2009/10/01

51E信濃 松本・四賀の石仏Ⅱ

今回は薬師堂から善光寺街道を会田宿に向けて下っていきます。
51E-1廣田寺の百体観音
前回途中で見送った廣田寺の参道のところまで戻れば名号塔や大典記念石柱が立っています。道路を降りていくと下の方に橋がかかりその向うに廣田寺の参道入口が見通せます。参道に石仏が並んでいるのが分かります。廣田寺は永正年間(1504-1521)の開基といわれ天明三年(1783)の山門にも六文銭の紋が記されています。六文銭は海野・滋野・真田の紋所で海野氏会田小次郎の菩提寺がこの廣田寺であることによるそうです。(日本石仏地図手帳長野編)。簡単な解説板があるので見ておきましょう。参道の石仏ですが百体観音で、寄付を募ったときに縁者の戒名(主に童子・童女)等を彫りこんだようです。いずれも明治四年~十四五年頃の造立です。地元の石屋で誂えたのでしょうか素朴を絵に描いたような観音様です。番号からは何処の札所か分かりませんが、状態のよさそうな聖観音・如意輪観音・馬頭観音・千手観音などを載せておきます。境内に入るとお馴染みになった六面地蔵石幢と天保十二年(1841)のお地蔵さんなど三体おられます。
門前に戻ると門前左は三界万霊塔や明治33年佐々木先生碑・筆塚がどっしりと立っています。門前右は天保十三年(1842)河原巳美塚?など顕彰碑でしょうか、目立つ石柱です。明治36年制定の長野県の定書・禁札が屋根のついた掲示板に掲げられています。定書の下部の英語「All  Rerson  are Prohibited・・」は最初からあったのかなあと感心しながら眺めていました。隣は太い石柱で支えられた石祠と大黒塔です。
尚、門前の橋を渡ってくる手前左の民家石垣傍に、二猿の元文五年庚申(1740)文字庚申塔が立っています。左塔=見猿・聞猿と右塔=聞猿・言猿が彫りこまれていたようですが写真をとり忘れたようです。(/□≦、)エーン!!

51E-2長安寺の筆子搭
廣田寺の門前道路を会田宿へ南下します。会田中学校の旧校舎の手前に岩井堂観音を管理する長安寺があります。信濃二十番鷲峰山長安寺の道標と、地蔵でしょうか頭部に石をおいた石造物が参道角に置かれています。参道を進むと途中に一基の青面金剛塔がありました。六臂合掌型ですが太い腕が力強く造形され力仕事は大丈夫と頼もしく思える庚申塔です。長安寺は大きな本堂があるがらんとした無住のようなお寺です。境内隅に燈篭の棹部のような石柱と五輪塔と無縫塔がポツンと置かれています。五輪塔には大きくキャカラバアの種子が刻まれています。よく見ると地輪の側面には「筆弟中造・・」と記されているので筆子搭としての造立と思われます。

51E-3会田宿・備前原入口(松本市役所支所傍橋袂)の道祖神
テキストの地名表示ですが道路事情が大きく変わっているのでグーグルマップで見た方がわかりやすいでしょう。潅木の下に10基の石仏です。右半分の写真ですが後列右端が肩抱手繋ぎの双体道祖神です。状態が悪く彫りも浅いため写真でも見辛いものとなっています。その左も双体道祖神ですが焼かれてきたのでしょうか像様がはっきりしません。写真手前の2基はいずれも馬頭観音と思われます。
下は左半分の写真ですが、後列右には文字道祖神碑があります。左の前後2基は馬頭観音碑です。真ん中の小さな石碑は「牛頭大日如来」と刻まれているようです。この地方では牛の守護神として大日如来が祀られてきたようですね。
51E-4会田宿の街並
会田宿は北国西往還(通称善光寺道)は中仙道を洗馬宿で別れ善光寺へ向かう街道筋の4番目の宿場町です。国交省長野国道事務所の案内で会田宿を勉強しておきましょう。海野会田氏の城下町がそのまま宿場町となった景観がその名残を残しています。道路の整備や民家の立替で風情が薄れていくようですが、軒先などに屋号を掲げる風習は今に江戸の名残を感じさせます。
又、「信州立峠・正薄荷(ハッカ)」看板が昔は蘭方(漢方でない)生薬扱いだった当時の名産を偲ばせています。51E-5両瀬大門・中村化成工業看板脇の善光寺常夜灯
会田宿を抜けて2kmほど進めば大門地区です。台石に大門中と刻まれた善光寺常夜灯が参詣人の道案内をしていたのでしょう。ちょっとメタボな如意輪観音様もおられます。文字道祖神も立っています。右端は普門品供養塔ですが種子がサクで勢至菩薩を表しています。女人講が造立したのでしょうか、よく分かりませんが普門品はふつう観音経の一節なので梵字涅槃点を除いた観音の種子サの方が収まりがよいように思うのですが、宿題にしておきます。

51E-6両瀬中川辻の十王堂
400mも進むと中川です。川久保商店の前で、立派な中川小学校の正門坂道の脇に十王堂があります。周りの石仏と正面に鍵のかかった格子板戸が無ければ、土壁の質素な納屋と勘違いしてしまいそうです。お堂の左は味のある延命地蔵です。お堂の右は享保十四年(1729)ちょっとメタボな如意輪観音です。ガイドブックに載っていた天明の如意輪様はこちらのことでしょうか。元禄の庚申供養塔はよく分かりませんでした。さて、十王堂の中ですが垣間見た石仏ワールドはこちらです。鍵のかかっている為入ることが出来ません。少し写真を拡大して左右に並べてみましょう。
ガイドにも乗っていますが稚拙な彫り、相当な古色との表現はそのまま当てはまります。右端は業の秤(ごうのはかり)というのでしょうか。日本石仏事典第二版によると「地獄の冥官のもとにあって、亡者の生前における善悪の所業を量るとされる秤で業秤(ごうびょう)とも言う」と出ています。亡者の生前の所業を映し出す鏡=浄玻璃(じょうはり)の鏡もはかりの上に丸くついています。
隣は見る眼・嗅ぐ鼻の人頭杖ですね。左端の白色少し大きい像はたれた乳房が見えるところから奪衣婆と思われます。十王仏は高遠の旧的場公民館裏と長藤中村・昌福寺でも既出でしたね。しかし勉強不足で誰がどの王なのかよく分かりません。中央は閻魔大王の本地とされる地蔵菩薩のようです。各王の手つきも可愛らしく、頭部も頭巾をかぶった宗匠のようでなんとものどかな雰囲気でした。

51E-7旧中川小学校前の地蔵菩薩
中川小学校はチャペルのようなとんがり屋根のある近代的な校舎です。正門に続く坂道の傍らに延命地蔵が立って、子供らの安全を見守っているようでした。合掌。
ひとまずこれにて伊那・信濃の遠足を終えることにしましょう。次回は柏市・旧沼南町の石仏巡りに戻りましょう。

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