2009/08/03

44E兵庫の石仏 東播石仏・加古川Ⅰ

突然ですが遠足Eシリーズです。前回で北総石仏・白井地区のフィナーレ(最終回)を予告しました。ですが、このブログをはじめた動機が備忘録がわりであるという訳?で予定は未定となりまして、先日訪ねた故郷兵庫県の中世石造物を遠足Eシリーズで掲載しておくことにしました。この続き加古川Ⅱは次回何時掲載できるかわかりませんがとりあえずということで今回は東播石仏です。近畿では中世が主流で板碑・石棺仏・宝塔・五輪塔などいわゆる石造美術関係のオーソドックスな石造物が目白押しですが、初心者には像容に変化が少なく単調なんですね。とはいうもののテキストはS51年庚申懇話会「石仏の旅 西日本編」と加古川市史第七巻を参考に見て回ります。 44E-1加古川・平之荘神社の板碑 加古川市の北東に平荘町山角(へいそうちょう・やまかど)というところがあります。県道65号線山角公民館を目印にするとその傍に平荘神社があります。写真は御輿堂と呼ばれ神輿が置いてあるところで中央が通路になっています。その先に賽銭箱の置かれた幣殿がありその後方一段高くなったところに流れ作りの本殿があります。嘉永三年(1850)再建といわれています。拝殿前に貞享五年(1688)の棟札が残る修復された能舞台があります。板碑を見るには駐車場から外に出て山門入口の石段まで戻ります。その山門に入る石段の左右に立てかけてある蓋石状の四角い石がお目当ての板碑です。左が弘安元年(1278)弥陀三尊種子板碑です。下半部を欠失し現高121cm幅61cmですが、割れた部分を埋め込み写真のように弥陀の種子キリークがやっと判読できる程度しか露出していません。「弘安元(年)」や観音=サ、勢至=サクは土中に埋没しています。石段右も同様な釈迦三尊板碑です。現高99cm幅61cmでやはり種子バクしか露出していません。こちらは年号不明で普賢=マン、文殊=アンも土中に埋没しています。写真では種子らしきものが写っているだけですが、加古川市史では拓影で確認できるでしょう。左右の板碑は対になって組合式石棺の長側石であったようです。石段側には板碑の解説があるので読んでおきましょう。尚、社殿の右側に伊勢神宮遥拝の石祠がありますが、その敷石も石棺の蓋石ですと書かれています。 44E-2報恩寺の五輪塔と四尊石仏 平荘神社の境内に隣接する報恩寺への近道表示板があります。これに従って行くと山門をショートカットして報恩寺本殿前に出ることが出来ます。和銅六年(713)証賢上人開基の真言宗寺院であると解説に載っています。石仏群の所在は3箇所に分かれます。本堂左に広がる墓地の入口に十三重層塔が見える地点、写真左方に稲荷神社に通じる赤い鳥居のある参道脇に並ぶ五輪塔群、参道を右手に入り四尊石仏から奥に広がる卵塔・五輪塔群のある地点となります。では目に付く元応元年(1319)の十三重層塔を見てみますと、花崗岩製564cmあって軸部は素面です。前石の前面に縦三行書で「常勝寺 元応元年己未 十一月六日」と刻んであるそうですが写真ではどうでしょうね。近世ばかり見ていた時代から三・四百年をさかのぼり時は中世・後醍醐天皇・鎌倉幕府滅亡の時代に属します。これだけ立派なものですが軸部に本尊・種子がない点は惜しいものです。加古川市史の著者は本尊を配する手間を省いた経済的理由か、あるいは落慶法要前に墨書したものが年月で摩消したものかと推理しています。いずれにしてもほぼ700年前の事情はどうだったのでしょう?この塔の左に安政六年((1859)光明真言供養塔があって江戸時代が懐かしくなりました。塔の手前にも現代の子育観音像がありますがその奥に五重層塔残欠が置かれています。加西市高室で採れる凝灰岩の高室石(たかむろいし)で出来ています。残欠ですが笠の下端を掘り込んで軸部を受ける丁寧な造りと同種の例(弘安在銘)から見て1285年をくだらないだろうと加古川市史には述べてあります。太子堂を左に回り込めば弥陀三尊種子板碑が据えてあります。種子キリークは読みにくいですね、右の観音のサは欠けていてありません。左の勢至のサクは辛うじて墨拓から覗えます。解説版をお読みください。 次の地点は稲荷神社の赤い鳥居を潜り薄暗い参道の途中左側に置かれた五輪塔となります。さて、五輪塔ですが本来墓塔であることから北総石仏では意識的に省略することが多かったのですが、主要石造美術品としての存在感から全国レベルでは無視する訳にもいきません。とりあえずWikipediaでお勉強をしておきましょう。薄暗い参道に南から北へ解説板と共に五輪塔が4基並んでいます。県指定文化財として概略は解説板にも載っていますが、左から2基目の正和五年(1316)は市内最古で形式手法も優れた遺品と加古川市史でも記載がありました。正和五年塔の基礎には「宇都宮 正和五季丙辰八月日 長老」と三行に陰刻されていますが写真で読めるでしょうか?同様に左端の貞治六年(1367)の五輪等と基礎の銘文を載せておきます。「貞治六丁未 覚(旧字)誉大徳 十月廿一日」 次に3箇所目の石仏群の場所は、稲荷への参道から右に入る小道があります。ちょうど墓地区画が切れたあたりです。説明板と共に文和二年(1353)四尊石仏が西面して立っています。高さ80cm石英粗面岩製で出来ていて組合式石棺の長側石を使用したようです。蓮華座の陰刻の上に18cm高・15cm膝幅の四体の定印阿弥陀坐像が彫られています。素朴で田舎の味がします。第二尊と第三尊の間に「文和二年」、第一尊と第二尊の間に「二月」と彫られているそうですが、読めますかねえ。解説板にノイズがあって読みにくいですがご容赦。 この四尊石仏の前をとおり北上する林の中に卵塔などの墓塔域があります。その中に加古川市史の筆者が比翼五輪塔と名づける範疇の同じ構造形式で造立された二基の夫婦の為の五輪塔があります。一枚の長方形切石基壇に乗った二基なのですぐ分かります。空風輪を欠失し別の相輪を載せています。市史の筆者は「きわめて珍しく室町中期を下らず康永(1345)の頃」と推定していますが、初心者にとっては大胆な推定にビックリの心境ですが主観の記述が随所にあって結構面白く感じられました。「石棺仏は板碑と石仏の二種に分類すべきで無批判に石仏というのは妥当性にかける」などなど。 山門に戻ると弥陀石仏が何気なく置かれていたり、山門脇には近くで出土した未使用の石棺があったりします。山門石段脇に石造遺品解説板がありますが、そのうち永徳元年(1381)石仏は見落としました。残念。44E-3神木(こうぎ)の石棺仏 県道65号を700mほど西進し神木公民館を目指して信号を右折します。神木公民館の道路を隔てて南の高台に神木の石棺仏がありますが道路からは見つけることが出来ません。車でも入れません。入口は分かりにくいので地元の方にお聞きするか、神木集会所を目印にすればその北にある構居跡にたどり着きます。解説板と奥の全景をご覧ください。写真のように石垣基壇上に左から五輪塔、中心に弥陀石棺仏、右に弥陀三尊板碑が並んでいます。 まず左の五輪塔は延文五年(1360)で高さは別物の空風輪を除いて1.3mあります。ビックリしたのは火輪である笠石の上に更に別の宝筐印塔の笠をかぶせて六輪(重)塔に置かれていたことです。冗談ではないですが心ある方は修正を申し入れされたほうがいいと思うのですが。各輪とも素面で基礎に「延文五年十一月中旬 千部経結衆等」と刻まれているようですが写真で見えるでしょうか? 真ん中の石棺仏は素朴な定印阿弥陀坐像が明瞭に刻まれた高さ176cm、地上高1m、幅1mの大きなものです。左右の縁取りに「一結衆十六人 大願衆法蓮」と刻まれています。紀年銘はありませんが室町初頭(1400頃)と加古川市史では見ています。後ろから見ると家型石棺の蓋石で出来ているのがよく分かります。 右は康永頃(1345)の弥陀三尊板碑ですが石英粗面岩でえ出来ていて種子キリークは読めそうですね。この並びの前にも板碑残欠がおいてあります。立ててあるのは弥陀一尊種子板碑で種子の手法・形式が平荘神社板碑に近く1285年頃の古式塔だろうと市史に記載されています。 44E-4熊野神社 神木の構居跡の少し西隣に熊野神社があります。息抜きに寄ってみました。普通の神社です。石柱は昭和16年日支事変従軍記念と彫られています。境内に阿弥陀一尊石仏(新中山の石棺仏)と小ぶりの五輪塔が置かれていました。※この石仏は権現ダムに沈んだ中山権現社境内から移転してきたもの。古墳時代の家形石棺に舟形後輩で合掌した地蔵を刻む。屋根部分斜面に仏像を彫った珍しい石棺仏と平成22年3月市教委の表示が建てられていました。
他にも享和四年(1804)弥陀石仏、元文三年(1738)と台石に彫られた丸彫り延命地蔵があります。近世のものを見ると安心感からかホッとしますね。 44E-5長楽寺の六地蔵石仏 神木の石棺仏の西方500mほどのところに長楽寺があります。本堂の左横にこの六地蔵石仏(石棺仏)はあります。高さ1.8m、幅1.2mで六体の地蔵が家型石棺の蓋石に彫られています。上と左右に縄掛け突起がついています。像と立像が3体ずつで錫持1体・合掌5体と変わった配置です。解説板に詳しく載せてありますので読んでおきましょう。加古川市史では解説板に載っている「八つ仏」から比定して1345年前後の造立と(大胆!)に推定しています。山門を出たところ左右に可愛らしい一石五輪塔ミニチュア?が置かれていました。 44E-6養老天満宮の宝筐印塔 平荘神社から南西500mほどの所に養老天満宮があります。養老地区内の道順は分かりにくいので地元の人にお聞きください。天満宮を入ると宝暦七年(1757)の灯篭が立っています。コンクリートの社殿右手に集会所のような堅牢な建物があります。建物と東側ブロック塀との間にこの宝筐印塔が隠れるようにたっています。応安三年(1370)花崗岩製の宝筐印塔です。基礎に格狭間をいれ西面したその輪郭の左右に「融通百万遍結衆(異体字)、応安三年十月日」と刻まれています。写真では応の字が辛うじて読めそうです。浄土宗の一派である百万遍念仏講衆が立てた宝筐印塔ということになります。 44E-7養老の地蔵堂(跡)の石棺仏 天満宮から300mほど西方のT字路の角地に地蔵堂(跡)があります。ブロック作りの物置状のところに多数の石造物残欠が置かれています左に解説板とブロックの覆堂内に黒ずんだ四尊石仏が置かれています。高さ1.2m・幅0.5mで蓮華座に四体の阿弥陀坐像です。畦道の溝の橋に渡してあったものを現在地に移したとのことです。「菩薩像の蓮華座が三弁である退化形式から室町でも遅く1550年をさかのぼらないだろう」と加古川市史に載っています。 ブロックのお堂内は石塔石仏の残欠アワアワ状態です。左は2体を配した石棺の側石で出来た残欠で、右は錫持地蔵・左は坐像の石仏です。真ん中のところから折れている様子で左は弥陀三尊の片割れにも見えるとの記述でした。 右の石仏はやはり組合式石棺の側石で出来ており定印弥陀四尊の石仏の左下が欠けた状態です。加古川市史では像様等から鎌倉様式をとどめるが若干年代をくだり南北朝前期中ごろ(1345)との推定です。解説板もご覧ください。 44E-8神木・畦道の石棺仏 おまけになりますが、44E-3神木石棺仏を探し回って畦道に踏み込んだところ、畦の角地に可愛い石棺仏が大切に祭られているのを目にしました。野の仏として大切に農地に祀られていることこそが本来の石仏のある姿と私には眩しく映りました。 以上で加古川の中世石棺仏をひとまず終了です。像様が単調で刻字が浅く、近世石造物を見慣れた目には面白さに欠ける気がしますが、永い年月を経て残っている生命力には感嘆しますね。

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