2010/01/03

62.北総 柏・旧沼南町の石仏Ⅷ(金山)

前回の泉庚申塔群のY字路を左へ道なりに下りT字路を右に行けば金山の交差点信号に出ます。交差点右前方の高所が圓林寺です。信号を右折100m先の角をまがりトンネル状の足場をくぐれば左、消防小屋のあるところが圓林寺です。そして右の遊具のある公園が鳥見神社となっています。

6-1.圓林寺の十九夜塔
正式名称は愛宕山金蔵院圓林寺となっています。愛宕大権現(勝軍地蔵)を勧請して創設、神仏習合で合祀された云々と、本堂前に謂れが明記されているので読んでおきましょう。境内正面本堂を見ると、この解説板と結跏趺坐の大師像が並んでいます。境内右に(弘法)大師堂もあってちょっと迷うのですが、この露座の大師像は伝教大師最澄です。つまりこちらの寺は天台宗なんですね。珍しいので写真も上にアップしておきましょう。
さて、十九夜塔は本堂右横に二段に並べられている石塔列に交じっています。大部分は無縁の墓塔ですが、4基の十九夜塔と大瀧権現塔が見つかりました。上段の角に あるのが享保九年(1724)如意輪観音の十九夜念佛塔です。石塔群の東側正面となる中央、3段目に文政十年(1827)大瀧権現塔が立っています。昭和 51年には判読可能だったようですが、今はかすかに大?瀧?の字が読める程度まで荒れてしまっています。テキストの沼南町史では「瀧蔵権現」を祀る金華山塔であるとしています。日本石仏事典には「金華山は宮城県牡鹿半島の突端に続く島で、これをご神体とする黄金山神社がある。黄金山神社の信仰集団とし て金華山講があります。この講中が金華山供養塔を造立しています云々(要約)」との記載があります。
この大瀧権現塔の1列目右手前に寛政六年 (1794)如意輪観音像十九夜念仏供養塔があります。並びに貞享四年(1687)奉願十九夜念佛と刻んだ如意輪観音塔があります。テキストには種子がユ ウ(ヨウ)で普賢延命菩薩で無病長命を祈るものと解説されています。確かに他の十九夜塔とは違いますね。少し離れて宝暦元年(1751)如意輪観音像十九 夜塔がありますが、種子は聖観音・観音共通のサとなっていますね。
本堂横の2段石仏群
享保九年塔
寛政六年十九夜塔
貞享四年十九夜塔
宝暦元年十九夜塔
文政十年大瀧権現塔
赤子を抱いた観音菩薩像の右脇道を上がっていくと享和四年(1804)馬頭観音塔がぽつんと建っています。持馬の極楽往生を祈って種子カ(地蔵)を刻んだものであろうかとテキストでは推測しています。
境内を見てみると正面参道の左手に昭和42・43年百観音巡拝碑(西国・坂東・秩父)や相馬霊場No5、35番大師堂が建っています。参道右に昭和45・51年大師塔や昭和57年線彫大師像を刻んだ大師塔など賑やかです。
山門前にも大正二年光明真言塔や明治19年・31年弘法大師結願記念碑などがあったり、天保四年(1833)子安観音が祠内に大切に祀られたりしています。

6-2鳥見神社の庚申塔
道路を隔てた西側の高みにあるのが村の鎮守鳥見神社です。神明鳥居の正面参道には回らないで、今回は圓林寺隅の消防小屋の向かいにある細い石段から神社に向いましょう。この石段を登ると祠に祀られた不動明王にたどり着きます。安政四年(1857)造立で火炎光背をもつなかなか立派なお不動さんです。その右に角中型高さ1.4mの立派な文政十年(1827)出羽三山塔があります。頭部の端雲に浮かんだ月輪内に主尊湯殿・月山・羽黒と刻字し、三山大権現と主書している立派な石塔です。あまり見かけない珍品ですね。その先を鳥見神社へ進むと右に8基の庚申塔と3基の石祠が並んでいます。又、先ほどの出羽三山塔の奥に2基の庚申塔も控えています。
石祠3基庚申塔8基の列
少し離れて庚申塔2基
8基の庚申塔を右から記すと弘化四年(1847)・文政七年(1824)・文化九年(1812)の各三猿付文字庚申塔、寛延四年(1751)アーモンドヘッドの六臂青面金剛塔、安永十年(1781)・天明五年(1785)文字青面金剛王塔、寛政十年(1798)三猿付文字青面金剛王塔、嘉永五年(1852)三猿付文字庚申塔となります。次に上の右写真の庚申塔2基ですが、左は宝永六年(1709)六臂合掌青面金剛塔ですが、テキストでは種子キリーク(阿弥陀・如意輪観音等)と載せており通常の種子ウーン(明王部通種子)と異なり違和感があります。実物で確かめようにも天辺が破損していて不明。ウーン???右隣は明治39年の千庚申供養塔です。百を通り越して千庚申としたのは先見の明かなと思いますが、不謹慎ですが珍品ながらご利益は如何かと思ってしまいます。気になるものを写真で載せておきます。
寛延四年塔
千庚申供養塔
次に庚申塔の先にある3基の石祠ですが、右端の天宝十二年(1841)山神宮碑が判読できましたが、2基は不明。さて鳥見神社は民俗宗教の片鱗があちこちにこぼれていました。つまり、いろいろな石祠がぽつんぽつんと祀られているのですね。小さいながらも当時の村人の願いを込めて祀り祈られてきたことの証が残っているわけです。どのようなものがあるか見てみましょう。神社正面・昭和11年明神鳥居の左手には明治39年自然石型山神塔があります。上の写真にも山神が載っており、前回の泉庚申塔群隣の山神塔台石「樵人中」との表示もあったことから推測すると、このあたりは案外山林に囲まれた山里だったのではないのでしょうかね。
鳥居をくぐった参道左には昭和29年・35年出羽三山塔、昭和11年富士登山記念碑があります。鳥居右手も大正9年伊勢・桃山御陵・讃岐金比羅参拝碑・大正14年出羽三山塔もあって近代の村人の活発な団体旅行が読み取れます。
拝殿手前に少しはなれた出屋の中には金比羅大権現と石神大権現が併祀された文政二年(1819)石祠が祀られています。そしてその隣には庚申供養の小さな石塔が寄り添うように置かれています。本殿を左側から右回りに回ってみましょう。本殿横に文化十四年(1817)疱瘡神祠、本殿背後に慶応二年(1866)大六天塔があります。大六天についてはWikipediaをご覧ください。日本石仏図典245頁には「仏教では他化自在天を大六天とする・・又時に神代七代の第六番目にあたる面足尊を大六天神として祀る神社もあり・・明治以降高皇産霊尊を祭神として大六天社と称する場合もあり・・・おもに信濃、甲斐、相模、武蔵、上総、下総と一部東北地方に分布・・」と載せてあります。本殿右側に回り込むと年不詳の大杉祠、雷神祠、八幡祠が点在します。年不詳天神祠と駒形祠は小型の割りに分不相応とも思えるお堂に祀られています。この差は何でだろう?
金比羅・石神祠
庚申供養塔
文化十四年・疱瘡神祠
慶応二年・大六天祠
大杉祠(阿波大杉神社)雷神祠
八幡祠
正面天神祠、手前駒形祠
長居をしたようです。次に行きましょう。

6-3浅間山の浅間祠(私有地内です。畑地所有者の了解を頂きましょう)
鳥見神社を出て南西方向へ台地上の畑地の中の道を通なりに500mほど進みます。奥に青い屋根の納屋の見えるY字路を左に森の中へ入る道をとれば小山となっていてここが浅間山です。手前に男坂、反対側に女坂があり登ったところに文政十年(1827)浅間石祠があります。ちっぽけな何の変哲も無い石祠ですが、石祠の御参りにこの坂道を登る参詣人で随分にぎわったことでしょう。女坂を下りたところに下の写真のように立派な文政十年(1827)富士信仰塔が建てられています。浅間神社石尊大権現はWikipediaをご覧ください。「小御嶽石尊大権現・大天狗・小天狗」は定番の文言ですがこんな立派なものが道も消えかかった雑木の奥に忘れられたように祀られていて正直に驚きました。傍らに文政十年烏帽子岩も置かれています。初見ですが角柱で岩を表示する信仰心にもびっくりです。

6-4藤ケ谷ゴルフ場傍の庚申塔
地図に見当をつけてマークしていますが、自信の無いところです。ユタカ運輸の表示が目印でその先にBASという立派な敷地を有する施設があります。道路向かいで奥にゴルフ場プレハブが建っている雑木林の中に天保八年(1837)六臂ショケラ持青面金剛塔が立っています。頭部の蛇冠もはっきりとし持物の彫りもよいものです。台石の三猿もいたずらっ子のようで楽しいものです。

6-5共同墓地の丸彫観音像
圓林寺と鳥見神社の間にある道を北上して村中を縦断し、小川も突っ切って北上すること400m程で右に分かれる上り坂を上がれば共同墓地です。梨畑に囲まれた墓地の一番南端の秋谷家墓所内に、半跏趺坐(左膝を立てた)の寛文九年(1669)丸彫観音像が祀られています。沼南町史ガイドでは蓮座の大日報身真言と敷茄子の「為菩提也」から供養塔ではないかと推測しています。いずれにしても、珍しい石仏なので載せておきましょう。
金山地区はこれまでとしましょう。

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