61-1龍泉院の石仏
古記録では建長五年(1253)開闢、天文年間(1532~55)量指長栄和尚開山と伝わる曹洞宗寺院です。当地伝右衛門家に酒気を含む泉が湧く所、天竜が小型に変化して入水したのを長栄和尚が目撃、泉水を掬って帰山・読経供養して霊宝としました。この故をもって「天徳山龍泉院」と号したとガイドには書かれています。







追記(沼南風土記より抜粋引用)
おかん婆さんは寛文年間(1661~1673)紀州塩津生まれで、晩年泉村に住み着くようになりました。ところが、何の事情からか泉村人から「おかんばば あ」と罵られ虐待を受けるようになりました。ところが一方で隣村鷲野谷村の人々からは常に厚遇をうけていました。このため、おかん婆さんは「泉村人が蔵を 建てたら皆焼いてやる」と呪いの言葉を残して死んだそうです。その後、泉村では新しい倉が建つたびに火災にあうということが続いたそうです。そこで崇りを 鎮めるために地蔵を建てて供養したそうです。火災はなくなったそうですが地蔵はいつか破損してしまったと言われます。明治21年泉村有志が写真の碑をたて ておかん婆さんの戒名を刻んで供養したという経緯だそうです。 |

61-2龍泉院裏の馬頭観音
テキスト(沼南町史)では龍泉院墓地に馬頭観音群の記載があったのですが、探し回っても見つけられませんでした。再チャレンジで整地場所に移設されたのを見つけたの独立して載せておきましょう。位置は本堂の北西で寺の北側通路を西へ林の中に入ったところに並んでいます。



61-3石尊さまの一字一石塔
龍泉院の参道を戻り金谷方向へ南下すること50mで不動明王石塔と残欠のある空き地を右手に見出します。
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尚、一字一石塔は経文を石1個に1字ずつ写経して埋納供養するものです。日本石仏事典第二版262pに「本来の写経は紙または布に書写するものであるが・・・地に埋めて釈迦滅後五十六億七千万年後に衆生救済の弥勒菩薩出現に備える埋経の思想から・・・経文を石または瓦に記す風習が生まれ・・・そのうちでも小石を集めこれに一字ずつ経文を書写して地に埋め石塔を立てる風習がありこの塔が一字一石塔である」と記載があります。
61-4泉の庚申塔群
先ほどの石尊さまから南下すること200mで15基の庚申塔が並び後ろに大きな杉の木のある分岐に出会います。
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平成15年9年昭和54年の 戦後現代版庚申塔です | 昭和10年から右端正徳 元年(1711)まで |
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古い正徳元年塔 | 明和五年・二童子二鶏付 |
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延享三年・享保十五年 アーモンドヘッド | 天保八年塔・裏面文言に 伐木不可文言 |
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文久元年(1861)三猿 | 文政十三年(1830)三猿 |
これだけの庚申塔が立てられるのは厚い信仰によるものですが、文久元年塔は講員70名、昭和10年塔で講員78名、平成15年塔でも43名にわたる講員が名を連ね石塔に刻まれています。立派。
次に左の7基の石塔です。特徴あるものを載せておきます。
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7基の石塔 | 明治17年山神塔台石 |
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大正十年塔・泉種付所 | 道標も兼ねています |
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馬頭付馬頭観音塔 | 太子社塔 |
馬頭2頭がついたのは大正15年馬頭観世音塔で隣は昭和1?年馬頭観世音塔です。左端は明治41年太子社の表示がある(聖徳)太子塔ですが「社」付は初見です。この塔は「右まつと 左金山」と道標になっているようですが私には読めませんでした。
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