2009/10/30

55E日光の石仏 庚申塔を中心にⅡ

前回は田母沢御用邸公園の北門から入り茶店で休憩。今回は正門へ抜けて南西方向に300mで浄光寺です。参道入り口脇に腰をすえているのは右・左の表示をした道標を兼ねた西国坂東秩父巡禮塔です。残念ながら私には表示先が読めません。

55E-1浄光寺の門前庚申塔
参道を30mほどで門前の石畳駐車場です。11基の庚申塔がずらっと並んでいます。読めないものもありますが右から11基を載せておきましょう。文政元年塔の左側面に「庚申供養塔十二基者自寛永至正徳・・」記載あり、この文政塔を含めて二基失われたことが分かるようです。特に寛永塔が失われて惜しいとのテキスト記載があります。
承応二年(1653)
元禄十年(1697)
天和元年(1681)
年不明(読めず)
文政元年(1818)
承応二年(1653)
承応三年(1654)
正徳四年(1714)
延宝八年(1680)
(年読めず)
(年読めず)側面の十二基記載
二猿庚申塔のパレードはどんなもんでしょうか。ちょっと、満腹ですね。
この庚申塔の後ろに向山天神さんがおられます。ちょっとお参りしてから山門へ向かいましょう。
なだらかな坂をあがる山門風景です。山門左に掲示されたお寺の解説を見ておきましょう。
山門右脇には宝永四年(1707)の石祠があって中に立ち姿石像がおられるようです。石祠の唐破風に赤い梅花が描かれているようで天神石祠らしいのですが、中の石像は杓持風でミスマッチですね。
山門を入ると左手に日光山最古の梵鐘(長禄三年=1459奉納)と庭に織部灯篭?が置かれています。Wikipediaの記述が不正確ですが織部式灯篭の項を参照ください。
参道を進んでいくと右に本堂が南面して建てられています。その脇の石灯籠に注目です。寛永十四年(1637)の庚申供養で立てられたものです。火袋は火口以外の五面が日・月・(三つ)星・猿・猿となっています。(テキストで言われるとそうかなあ)
他にも珍しい十九夜講中造立の石灯籠が奉納されています。墓地への入り口には憾満親地蔵御首なる地蔵の大きな首が祀られていたりします。こちらのお寺には「菅笠日限地蔵」や墓地奥にある「導き地蔵」もあって石仏で賑やかなお寺です。
八王子千人同心が二百十余年にわたり防火隊を勤めましたがその隊員に対する弔意の碑もあります。(Wikipediaによると日光勤番ですね。最近の研究によると千人同心は武士身分を否定され武家奉公人相当との認識ですね。)
その他に、日限地蔵の裏側に六地蔵六角石幢が2基あります。下の写真、手前が重制の石幢で鉄製の後生車がついています。左奥にも単制の六角地蔵石幢があります。まだまだあるようですがきりがないのでこの辺でお暇しましょう。

55E-2含満児童公園駐車場の庚申塔
浄光寺を下りて大谷川の橋をわたり含満児童公園までは約400m。含満の茶屋がある駐車場の緑地帯に5基の庚申塔と安永四年(1775)のお地蔵さんが立っています。庚申塔の左2基は寛政元年・寛政十二年の自然石文字塔で他所と変わりのないものです。続いて左から宝暦三年(1753)・元禄五年(1692)・貞享四年?はいずれも奉造立青面金剛尊二世安楽所のような典型的文言と下に二猿がついています。
児童公園の奥に大正天皇の御製歌碑があります。しかし歌碑の揮毫を選歌の時の手紙文字を用いているというのもちょっとびっくりですね。
そのまま大谷川沿いに遡ります。

55E-3滋雲寺の石仏
承応三年(1654)の創建になる滋雲寺は境内が大谷川沿いにあります。本堂から川沿いを見下ろす参道に石仏が並んでいます。七十数体の地蔵が並んでいますが、数えるたびに数が違うとか?大昔20年以上も前にこちらに寄った記憶がありますが、今見るとそれほど大きくないお地蔵さんに当時は大変感銘したことを懐かしく思い出しました。

55E-4磐裂神社の庚申塔
浄光寺参道入り口まで戻ります。参道を東へ150mほで進むとT字路となりその角が石垣を巡らした磐裂(いわさく)神社です。聞きなれない名前ですが、Wikipediaでは磐裂神の項で関連記載があります。又、栃木県図書館レファレンスで関連記載が載っています。寛保元年(1741)の明神鳥居をくぐれば緑のカーペットを敷いたようなこじんまりした境内です。社の前に解説板があるので読んでおきましょう。境内の写真の左手がT字路の道路側ですが、道路に沿って内側・外側に石仏が不ぞろいに立ち並びます。一番多いのはやはり庚申塔で14基です。内訳は日光では珍しい青面金剛像塔1基・二猿付青面金剛塔3基・文字青面金剛塔2基・文字庚申塔8基となります。
青面金剛像
延宝八年(1680)
紀年不読・下方二猿
紀年不読・上方二猿
この神社で一番目に付くのは道路沿いに立っている3mはあろうかという文化四年(1807)弁財天塔です。左は享保十三年(1728)文字青面金剛塔、右は文政七年(1824)文字庚申塔であります。当社には他にも巨大な聖徳太子塔・得大勢至菩薩塔・悪童みたいな不動明王像塔などもあります。ガイドブックに日光には珍しいと紹介された寛政十年(1798)文字道祖神は写真を載せておきましょう。
今回はこのくらいにして、次回は日光東照宮山内を観てみましょう。

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2009/10/22

54E.日光の石仏 庚申塔を中心にⅠ

突然ですが、秋空に誘われて日光へ遠足をしてきましたので忘れないうちにアップしておきましょう。テキストは「全国、石仏を歩く」と「石仏の旅東日本編」で、日光の見学コース執筆は庚申懇話会のS先生です。日光は石仏関係者ではいわずと知れた日光型(下野型)庚申塔の本拠地です。したがって拝観する石仏も圧倒的に庚申塔が多くなりました。テキストによると日光に260基余の庚申塔があるそうですが、今回はそのうち90基余りを見ることができ堪能してきました。テキストで述べられている日光型庚申塔の主な特徴を挙げておきます。(簡約記載)
1浮き彫りの日月がついている
2
向かい合った二猿で主に上部に刻造
3
鶏はほとんど見られず
4
青面金剛像塔が極少ない
5
基部に蓮華を大きく刻む
すべてがこれらの特徴を備えているわけではないですが、よく見られる特徴ということですね。今回も90基余の庚申塔を見ましたが、青面金剛像は1基だけでそれも庚申文言もなく極めて特異といった印象を受けました。

54E-1花石神社
日光駅からのバスは蓮花町バス停で下車します。西へ100mほどで花石町信号T字路交差点です。道路北側に石垣上に右「花石神社」石柱と左に十八王子常夜灯が立っています。石段を上り50mほど参道をすすめば明神鳥居のある花石神社境内です。鳥居の左前に若山牧水の歌碑と解説が建っています。又、鳥居をくぐれば名馬・焼加羅(たきがら)の碑がたっています。(ちょっと大袈裟すぎないかな?)
鳥居前の花石神社解説板で十八王子の内容もチェックしておきましょう。境内をみると下の写真、右の赤いお社が本社で左の鳥居奥は稲荷社ですね。写真中央下に浮き出ているのが享保六年(1721)二猿庚申塔です。拡大写真を載せますが、これはお猿さんが下に配置されています。先ほどの特徴的なものがほとんど当てはまっていますね。境内左側には文字庚申塔が5基(梵字庚申塔年代不明・嘉永五年・弘化五年・文政十三年・文化十四年)と「得大勢至菩薩」塔が並んでいます。又、稲荷社の参道にも先ほどの二猿庚申塔や天明五年(1785)と年不明梵字庚申塔・寛文九年(1669)文字庚申塔で計4基が存在します。本社右に昭和55年の庚申塔もあって、花石神社だけで10基の庚申塔を見ることができました。弘化五年梵字塔と古い寛文九年塔を載せておきます。
こちらには弁財天石塔もありましたが、わからなかったのは下の写真の明治15年石塔です。梵字塔みたいですが、さて何でしょう??正解は巳待塔(みまちとう、己巳塔=きしとう)です。梵字に該当なく己がシンボリックに書かれているのでしょうか?後の八幡神社で文字塔が出てくるので確認してください。日本石仏事典によると「己巳の日、またはその前日戊辰の日や巳の日などに、講中または個人で遅くまで起きていて精進供養(祭祀)をする行事を巳待という。本尊は弁財天・・・巳待塔の分布は・・青森では所々・・岩手では各地点在・・「金華山」・・秋田・・宮城は県北に120基・・山形は32基・・福島は点在・・栃木は県中央部一帯に分布・・寛延以降22基・・文字塔と弁財天・蛇の刻像塔がある」と詳しく載っています。

54E-2.蓮華石
花石神社の向かいに蓮華石史跡があります。観光がてら説明板と一緒に載せておきます。

54E-3八幡神社
花石神社から下ること300m、日光田母沢御用邸記念公園の向かいに八幡神社があります。通りに面して入り口脇に文化元年(1804)常夜灯が建っています。八幡神社の開創や寛永年間に社となった事などは解説板をお読みください。ちなみにここの二の鳥居は寛文八年((1668)の明神鳥居で結構古いものです。
ところで鳥居の貫と呼ばれる横木(石)の上に置かれている小石は一体なんでしょうね。
さて、境内の様子ですがまず一の鳥居をくぐった左手に石仏が散在しています。その奥の並びでも側溝を挟んで石仏石塔が2列で行列です。
左の写真では5基の文化・寛政年間の文字庚申塔・享和元年(1801)巳待塔・文政五年(1822)弁財天碑・年不明不動明王?碑が散在しています。左奥の常夜灯は寛政元年(1789)の建立です。手水石の奥に横たわる敷石状のものも庚申塔でした。そして奥に進むと右の写真で側溝を挟んで前後に石仏石塔が並んでいますが奥の2基は年不明の二猿庚申塔です。前列右が元文三年(1738)巳待塔です。上の写真で花石神社で見つけたシンボルをつけているのがわかります。
参道を挟んで反対側は12基の石仏です。文化元年(1804)摩利支尊天塔・元文三年(1738)反手如意輪観音塔・7基の二猿庚申塔・3基の文字庚申塔が並んでいます。摩利支天塔は修那羅峠の三面騎馬像塔(下の写真)が有名です。ちょっとピンボケ気味ですが猪に乗った三面六臂像です。一方、文字塔も比較的少なく日本石仏事典ではこの神社の石塔が採集されていました。
こうやって見ると二猿の位置が上と下で半々くらいですね。こちらでは都合17基の庚申塔を見ることができました。

54E-4釈迦堂
隣接するのが県指定文化財で天海僧正像が祀ってある釈迦堂です。山門左脇に萬治三年(1660)名号塔が屹立しています。
境内左に歴代住職の墓碑(無縫塔・地蔵塔)群とその奥に殉死家臣5基と譜代家臣19基計24基の墓塔が並んでいます。ちょっと怖い感じですねえ。
54E-5延命地蔵
釈迦堂の参道入り口右手に犬牽(いぬひき)地蔵尊なる延命地蔵さんが祀られています。謂れは解説板をご覧ください。延命地蔵大士と刻んだ石碑が印象的でした。
延命地蔵の道を隔てた向かいが田母沢の御用邸記念公園です。この中はトイレや茶店・床机もあって休憩に丁度いいですね。

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