2010/10/12

88北総石仏 我孫子の石仏 布佐Ⅳ

前回は竹内神社で足踏みしてしまいました。今回は細かい落穂ひろいみたいな感じですがちょこちょこと回ってみましょう。

88-1布佐一里塚跡
前回の竹内神社を出て国道356号を西へ400m、我孫子市東消防署の信号を過ぎるとコンビニ・ローソンが見えてきます。その手前の歩道沿いに石碑が佇立しています。


これが千葉縣が昭和9年に建てた一里塚跡石碑です。裏面に一里塚遺跡「一里塚ハ慶長九年徳川家康ノ築説ニ係ルモノニシテ・・・・里程ヲ明ラカナラシムルト共ニ行路往還ノ旅情ヲ慰メタルモノナリ」の表示が大きな字で刻まれています。我孫子市内では中峠と下ヶ戸に同文の一里塚碑が残されています。

88-2布佐共同墓地の石仏
更に西へ500mほど行くと南側に布佐共同墓地が広がっています。北側にも清陵苑墓地があるところです。入り口入ってすぐに、左右に分かれた六地蔵と3体の馬頭観音がおられます。荒涼とした感じで置かれているので何故かわびしさを誘います。お盆明けの訪問だからでしょう、宝暦二年(1752)六地蔵の前に新しい「先祖の腰掛」が置かれているのが目に付きます。
先祖の腰掛は関西や最近の墓地では見かけないなあと思ったのですが、よく考えるとその代わりに墓石の前などに腰掛石を置く墓地を見かけます。あれは参拝者の為のものと思っていたのですが、実はお盆などに還ってくる先祖の為の腰掛が原型なのではと自分なりに納得した次第です。
馬頭観音は左から享和二年(1802)寛政六年(1794)宝暦二年(1752)の3基です。
他には頭部にキリーク(阿弥陀如来)を刻んだ寛政七年(1795)大乗妙典日本回国塔がすっきりと立っていました。

88-3布佐下新田・稲荷神社の石仏
国道旧356号から成田線の踏切を渡って布佐下新田の村中を目指します。我孫子市民図書館分館前から356号バイパスに沿った村道を400m進めば赤い幟が目印の稲荷神社にたどり着きます。こちらは布佐下新田の産土神です。安永五年(1776)に相馬霊場41番伊予龍光院写しとなっておりそれ以前の創建です。敷地整備された南西の木陰に左側2列6基の石仏と、屋根葺替紀念碑など右に4基の石碑が並んでいます。
前列左から天明四年(1784)青面金剛塔・明和八年(1771)六臂合掌青面金剛像塔・明治17年1884)文字庚申塔です。明治の庚申塔は裏面に「夫庚申講発起先代安政六年(1859)・・・供養建石」となって発起から25年後の建立です。どの石も状態が悪く写真でも良く映らないのが残念ですね。後列は左から天明四年(1784)文字庚申塔・文政十年(1827)勢至菩薩像付二十三夜塔・文久二年(1862)如意輪観音塔(為安産之也と女人講中建立)となっています。

稲荷社の左奥にも三峰神社・水神社・天満宮など小物石祠が並んでいたり、大正6年鯖大師万人講石柱などが雑然と置かれていたりします。興味深いのは塀際に放置された新四国道標の片割れです。
「魚がし・貨物運送者?・・」との記載が、利根川・手賀沼舟運の盛んだった時代の名残を残しています。
88-4井上家住宅と開発済世碑
稲荷神社から更に西進すること500mで井上家住宅に着きます。
 
河岸の町布佐は又、手賀沼の新田開発の基地でもありました。新田開発の中心・井上家住宅は国指定有形文化財となっています。門前の解説板をご覧ください。
又、近くにその開発の経緯を記した3.2m高の開發濟世碑が立っています。日本海海戦の気象予報を出した後の第四代中央気象台長・岡田武松揮毫の碑です。「昭和三年・・相島耕地整理組合設立せられ故井上二郎翁・・・・・水禽の嬉∟遊泳に任せる原野今万頃の美田と化せり・・・」と格調高く続きます。

88-5浅間神社の石仏
更に村道を西へ200m進めば浅間神社入り口です。
道路向かいに浅間前自治会集会場があります。道路から15mほど石段をあがったところが社殿となります。当社は正保二年(1645)の鎮座といわれています。昭和8年改築の質素な社殿拝殿です。石仏は正面石段を上る右手に叢に埋もれるようにして5・6基が祀られています。
左からふっくらとした宝暦四年(1754)十九夜念仏如意輪塔・金太郎さんみたいな宝暦十年(1760)六臂合掌型青面金剛塔・文政八年(1825)文字庚申塔となっています。石段左には文化七年(1810)二十三夜塔がありますが「塔」の書体が異体字となっていて、大変興味深いものでした。
変わったところでは浅間塔というらしいですが、不二講中が作った石塔寄進碑が面白いです。特にシンボルマークが見慣れたものになっています。
天保八年(1837)疱瘡神石祠もなにか現代的なデザインみたいですね。
88-6観音堂の石仏
浅間神社の北西800mの布佐平和台団地の西のはずれに布佐台自治会集会所があります。もともと観音堂の敷地ですが、観音堂を挟んで左に大正二年「東京開運子供会」建立の石造稚児大師像を安置した稚児大師堂、

右には大師堂と石神堂が同居したお堂などが並んでいます。創建は不明ですが観音堂内には三面八臂で蓮華座上に立膝の木造馬頭観音が祀られています。
彩色され取れていた腕も修理されています。寛政九年(1797)光明真言供養の木碑もあると我孫子市史には載っていますが、どれでしょう?悪く言えば覗き見盗撮なので写真ではちょっと無理があるようです。

隣の石神堂の中は文政十一年(1828)石神大明神石祠を取り囲むように木製陽物が林立していました。信仰のなせる業ですが、知らずに覗き見るとぎょっとしますね。
さてお目当ての石仏石碑は整地された空き地に乱立しています。その数36基ばかりですが、墓碑が7~9基交じっていますが荒地に只置かれているだけのお姿で、このままでいいのかなあと心配になりました。
 内訳は庚申塔4(青面金剛像塔1・文字青面金剛2・文字庚申塔1)、十九夜如意輪観音像塔4、二十三夜文字供養塔2、馬頭観音3(像塔1・文字塔2)、大乗妙典日本回国塔3、出羽三山塔2、普門品塔1、疱瘡神石祠1、天神宮1、伊勢參宮記念碑1、新四国道標2などがあります。気になる石仏を記しておきましょう。    

文化元年勢至種子サク付
二十三夜塔でかっ!

明治13年三山式?
馬頭観音塔

出ました享保十四年
アーモンドヘッド青面金剛塔
 
寛政六年観音種子サ
観音経十九夜シンプルです
今回はこれくらいにしておきましょう。googleマップのポイントピンにサムネイルをつけました。

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