26-1.木(野口)の地蔵堂
白井町石造物調査報告書では地蔵堂となっていますが、集会所の看板は大集会所となっています。
広場左に石仏群があります。また、道路沿いに下の写真のように石仏が3基並んでいます。
左から昭和8年羽黒三山塔、明治44年自然石型「武州上岡馬頭観世音」碑、文化三年(1806)青面金剛王文字塔です。青面金剛王塔は左「行とく道」右「まつ戸道」と道標も兼ねています。
前回も「行とく道」道標が出ていましたが今で言うところの木下街道に相当します。行徳道はこのあたりからの行き先を示した表現方法ですから、江戸からみれば木下へ行く道(木下街道)となるわけです。そしてこの時代は、おそらくこの前の道が行徳へ通ずる「木下街道」であったろうと思われます。江戸時代には「木下街道」は複数のルートとして存在していたようです。
広場左手にある石仏群(墓碑が多数)の中で上の石仏が目に付きます。左から明治20年子安塔、宝暦七年(1757)花見地藏「見園堂地藏大菩薩」、年不明出羽三山塔・秩父坂東西国記載の石塔となっています。残念ながら地藏は磨耗していて文言が読み取れず白井町石造物調査報告から引用記載しました。花見地蔵は房総石造文化財研究会でも究明中の話題となった地蔵です。
広場左に石仏群があります。また、道路沿いに下の写真のように石仏が3基並んでいます。
左から昭和8年羽黒三山塔、明治44年自然石型「武州上岡馬頭観世音」碑、文化三年(1806)青面金剛王文字塔です。青面金剛王塔は左「行とく道」右「まつ戸道」と道標も兼ねています。
前回も「行とく道」道標が出ていましたが今で言うところの木下街道に相当します。行徳道はこのあたりからの行き先を示した表現方法ですから、江戸からみれば木下へ行く道(木下街道)となるわけです。そしてこの時代は、おそらくこの前の道が行徳へ通ずる「木下街道」であったろうと思われます。江戸時代には「木下街道」は複数のルートとして存在していたようです。
広場左手にある石仏群(墓碑が多数)の中で上の石仏が目に付きます。左から明治20年子安塔、宝暦七年(1757)花見地藏「見園堂地藏大菩薩」、年不明出羽三山塔・秩父坂東西国記載の石塔となっています。残念ながら地藏は磨耗していて文言が読み取れず白井町石造物調査報告から引用記載しました。花見地蔵は房総石造文化財研究会でも究明中の話題となった地蔵です。
26-2.愛宕神社途中の不動明王
左に不動明王 右に稲荷を祀った木祠でした。
不動明王は台座に成田山とO家個人名表示があり二童子(こんがらどうじ・せいたかどうじ)もついています。年代は新しそうな石仏でしたが大切に信仰されていることが分かり安心しました。
不動明王は台座に成田山とO家個人名表示があり二童子(こんがらどうじ・せいたかどうじ)もついています。年代は新しそうな石仏でしたが大切に信仰されていることが分かり安心しました。 






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