遠足で出かけたお江戸石仏から、ホームグラウンドの北総石仏に戻ります。とりあえずなりふり構わずにブログ更新に精進したいと思います。お立ち寄りしてくださる方々に、お接待やご返事もしないで心苦しいのですが。初心者なので記録整備が追いつかずデータばかりが溜まってしまうばかりで今しばらくご容赦を願います。
この河原子天神社と次に記載する阿弥陀堂は同じ場所に隣接しています。google mapには河原子集会所の表示がある場所です。白井市循環バス「ナッシー号」だと4系統河原子バス停下車となります。
39-1.河原子天神社の石仏群
天神社参道入口に5基の庚申塔が並んでいます。
左から明治42年(1909)文字庚申塔、天保三年(1831)青面金剛像(剥落)、文政八年(1825)文字庚申塔、明和元年(1764)六臂青面金剛像塔、安政二年(1855)文字庚申塔となります。明和の庚申塔以外は砂岩で出来ているため荒れ方が激しいですね。明和塔は安山岩なのでこんな感じで残っています。参道の両側は文久元年(1861)、明治16年(1883)狛犬、平成十九年石灯籠などが並んでいます。薄暗い境内右手には昭和30年・大正13年伊勢講碑や三山塔4基など並んでいます。境内で何の変哲もない昭和17年大東亜戦勝祈願碑を見つけましたが、寄進に花崗岩六拾四枚・大谷石三拾本と刻まれていました。物資のない時代にきっと貴重だったんだろうなあと思いました。本殿奥の所に元文四年(1739)「疱瘡守護神」石祠を見つけました。今回の豚インフルエンザの流行をみて江戸時代なら「豚印振円座」守護神と刻むだろうなあと思った次第です。さて、天神社は菅原道真公をお祀りしたお社ですが北総の社は物語風に彫刻を施すのが流行りのようで、こちらも例外ではありません。壁面に牛に乗った道真公や梅の枝の下、流罪を暗示するような図柄の彫刻が見られます。素朴で飾り気のない田舎風が面白くて楽しめました。天満天神や道真公はいつものWikipediaでお勉強しておきましょう。
39-2河原子・阿弥陀堂跡石仏群
天神社に隣接して河原子集会所の広場があります。この地にきっと阿弥陀堂があったのでしょう。敷地縁と竹薮の中に種々の石仏が点在しています。敷地縁には十九夜塔が無造作に放り出されています。左手前から天明五年(1785)・文化三年(1806)・享保十一年(1726)・宝暦六年(1756)・明和元年(1764)の十九夜如意輪観音塔が並んでいます。
広場の道路寄りには奉待二十三夜供養と刻み普門品一万と併記した明治18年塔や昭和22年出羽三山・太太神楽奉納と刻む石碑などちょっと変わったものが見られます。ちょっと離れていますが昭和18年文字庚申塔と明治36年文字馬頭観音が置かれています。馬頭観音には「武州上岡」と刻まれています。初学者の信人には「武州上岡とはなんぞや?」が研究課題だったのですが榎本正三氏著書「河岸の人々の暮らし」で氷解しました。通常は「武州上岡写」(埼玉県東松山市)の意味で関東三大観音の一、妙安寺の馬頭観音を写し祀った意味だそうです。印西・我孫子・沼南各地で広く信仰されていて白井地区でも何基か既出しております。上岡観音で概略を見ておきましょう。
そのほかにも広場に隣り合った小潅木の陰に庚申塔が4基並んでいます。光線の加減で見辛いですが左から、天明五年(1785)文字青面金剛塔、寛延元年(1748)(剥離)六肘青面金剛塔、宝永六年(1709)六肘青面金剛塔、明治12年(剥離)文字庚申塔となっています。剥離している寛延塔の上部青面金剛像は背後にもたれかけて置かれています。どうも頭部がアーモンド型に見えるようですね、専門家から見たらどうなんでしょう。
この他にも寛政十年(1798)三界万霊塔は正面上部に地蔵を刻し側面に「善光寺三十三度」と刻まれていて信仰心の厚い人が建立したようです。その他古峯神社石祠・浅間神社石祠・三峰神碑など枚挙に暇がありません。私は見過ごしましたが元文四年(1739)「道陸救護神」石祠も珍しいので見たかったのですが後の祭りですね。
39-3河原子旧道墓地の六面石憧
バス道まで戻り右折し50mほど進むと道路向かい側に何台かの廃車が置かれている角道があります。道なりに林の中を進めばぽっかりと開けた原っぱのような墓地に出ます。道路に沿って右手にポツポツと立っているのが5基の文字馬頭観音碑です。そして左手奥に六面石憧が孤立しているのが見えます。馬頭観音で一番新しいのが平成元年の朱入り文字馬頭さんで写真で見るとやはり現代風ですね。
また、立派な寛政五年(1793)六十六部供養塔も立っています。頭部にバク・アン・マンの釈迦三尊種子を刻んでいますが、白井町石造物調査報告書ではキリーク・サ・サクの弥陀三尊種子に誤記しています。悪趣味ですが誤りを見つけるのも楽しく又、勉強にもなりますね。
左手奥に見えた六面石憧は総長2mの立派なもの。明和七年(1770)で安山岩の彫りもよく二世安楽と刻まれています。とりあえず今回はこのぐらいにしてしておきましょう。
>
0 件のコメント:
コメントを投稿