2023/02/27

26北総石仏 白井Ⅳ

鷲神社の辻を西へ川沿い方向に約500mで、右手に別れる道沿いの広場に青いトタン葺小屋と有線放送スピーカーの鉄塔が建つ集会所があります。
  26-1.木(野口)の地蔵堂 白井町石造物調査報告書では地蔵堂となっていますが、集会所の看板は大集会所となっています。広場左に石仏群があります。また、道路沿いに下の写真のように石仏が3基並んでいます。左から昭和8年羽黒三山塔、明治44年自然石型「武州上岡馬頭観世音」碑、文化三年(1806)青面金剛王文字塔です。青面金剛王塔は左「行とく道」右「まつ戸道」と道標も兼ねています。前回も「行とく道」道標が出ていましたが今で言うところの木下街道に相当します。行徳道はこのあたりからの行き先を示した表現方法ですから、江戸からみれば木下へ行く道(木下街道)となるわけです。そしてこの時代は、おそらくこの前の道が行徳へ通ずる「木下街道」であったろうと思われます。江戸時代には「木下街道」は複数のルートとして存在していたようです。広場左手にある石仏群(墓碑が多数)の中で上の石仏が目に付きます。左から明治20年子安塔、宝暦七年(1757)花見地藏「見園堂地藏大菩薩」、年不明出羽三山塔・秩父坂東西国記載の石塔となっています。残念ながら地藏は磨耗していて文言が読み取れず白井町石造物調査報告から引用記載しました。花見地蔵は房総石造文化財研究会でも究明中の話題となった地蔵です。
  26-2.愛宕神社途中の不動明王
地蔵堂の前で二手に分かれる道を右にとり薄暗い林の中を上っていくことにします。右手林の中で個人のO家門へ通じる道があります。その道から下の写真のようなトタン屋根の小屋が目に付きます。
左に不動明王 右に稲荷を祀った木祠でした。不動明王は台座に成田山とO家個人名表示があり二童子(こんがらどうじ・せいたかどうじ)もついています。年代は新しそうな石仏でしたが大切に信仰されていることが分かり安心しました。 
  26-3.木(野口)の愛宕神社 林を抜けると綺麗に区画された千葉ニュータウンの分譲住宅が広がります。愛宕神社は住宅1区画分左手奥に回り込んだところにあります。わずか7軒の氏子で創設されてきた神社が、宅地開発の波でこのような場所にこんな形で落ち着いた変遷を見てみましょう。境内左手に6基の石造物が並んでいます。左から宝暦十年(1760)不明石祠・明和四年(1767)天満宮・昭和14年山神宮・宝暦元年(1751)弁財天宮・明治15年三山塔道標となっています。山神宮は初見、日本石仏事典で探してみましたがあるいは「山の神塔」が該当するかもしれませんが詳細不明です。
  26-4.愛宕神社の庚申塚
神社参道右手に庚申塚があります。写真のように庚申青面金剛像塔が6基並んでいます。写真には載っていませんが一番左に明治14年猿田彦文字塔で、次から宝永六年(1709)六臂合掌、天保十二年(1841)六臂ショケラ持、明和元年(1764)六臂合掌、元文元年(1736)六臂ショケラ持、宝暦三年(1753)六臂ショケラ持、享保十四年(1729)六臂ショケラ持青面金剛像塔となります。何れも三猿付で平凡ですが写真をすこし載せておきます。庚申塔群はニュータウン団地造成で移されてきたのでしょうが、並べ方まで団地のように定型的では想像力のない役人仕事に思えてきてちょっぴり残念ですね。

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