり、近隣の人が水を汲みにきます
龍頭の上には、左に制吒迦童子・右に矜羯羅童子を従えた不動明王
(青銅製)がおられます。
不動三尊と手前には倶利伽羅不動塔
水垢離場の水出口の上にも出来の良い倶利伽羅不動が祀られています。
剣に巻きついた形がリアルです
湧き出た水は境内の辨天池をへて、海老川の源流となって海に下っていきます。境内には明治15年馬乗馬頭観音(残欠)や四国八十八観音写の弘法大師像なども存置されています。
152-4 御瀧中学校の石灯籠
御瀧山に隣接して御瀧中学校があります。正門入って右に小さな石灯籠があります。嘉永五年の道標を兼ねた宮前型石灯籠で500m離れた金杉三叉路から移設されたものです。
「右 大わだみち、左 滝ふどう 大もり道」と道標になっています
152-5 猪見塚・仙元神社の石佛
滝不動の南東600mに御滝グリーンゴルフ場があります。その敷地西側に隣接して仙元神社参道が伸びています。参道脇に平成16年移設した自然石型庚申塔が祀られています。
ゴルフ場に沿った参道と手前右に△型の庚申塔
進めば小高い塚上に石段が伸びてプレハブの集会場と覆い屋に浅間様が祀られています。
石段左に昭和44年「南三咲開墾百年記念碑」
ガイドによると、幕末牧の図に「御立見塚」の表示があり八代吉宗が小金原鹿狩りの際に作られた猪見塚の跡地とされています。開拓地になって当初は神明社で、その後富士講が盛んになって仙元大菩薩を祀るようになったとか。境内は強風を避けるためか灌木に囲まれています。
灌木に囲まれた境内。正面トタン葺の覆い屋と石灯籠、灌木の切れ目が石段上がり口
太い杓持?の子安塔、素朴な表現と大きな乳首が印象的です
152-6 三咲二丁目交差点の庚申塔・道標
新京成線三咲駅の南側を県道288号線が横切っています。踏切すぐのところで道路がX字状になった信号交差点があります。角の一角に庚申塔が5基祀られています。
すべて文字庚申塔です。左から明治34年道標付、明治33年、昭和4年、昭和43年、奥に平成六年のいずれも文字庚申塔が立てられています。この地は余地が少ないのか寄せられて窮屈そうでお参りも不自由ですね。
152-7  三咲五丁目の辨天社(ガイドには所在不明の記載ですが)
踏切を超えて288号線を進み、三咲駅近くの中組入口バス停から南に下った右手下に辨天社の木製鳥居が見えます。道路からコンクリ階段を下りた湿地の鳥居の先に、簡素なお堂に2基の石碑です。
お堂内、左が明治8年大弁財尊天、右に福弁財尊天の大きな石塔
江戸牧の図に亀甲羅清水・槌作水呑と言われた野馬の水飲み場であったらしいですね。
152-8 三咲稲荷神社の石造物
県道288号線に戻り1.2km東進します。T字交差点を過ぎたところのパチンコ屋ゴールドセブンの隣が稲荷神社です。
東京下町の大名下屋敷の稲荷を勧請したとガイドに載っています。
長い参道、右側子安塔のお堂や44番吉橋大師のお堂が並びます
明治21年の子安塔、彫はいいのですが才槌頭の赤子と母親の顔が怖い
他には明治38年吉橋大師講碑、昭和40年芝山仁王尊・三峰参拝碑、昭和43年三咲百年記念碑など、村民が歩んだ信仰遊山・余力ができ始めた時代の移り変わりを遺しています。
余談ですが、ガイドブックの著者は開拓百年の経緯を追って「記念碑」の記載に農民の闘争史が省略されていると指摘しています。明治期の資本形成の一過程であり、政治的にも歴史学的にも記載には賛否両論があると思います。



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