路傍や社寺の片隅にある石造物に心惹かれて。 出来ないことを数える人生でなく、出来ることを数える人生を歩みたいと思います。ホームグラウンドの房総の石仏(主に北総)を巡ります。時々Eシリーズで近県へ遠足拝観を行います。文末の地図は拡大表示ができ、マークをクリックしてごらん下さい。 このブログは筆者の備忘録のつもりで記載を始めたものです。東日本大震災前の記録も多く、現状と相違している場合もあるのでご承知願います。 10年ぶりに見直したところ、Google地図が仕様変更となって、地図のリンク切れが散見されました。分かる範囲で復旧するつもりですが、更新記事は地図再掲のものが主となります。
2009/07/07
41北総石仏 白井ⅩⅥ
旧白井本宿を北上し神々廻(ししば)地区へ向かいます。神々廻坂下のバス停を過ぎて坂道を登りきったあたり左手に潅木に埋まった石段があります。ところで、神々廻という地名は何に由来するのか「じつはよくわからない」と白井の文化遺産史2004に書かれています。不思議ですねえ。
41-1.神々廻庚申塚(ししばこうしんづか)
8基の庚申塔が居並ぶ神々廻庚申塚です。かすかな石段跡を見つけて雑木林に踏み込むとそこが庚申塚です。道路からは全く見えないので人目につかず保存状態は良好です。が、草木が生い茂り訪れる人が少ないことが果たして良いのかどうか考えが分かれるところでしょう。左奥から並べてみましょう宝永二年(1706)笠付文字庚申塔、延享三年(1746)六肘ショケラ持青面金剛塔です。次の写真は異体字で刻まれた嘉永三年(1850)文字庚申塔、明治十二年文字庚申塔、享和三年(1803)異体字の庚申塔です。次が昭和4年文字庚申塔、宝暦五年(1755)笠付六肘ショケラ持青面金剛塔、平成6年文字庚申塔となっています。いずれも白井地区特有の全面朱入庚申です。異体字も変化に富んで興味深いものです。お猿さんも嘉永三年塔台石は正面5猿+右側面3猿+左側面2猿=10猿が刻まれて珍しいものです。おまけのお猿さんも載せておきましょう。
41-2.神々廻・平塚口馬頭塚
神々廻庚申塚から約1km北上すると左の道路分岐にある鉄筋会社の立看板の手前に3基の馬頭観音塔が立っています。左から愛馬会の台石に昭和21年文字馬頭観世音塔、大正七年馬頭観世音塔、明治41年馬頭観世音塔は右うらべみち・左ひらつかみちと道標を兼ねています。いずれも線彫りや刻像の宝馬がついてます。元は塚をなしていたのでしょうが、近世・現代になっても木下街道沿いでは荷役・農耕馬への信仰が厚かった証と見えて興味深いものがあります。
41-3.神々廻神宮寺の犬供養
神々廻坂下のT字路信号を西進します。1kmほど進むと左手に天台宗神宮寺があります。山門を入ると正面に本堂とブロンズの聖観音が見えます。参道左手は3基の観音霊場巡拝塔が立っています。参道右手に下の写真のように石仏が散在しています。頭部欠落している石仏や傾いだ仏様を見ると気持ちが寂寞となるのは少し辛いですね。右手奥に見える3基の石仏を写真で見ると、明治13年子安塔、頭部欠落の文久二年(1862)子安塔、同じく文久二年十九夜如意輪観音塔となっています。同じく後列中央あたり十九夜塔が3基並んでいます。左から元禄十三年(1700)十九夜如意輪塔、同じく享保七年(1722)十九夜塔、頭部欠で年不明の如意輪塔です。又、手前にある宝暦十四年(1760)観音霊場百箇所巡拝塔はわかりやすいですね。左奥に千手千眼観世音菩薩・・陀羅尼十万巻真読行者と刻んだ法印塔(僧の位階を刻んだ石塔=供養碑)が立っています。僧侶の墓塔でしょうかね。本堂右方に子育て観音が立っていますがお地蔵さんがこれだけ並んでいると軍隊に見えてちょっと不気味です。
帰りがけに寺入口の生垣に真新しい犬塔婆が祀られていました。Y字の左右は「キャ カ ラ バ ア」の種子が書かれています。「是畜生発菩提心」「爰然子安祈福講中安穏」と読めました。利根川べりの子安講では、Y字型の柳や欅の表皮の一部を剥いでそこに梵字や経文を書いて村境や墓地庚申塚などに立てる習俗を有しています。(これを犬供養・犬(卒)塔婆といいます) 平成21年1月下旬の訪問でしたが、まさに現代にいきている民間信仰を目の当たりにして感動してしまいました。
41-4神々廻・薬師堂跡の花見地蔵
神宮寺から200mほど進むと左からのT字路に出会います。この角を左折して80mほど坂道の途中に薬師堂跡・墓地が左手に広がっています。墓地への入口に薬師堂があったようです。整備された区画の中に石仏が整然と並んでいます。その奥に大師堂が二つ並んでいます。写真は道路側を向いて石仏群を写したものです。石仏群は前列12基後列14基ほどですが、前列左端無縫塔をいれて10基ほどは墓碑となっています。残り16基ほどですが勉強がてら主なものを種類別に載せておきましょう。写真一番右・後列端の石仏は道路側を向いています。 これは「花見堂地蔵尊・元文二(1737)丁巳三月吉日同行四十五人」と記された宝珠持ち花見地蔵ですね。出ましたねえ。もう1体が前列左から3番目の前に傾いだ錫杖・宝珠持ちお地蔵さんです。「花見地蔵 子(供中)・文化九申三月吉日」となっています。花見地蔵のおさらいは、房総石造文化財研究会沖本会長の論文を参考にしてください。前列右端は嘉永四年(1851)二十三夜文字塔ですが普門品一万巻と付記されています。江戸も末期になると御利益を増すために有難いお経のデコレーションを好んだようです。同じ写真の後列左に宝暦四年(1754)「奉造立時念仏諸願成・・二月吉日同・・」と刻まれた石碑が見えます。時念仏=斎念仏講ですね。3月に載せた30白井Ⅵで29-3(追加)長楽寺の石仏群でも昭和55年斎講碑がありましたね。「トキに[斎]の字をあて仏教では食事のことを指すことから、仏前における共同飲食を伴った念仏講と解される」と日本石仏事典で述べてあります。次に前列2基目から手前の6基は享和三年(1803)六地蔵尊が並んでいます。
後列右端は先に述べた花見地蔵・左へ時念仏碑と続き、享保二年(1717)地蔵尊が並びます。その次が智拳印を結んだ明和二年(1765)金剛界大日如来像がかわいいですね。後は墓碑と宝暦九年(1759)・元文二年(1737)地蔵尊が混在します。そして後列左端が元禄五年(1692)十九夜念仏・如意輪観音像となっています。二つ並んだ大師堂の後ろも3基の石仏です。右端から明治27年普門品誦読塔、文久二年(1862)「西国坂東秩父百箇所神社仏閣」参拝塔、明和元年(1764)?碑=ちょっと判読しがたいですね。
白井町石造物調査報告第四巻の調査以降に墓地整備されたのでしょう、報告書に記載されていない石仏が続出ですね。
薬師堂跡の北隣が駒形神社です。
41-5神々廻・駒形神社の庚申塔
鬱蒼と茂った森の中に駒形神社があります。石段を上った奥に社殿が見えますが、左手の雑木の中に4基の庚申塔と1基の石祠があるのでそちらから見ていきましょう。まず左端に享保二十年(1736)六肘ショケラ持正面金剛塔があります。続いて文字庚申塔が3基、左から文政五年(1822)万延元年(1860)昭和5年(1930)が漠然と(言葉使いが変ですがそんな感じですね)立っているという表現が似合っていますね。恒例の変化猿として真ん中の庚申塔の三猿を載せておきましょう。
境内は参道左に昭和18年・昭和15年の出羽三山塔やぽつりぽつりと石祠が置かれています。年不明の淡島大明神石祠です。淡島願人という乞食坊主が広めた紀州海草郡加太村淡嶋神社の祭神を祀っています。婦人の下の病に霊験あらたかとか安産祈願や針供養と習合したようです。(日本石仏事典第二版)その隣は変形の大日如来石祠です。左側面は天文++一年(1552)勧請、弘化三年(1846)再建と刻んであります。一方右側面にも安永七年(1778)再建云々と彫られています。???ほかにも大正13年(1924)三峰神社石祠などがあります。今は寒村の神社イメージですが江戸後期以降ではどんな様子だったのでしょうか?案外、雑木林もまばらで神埼川沿いの耕地が見下ろせて見晴らしのよい高台だったかも知れませんね。
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