2011/12/23

127 北総石仏 柏の石仏 布施Ⅱ

柏市の北東部、利根川の堤防沿いに広がる水田地帯が布施下・弁天下の字を持つ地域です。布施弁天東海寺やあけぼの農業公園があって柏市民の憩いの場としても有名です。この地の詳しい解説は柏市富勢地域ふるさと協議会HPを参考にさせていただきました。
127-1 布施下の大師堂
布施弁天へ向かう手前に、「布施弁天安産不動明王・新四国第六十七番札所・大日如来・薬師如来」の表示があるお堂が並ぶ所があります。地図上は大師堂として表示されています。
左が安産不動明王の祠で隣に大師堂が続き、正面は大日如来堂、右に薬師堂と並びます
 安産不動明王の能書きは、出産のお守りや婦人病平癒の霊験あらたかと謳っています。お堂の内部には火炎向背のついた不動明王(紀年不明)が祀られています。
紀年不明の不動明王石像と銅像が祀られています
不動明王の社の後ろに三体の大師像が並ぶ大師堂が建っています。

次に参道正面に位置する大日堂には、胎蔵界大日如来と金ぴかの地蔵菩薩が祀られていました。
ガイドによると天和三年(1683)大日如来石像のようです
 隣の薬師堂の内部も載せておきましょう。
床置きの花瓶のそばに木製の陽物(まだれ大神との表示)が置かれています
石仏は見当たりませんが、左右のひな壇に6体ずつの彩色された十二神将(土人形?)が祀られています。ちょっと覗き見趣味でイケマセンね。
さて、石仏ですが薬師堂の右に百庚申と一緒に庚申塔の集団が祀られています。ひな壇を囲むように側面にも庚申塔が並んでいます。
写真手前の三角形の青面金剛塔は文久二年(1862)、基壇左手前の角柱庚申塔は天保十二年(1841)、手前右は文政十三年(1830)の庚申塔です。百庚申塔は基壇正面の寛政十二年(1800)「百庚申百箇度参大願成就攸」石塔に刻まれたとおり、60年に一度の庚申歳十月十庚申日の奉納となっています。元はあけぼの山(桜山)にあったものを移転したものです。
基壇上には百庚申以外の庚申塔も集められています。正面3基の像塔は碑面が荒れていて読み辛いですが、左は享保四年(1719)・中央は延宝三年(1675)・右は紀年未読となっています。
並んだ石仏の中に紀年不明の「龍神」石祠があります。
「龍神」は初見ですね

敷地のあちこちにも石塔が散乱しています。道路沿いの柵内で松の陰に「青面金剛大明神」と刻まれた丁卯初冬造立の石碑があります。新しいので慶応三年(1867)と推定されますが、大明神は初見ですねえ。
 
大師堂敷地の西側は整地されています。敷地の北側に、各種石仏がならんで祀られています。

石仏は9基見えています。

写真右のほうに見えるのは三角形自然石型の明治20年「観世音」菩薩碑です。両脇は文政七年(1824)・天保九年(1838)の弐十三夜塔です。中央正面は大正13年「大山阿夫利神社」碑と両脇に天保二年(1831)三峰山神社石祠・文政十年(1827)尾鑿山大権現石祠ですね。残りは稲荷大明神・山神宮石祠などがあります。
127-2 布施弁天・東海寺

関東三弁天のひとつと言われる布施弁天は東海寺という真言宗のお寺の本尊に祀られています。ちなみに残りの弁天とは、江ノ島・上野不忍池の弁天様といわれています。
詳しい内容は紅龍山布施弁天東海寺のHPをご覧になるといいでしょう。
弁天様にちなんだ海のイメージがら竜宮造りといわれる楼門の脇に、弁天様と当寺の所縁の解説板が立っています。
楼門の裏に四天王が祀られています。持国天(東)増長天(南)広目天(西)多聞天(北)ですが詳しい役目はWikipediaをご覧ください。多聞天=毘沙門天と、奥さんが吉祥天というのは初めて知りました。
境内を奥に進むと文化十五年(1818)の棟札をもつ鐘楼があります。八角形の石積基壇・円形の縁・十二角形の柱・銅版葺入母屋造り・軒下の十二支彫刻など特色のある千葉県指定文化財です。
八角縁の下にも、唐子遊びを配した縁起物の彫物が見事です。
だるまは雪だるま(冬)なんですね
甕の中に落ちた仲間を甕割で救ったお話です
 司馬温公甕割の図(夏)は前回見たものと比べて如何でしょう。唐子の雪遊び(冬)も言われなければ気がつきませんね。他にも唐子の舟遊び・獅子舞など楽しい図柄が嬉しいですね。
本堂裏に廻ると 歓喜天・愛染明王・虚空蔵菩薩の小さなお堂が並んで建っています。その向こうに利根川沿いの水田と堤防が見下ろせます。

お堂のならびに辨財天石祠が祀られていますが、蛇のとぐろ巻きが彫られているのは珍しいですね。その前に丸い石片が数多く供えられています。「なんじゃらほい」と若い巫女さんにお聞きしたのですが「分かりません」とあっさりした回答でした。
東海寺の山門を下って左へ道をとると、北方の藪山に石祠が2基(天保三?・天保十三?)見えますが不明石祠です。又、鳥獣供養塔で川島正二郎の揮毫になるものも立っていますね。
川島正二郎は千葉県政界のドンで「政界一寸先は闇」の語録を残し、マツモトキヨシの創業者松本清県議を松戸市長に仕向けた張本人というのは面白いですねえ。
127-3 布施弁天傍の阿弥陀如来
山門を出て左(北方)へ回り込むように進むと、布施弁天の斜面草むらに赤い鳥居が見えます。その奥に小さな石仏がたっています。

よく見ると阿弥陀如来のようです。その傍らに元禄五年(1692)の銘を持つ「奉社参?・・・百箇日請願・・」「・・新木村・・」石碑があります。灯篭や狛犬の残欠もあるので昔はなにか祀られていたのでしょうか。記録も見当たらず、赤い鳥居が新しいだけにちょっと不思議なところでした。



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2011/12/08

126 北総石仏 柏の石仏 根戸・布施

布施地区は国道6号線の北にある利根川沿いの農村です。柏市になる前の旧富勢(とみせ)村は明治22年市町村令で、布施・根戸・宿連寺・久寺家・根戸新田・呼塚新田・松ヶ崎新田・柏堀之内新田の八か村が合併して出来たものです。富勢郵便局・小学校があるのがやっと頷けました。実は新村名を決める際に、最大の大村である布施と旧天領地で旧連合戸長役場時の親村である根戸が激しく対立したと「続柏のむかし」にかかれています。その大村の名残は石造物の多さに見ることができるようです。
126-1 根戸の駐車場内馬頭観音塔
国道6号線の台田交差点から県道7号を300m北進すると信号のある交差点です。その交差点の西側に小さな駐車場があります。駐車場の中程の木下に赤い鳥居が見えます。その隣に2基の馬頭観世音塔が祀られています。ちょっとお邪魔して拝観していきましょう。
左が寛政元年(1789)で右が文化十四年(1817)の馬頭観世音塔
2基とも宝馬を頂いています
126-2 富勢郵便局前の庚申塔
先ほどの信号から500m北上すると左手に富勢郵便局があります。押しボタンの横断歩道があって道路を隔てて向かい側に、むき出しで7基の庚申塔が立てられています。
 左から文化五年の文字青面金剛塔、文化十年六臂青面金剛像塔、文化六年・八年・?年不明・文化二年・天保十一年各青面金剛文字塔の計7基の庚申塔です。
歩道との境でうっかりすると見過ごしてしまいます
何か石の杭のように思われてしまうのが寂しいですね。みんな二百年近い歳月を耐え抜いた石仏なんですが。
126-3布施弁天入口の常夜灯
更に500m進み県道7号線の布施入口交差点を北東方向へ曲がると、すぐに変則三叉路となります。その三叉路の分岐に、布施弁天・東海寺の立看板と脇に大きな常夜灯が建っています。

常夜灯と立看板の間に道標が見えます
竿には文化七年(1810)布施辨財天と彫られています。側面に「筑波街道 是より十一り」「辨財天 是より十町余」と表示されています。元はこの先の大師堂にあったものを移設したものですが、この立派さをみると往時の布施弁天の賑わいが偲ばれます。
脇にある小さな道標は貞享(1687)「是より布せ??」と表示のある古いものです。
126-4 荒屋敷・南龍寺の石仏
先ほどの分岐から村道を約1km北進すると浄土宗南龍寺です。元和元年(1615)の開山で檀林東漸寺の末寺であったようです。

山門を入った左手に大きな4基の石碑が立っています。中でも玉垣上の自然石型石碑は釈迦三尊が線彫りされた珍しいものです。明治32年建立です。碑面下に「印土伽耶聖跡模」と標し150名以上の寄付によっています。村の団結の証でしょうか?
右の2基は昭和3年正観世音塔・善光寺参記念碑となっています。
更に 進むと墓地との際に、5基の石塔があります。
左から昭和?年・明治40年宝冠付文字馬頭観音、文政八年(1825)表面剥離不明塔、大きな文政二年(1819)徳本名号塔、天保十二年(1841)普門品供養塔となっています。
特異な書体の徳本念仏塔で下部花押に注目
 徳本名号塔は日本石仏事典第二版で「徳本念仏塔」の項目で記載されています。『・・宝暦八年(1758)紀州日高で生まれ寛政年間に6ヵ年大和山中で修行し修験的な能力を感得したといわれ「徳本行者」とも・・後、諸国順錫し念仏講を組成・・文政元年(1818)示淑し・・・自著の下に丸に十字の特異な花押・・鬼殺す心は丸く田の内に南無阿弥陀仏と浮かぶ月影・・・自筆色紙が墓所一行院にある』。徳本塔は白井市や旧沼南町に多かったので久しぶりの引用です。
126-5 布施の香取神社
県道47号守谷流山線を挟んで南龍寺と対称の西側に香取神社があります。布施会館(公民館)が目印です。道路に面した木立に石仏が散見されます。
左の建物が布施会館で、神社は木立の裏側にあたります
 上の写真左に庚申塔4基が祀られているのが分かります。左から文政三年(1820)文字青面金剛塔、寛政十一年(1799)六臂ショケラ持青面金剛塔、文政八年(1825)・天保三年(1832)文字青面金剛塔の4基で道路に向かって並んでいます。
右奥に神社本宮の覆い屋が見えています
 最初の木立の写真の右側に見えるのも小さな陰も庚申塔です。下の写真のように3基あって、左から宝暦九年(1759)・享保六年(1721)六臂合掌青面金剛塔・享保元年(1716)ショケラ持青面金剛塔となっています。
逆光補正をしているのでちょっと不自然かもしれません

これらの石仏は、資料では布施字天王山山頂(旧八坂神社跡)の所在となっています。移転されてこちらに落ち着いたようですね。他にも文政十一年(1828)大六天石祠、嘉永五年(1852)諏訪大明神、足尾山・白山大権現石祠などなど。参拝碑の伊勢講・大山阿夫利神社・三峰なども散見されます。いまや村の石造物の姥捨て山状態ですが、これでもよく守られているほうで貴重ではあるのですが。
ところで香取神社の写真を載せておきます。
天保十一年の鳥居、拝殿・本宮の裏が最初の木立写真のところです
神社の側面にすばらしい彫り物です。東都彫師 石川三之助信光と読めます。江戸彫物の典型ともいえるでしょうか。石川家は代々宮彫りで幕府官工(徳川家霊廟修理)であったとか。
黄石公と張良 額面右に彫師銘が読めます
黄石公と張良」の逸話は張良が辛抱強く黄石公に試されたお話です。Wikipediaをご覧ください。

猪早太 鵺(ぬえ)退治の図











司馬温公 甕割り図
2番目の写真は、二条天皇の病を治すべく源頼政が家来・猪早太を連れて鵺(ぬえ)退治をした話です。源頼政が射落とした鵺を猪早太がとどめをさそうとしています。鵺というのはこんな顔?
3番目は 司馬温公の神童伝説です。七歳の時、甕に落ちた友人を石で割って助けたお話です。
以上、「江戸彫り」HPを参考にさせていただきました。
126-6 善照寺の石仏
本堂脇の椎の木の先に六地蔵があります

香取神社の西にあるのが乾元元年(1302)開創の時宗・善照寺です。踊り念仏宗とも遊行宗ともいわれ盛んに活動したようす。一遍上人の像が置かれているのも珍しいですね。
説明を追加
善光寺式阿弥陀三尊銅像を有するなど、歴史由緒はみんなの富勢百科HPをご覧ください。
歴史ある割には石造物は少なく、貞享二年(1685)六地蔵、大正7年子育地蔵が目につくくらいです。本堂左に覆い屋のついた「宗門守護神熊野証誠殿」の社があります。その近傍にひっそりと3基の十九夜塔が祀られています。
左3基が十九夜塔で4基目は墓碑
 左から安永五年(1776)十九夜如意輪塔、延享二年(1745)十九夜延命地蔵、宝暦十二年(1762)十九夜如意輪塔となっています。
十九夜の地蔵塔は多くありません
 126-7 八坂神社と妙見菩薩
 善照寺の北100mに八坂神社があります。由来や祭神は「みんなの富勢百科」をご参照ください。
手前が妙見社で左奥白い建物が八坂神社です
古谷の妙見社は元文二年(1737)の古文書にも見え東海寺の管理です。元は移建された八坂神社後方にあったとガイドの記載です。写真のように綺麗に移建整地されてようです。
妙見社右の石像は享保十年(1725)勢至菩薩二十三夜塔で左が嘉永七年(1854)二十三夜文字塔です。
碑面が荒れて資料無しでは判別不能
八坂神社の裏に無縫塔(卵塔)などが祀られている一画があります。整地された折に移されたのでしょうか、石塔が置かれています。
手前左端の石祠は宝暦五年(1755)天神社
 上の写真正面に左右2基ずつに分かれて見えるのは、いずれも庚申塔です。左から宝永六年(1709)三猿庚申塔、寛政六年(1794)・天明元年(1781)文字青面金剛塔、元禄十一年(1698)三猿庚申塔となっています。
木立に隠れて見えませんが、別に3基の石塔が直交して並んでいます。
元禄十六年(1703)如意輪観音、元禄四年(1691)「石佛一躰六斎日供養」塔、元禄二年(1689)六臂合掌青面金剛塔となっています。真ん中の石塔はガイドでは庚申塔No.106に分類されていますが、三猿も付かず六斎日供養の文言もあるところから斎念仏供養塔でしょう。
布施の前半はこれまでにしましょう。
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2011/11/23

125 北総石仏 柏の石仏 高田

国道16号線を挟んで、前回の松ヶ崎地区と対照に位置するのが高田地区です。柏警察署前から北西300mに柏市立第五中学校があります。その前(北側)高台が東下ノ台共有墓地です。
125-1 東下ノ台共有墓地入口
墓地へあがる石段の手前法面に 8基の石仏がひっそりと佇んでいます。
いずれも馬頭観音塔のようですが、年号がくずれたものなどもあって読みにくいですね。

左から昭和26年・昭和8年の文字馬頭観世音塔、3基目の背の高いのは昭和26年軍馬観世音塔 と刻まれています。次は昭和2年の文字馬頭観世音塔です。中央の欠損碑は寛政十一年(1799)馬頭観世音の像塔です。惜しい。
馬頭観音像と思われる寛政十一年塔
 次の低い石碑は馬印がわずかに見えていますが表面は不明です。次の小碑も不明石塔です。右端は倒れた安政三年(1856)文字馬頭観世音となっています。
石段を上がった共有墓地には 年不明六地蔵さんと昭和5年自然石型・種子カ「六地蔵の碑」が祀られていました。
年不明(昭和5年?)座像の交じった六地蔵
125-2 熊野神社の石祠
第五中学校前を西進800mで熊野神社へ北上するT字路となります。曲がり角の目印は、明治19年石灯籠などの石造物が祀られている一画があるところです。
崩れかけた石祠は資料から、待道大権現石祠と思われます。他に小さな寛政四年(1792)道祖神石祠が祀られています。北上した正面に鬱蒼とした森が、熊野神社です。
熊野神社は当地の旧家山崎家の氏神で、平惟盛の末裔が高田原に住まい山崎姓を名乗って天正九年(1581)に熊野大権現を鎮守として祀った創建を伝えているそうです。(柏市史中世史編)
赤い手すりの石段左に、大正12年の自然石型文字馬頭観世音碑が祀られています。石段を上がると薄暗い森に覆われた境内中央に 、コンクリート製の立派な社殿が建っています。
境内の合祀記念碑が、北野・香取・日枝・六所・熊野の五社が明治に合祀された旨を伝えています。社殿の右側で合祀された神々が勢ぞろいです。
右から北野・香取・日枝・六所・月御前・不明石祠・菩薩?7基です
 右から明治41年天神宮・明治41年香取神社・明治11年日枝神社・明治29年六所神社・明治18年月御前・弘化二年(1845)?菩薩が写真にのっています。左欄外に弘化二年山神・安政五年(1858)山神宮がつらなっています。六所神社はWikipediaをご覧ください。ところで上の写真左端は菩薩塔(?)と柏市史に記載がありますが、石祠形の中に仏像を刻むのは珍しいでしょう。
尚 、境内左にも大杉神社のお堂もありました。
125-3 聖徳寺の石造動物園
熊野神社から灯篭のある曲がり角まで戻り西進します。約300mで正徳寺の表示がある参道入口です。緩やかに上れば真言宗豊山派の聖徳寺の山門です。正面にはコンクリート造陸屋根の現代的な本堂があります。

本堂の屋根には宗紋の大きな輪違(わちがい)を掲げています。凡聖不二(ぼんしょうふに)の意で「仏様(悟っている者)も衆生(迷っている者)も本性において同一」という事を表しているんだそうです。
本堂前の石造物もにぎやかです。現代石造物にどんなものがあるか載せておきましょう。
左の聖観音銅像の台座地面に居るのは河童
ピカチュウのベンチやひっくり返ったパンダや犬に河童、不動明王に聖観世音菩、龍や小地蔵など脈絡なく並んでいる石仏好きなお寺という感じでしょうか。
写真左へ行くと更にパワーアップします。
写真上部中央奥に小さく見える丸彫聖観音は文化八年十九夜塔
大きな子安地蔵が祀られ背後に船形地蔵塔がひな壇整列に並びます。前座にフクロウやアヒルまでいるのは、なんじゃらほいですね。
というわけで、リストアップした庚申塔は大切にされていると思ったのですが。見栄えのよい石仏でないという訳でしょうか、残念ながら冷遇されていましたね。
上の写真の左が墓地への入口です。門柱の植え込み代わりに密植されておりました。残念。
左奥は享保元年・右奥は年不明の青面金剛塔
この場所に14基(8基の青面金剛塔+6基の文字庚申塔)も祀られています。密植状態で満足に写真も撮れないのが残念です。左側面・右側面からの写真を載せておきましょう。
享保元年塔の手前は嘉永三年・六年の小さな青面金剛塔です
後列の左端から寛政九年・安政五年・弘化三年・天保十五年青面金剛塔
他には十九夜塔が2基あって、先ほどの子安地蔵の写真の中央奥の文化八年丸彫聖観音塔と、写真左端の赤い幟に脇にある寛文八年(1673)丸彫聖観音が十九夜塔にあたります。
寛文八年十九夜聖観音塔

文化八年聖観音十九夜塔
 子安信仰が盛んな為でしょうか、賽の河原の様子を絵解風看板で表示がありました。

賽の河原をWikipediaでお勉強しておきましょう。
125-4 小松翁稲荷
地図で見つけた気になるスポットです。分かりにくい場所に赤い鳥居が並んでいます。玉垣の上に小さなお堂のようにひっそりとたたずんでいました。名前からするとプライベート神社であるようです。
お社の左に文久元年(1861)翁三稲荷頓苑霊神石なるものが祀られています。

碑石左脇に「高田原のきつねをば、取るべからず。若し討ち取るものは難儀をいたす。以後、万民必ずとるべからず」旨を漢文表記してあるそうです。(柏市史金文Ⅰ)勉強不足で読めなかったですね。
125-5 うなぎ道と高田の水切り場
江戸時代、活きたうなぎが運ばれた街道を載せておきましょう。馬に積み替える水切り場がこのあたりに あったということですね。解説板をご覧ください。



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