その前に前回の布佐下新田で1箇所追加掲載をしておきましょう。
88-6布佐下公民館の寒念仏塔
前回88-3布佐下新田稲荷神社のすぐ東方手前に墓地があるところが公民館所在地です。入り口すぐ左に墓地の守仏の六地蔵が墓標とともに並んでいます。その中に十九夜塔が2基あるそうですが、判別できたのは入り口すぐの文化十四年(1817)十九夜塔だけでした。
本命は居並ぶ小仏の奥におられる丸彫り延命地蔵(紀年不明)の右手前が載せておきたかった石仏です。我孫子市史金石文資料では宝永二年(1705)阿弥陀如来で「寒念仏一百○供養・・」と刻まれているそうです。資料収載写真ではそれらしき文字が読めそうですが、それから30年余の下の現物では全く判読不能でした。
89-1江蔵地・水神社の石仏
江蔵地は上・中・下屋敷に分かれていたそうですが上屋敷地区が今では堤防拡幅に取られ河川敷になってしまったということです。集落の端に広場を抱えた江蔵地自治会館があります(江蔵地703番地)。この敷地が水神社の敷地です。ブランコもある敷地ですが、中央に慶安二年(1649)創立で昭和60年に改築された水神社がこじんまりと祀られています。取手小文間(おもんま)から布佐台にかけての輪中水域の鎮守として水神罔象女神を祀った神社です。
神道系ではこの女神を祀り、仏教系では弁財天を祀ることが多いようです。水神罔象女神の解説を引用しておきましょう。
平凡社世界大百科事典には「日本神話にみえる神の名。水の女神。〈みずはのめ〉ともいうが,《日本書紀》神武即位前紀に〈罔象女〉をミツハノメと訓む注がある。ミは水,ツは格助詞,ハは〈早い〉の意。灌漑に用いられる水や火を鎮める水の霊能を神格化したもの。記紀神話では,伊弉丑(いざなみ)尊が火神を生み,病臥したとき,その尿に生まれた神とある。〈罔象〉は,たとえば《淮南子(えなんじ)》に〈水,罔象を生ず〉の注に〈水の精なり〉とある。」
敷地内は水神社と別に不動(明王)堂も並んでいます。そして石仏は塀際でお堂の間に整列してならべられています。石仏も雨風にさらされお肌も荒れてもいて、ちょっと味気ない(有難味のない)雰囲気ですね。
向かって不動堂の左(東)側に10基の石仏です。
元禄十三年(1700) | 文字青面金剛塔 |
享保三年(1718) | 十九夜如意輪塔 |
文政元年(1861) | 文字十九夜観世音塔 |
文化八年(1811) | 道祖神石祠 |
一方、不動堂と水神社の間は石仏8基です。
安永十年(1781) | 子安大明神像塔 |
不明 | 六地蔵2基 |
正徳四年(1714) | 不明石祠 |
文化四年など | 天神宮?他1基 |
文化九年(1812) | 馬頭観世音像塔 |
宝暦十年(1760) | 十九夜如意輪塔 |
安永十年子安大明神塔 |
文化九年馬頭観世音 |
宝暦十年十九夜念仏塔 |
後先になりましたが入り口に建てられている江蔵地自治会館の脇に大正八年の河川改修紀念馬頭観音塔(碑)が立てられています。我孫子市史民俗文化財編に「利根川の堤防工事ではトロッコを馬に引かせて土石を運搬したが、自馬をなくした者も無事だった者も心を合わせて此の観音塔を建てた」と馬持信仰の「いしぶみ」を記しています。碑面の河川改修の文字が哀れを誘います。
89-2 江蔵地三叉路の庚申塔
89-2 江蔵地三叉路の庚申塔
水神社前から200m程南下します。右手に墓地をみて水田の広がる三叉路に庚申塔が5基祀られています。焼香炉もない状況から見て整地の際に集められてきた流浪の涯の居場所のように思われて不憫です。
左から安永七年(1778)文字青面金剛王塔、宝暦十年(1760)六臂合掌青面金剛像塔、文政八年(1825)文字青面金剛尊塔、享保十年(1725)六臂合掌青面金剛像塔、文化三年(1806)文字青面金剛尊塔となっています。
左から安永七年(1778)文字青面金剛王塔、宝暦十年(1760)六臂合掌青面金剛像塔、文政八年(1825)文字青面金剛尊塔、享保十年(1725)六臂合掌青面金剛像塔、文化三年(1806)文字青面金剛尊塔となっています。
実はありふれた庚申塔ばかりなのですが、ガイド「我孫子の庚申塔」に左端の庚申塔台石に桃持一猿が刻んであるとの情報があり期待して出かけたのですが、残念無念。
写真のとおり台石まで地中深くに埋め込まれていて掘り起こすことが出来ません。桃持ち三猿なら79-2中谷津公園の庚申塔に例がありますが、一猿の桃持ちは初見で期待していたのですが・・・・・
89-3下新木自治会集会所(旧長福寺)の庚申五輪塔
JR成田線新木駅の北側100mの国道356号線沿いに旧長福寺があります。玉桜山長福寺の昭和6年製四角石柱が目印です。中には我孫子消防団第十七分団消防器具置場と火の見櫓があります。
元禄元年(1558)中峠(なかびょう)龍泉寺末として始まり明治元年に廃寺となった経緯にあります。本尊千手観音は昭和63年改築の薬師堂に寛文八年(1668)十五夜念仏供養薬師如来石造と共に安置してあります。敷地奥に下新木自治会集会場があって地域住民の公共施設にもなっています。
ところで消防信号をご存知ですか?火災を知らせる半鐘の撞き方ですが、こういう風に知らせるものだったのですね。
こちらは石仏の宝庫・穴場ですね。明治32年再建の大師堂と先ほどの薬師堂の回りに雑然と興味深い石仏がごろごろと20基近く並んでいます。
お目当ては、日本石仏協会編石仏地図手帖千葉編に載っている寛文十一年(1671)庚申五輪塔です。
覆いかぶさるアオキを押しのけて確認した地輪に明瞭に「奉庚申石尊建立之 東海道下総國・・・」と刻まれています。上部の文言「卍佛法僧宝 烏八臼(うはっきゅうの合字)」も明らかです。
日本石仏事典によると、「烏八臼(うはっきゅうの合字)は室町時代末から江戸時代中期墓標にみられ曹洞宗・浄土宗関係に多く見られる。字義は諸説あるが、有力説はこの文字がカン・タンの変形字で梵字タンを漢字に表したものという。随求陀羅尼経にも見え、滅罪成仏の功徳・吉祥成就・成究意などを表すと説かれている。」
次に注目は天和二年(1682)阿弥陀如来十五夜塔です。碑面右に「総州沖田村信女同行五十八人十五夜間・志念佛造立此一基以■供養」と刻まれています。我孫子近辺では84-2地蔵堂の聖観音・勢至観音十五夜塔が出てきました。白井市・沼南地区では見かけず、印西市の21-1泉集会所の十五夜塔を記した程度です。十五夜講という月待信仰の偏在というか存在の不思議さを実感しますね。
上の写真では十九夜塔が多いのですがその中に天保十三年(二十六夜)愛染明王塔が交じっています。これは文字塔ですが、我孫子地区ではこれから二十六夜の愛染明王像塔が沢山出てくるので楽しみです。写真の左から2基目は元禄九年(1696)文字青面金剛塔ですがシンプルで素朴な形が変わっていますね。
境内に入ってすぐに榊八幡大菩薩の石額を掛けた鳥居があります。祀られているのは明治18年「奇客人神霊」なる文言を刻んだ石祠です。昔、榊原某の埋葬首を供養し祀ったとの言い伝えですが本当に「なんじゃらほい?」
境内の大師堂は方一間、正面唐破風の明治32年の瓦葺堂ですが壁面の素晴らしさに見とれてしまいます。市史には壁面は十六羅漢を表すとの記載があります。一挙に十六羅漢さんを載せてしまいましょう。Wikipedia解説をどうぞ。
今回はこれまでとしましょう。下の地図はマイナスボタンで縮尺を拡大すると他のピンも表示されます。
写真のとおり台石まで地中深くに埋め込まれていて掘り起こすことが出来ません。桃持ち三猿なら79-2中谷津公園の庚申塔に例がありますが、一猿の桃持ちは初見で期待していたのですが・・・・・
89-3下新木自治会集会所(旧長福寺)の庚申五輪塔
JR成田線新木駅の北側100mの国道356号線沿いに旧長福寺があります。玉桜山長福寺の昭和6年製四角石柱が目印です。中には我孫子消防団第十七分団消防器具置場と火の見櫓があります。
元禄元年(1558)中峠(なかびょう)龍泉寺末として始まり明治元年に廃寺となった経緯にあります。本尊千手観音は昭和63年改築の薬師堂に寛文八年(1668)十五夜念仏供養薬師如来石造と共に安置してあります。敷地奥に下新木自治会集会場があって地域住民の公共施設にもなっています。
ところで消防信号をご存知ですか?火災を知らせる半鐘の撞き方ですが、こういう風に知らせるものだったのですね。
こちらは石仏の宝庫・穴場ですね。明治32年再建の大師堂と先ほどの薬師堂の回りに雑然と興味深い石仏がごろごろと20基近く並んでいます。
お目当ては、日本石仏協会編石仏地図手帖千葉編に載っている寛文十一年(1671)庚申五輪塔です。
覆いかぶさるアオキを押しのけて確認した地輪に明瞭に「奉庚申石尊建立之 東海道下総國・・・」と刻まれています。上部の文言「卍佛法僧宝 烏八臼(うはっきゅうの合字)」も明らかです。
日本石仏事典によると、「烏八臼(うはっきゅうの合字)は室町時代末から江戸時代中期墓標にみられ曹洞宗・浄土宗関係に多く見られる。字義は諸説あるが、有力説はこの文字がカン・タンの変形字で梵字タンを漢字に表したものという。随求陀羅尼経にも見え、滅罪成仏の功徳・吉祥成就・成究意などを表すと説かれている。」
次に注目は天和二年(1682)阿弥陀如来十五夜塔です。碑面右に「総州沖田村信女同行五十八人十五夜間・志念佛造立此一基以■供養」と刻まれています。我孫子近辺では84-2地蔵堂の聖観音・勢至観音十五夜塔が出てきました。白井市・沼南地区では見かけず、印西市の21-1泉集会所の十五夜塔を記した程度です。十五夜講という月待信仰の偏在というか存在の不思議さを実感しますね。
上の写真では十九夜塔が多いのですがその中に天保十三年(二十六夜)愛染明王塔が交じっています。これは文字塔ですが、我孫子地区ではこれから二十六夜の愛染明王像塔が沢山出てくるので楽しみです。写真の左から2基目は元禄九年(1696)文字青面金剛塔ですがシンプルで素朴な形が変わっていますね。
境内に入ってすぐに榊八幡大菩薩の石額を掛けた鳥居があります。祀られているのは明治18年「奇客人神霊」なる文言を刻んだ石祠です。昔、榊原某の埋葬首を供養し祀ったとの言い伝えですが本当に「なんじゃらほい?」
境内の大師堂は方一間、正面唐破風の明治32年の瓦葺堂ですが壁面の素晴らしさに見とれてしまいます。市史には壁面は十六羅漢を表すとの記載があります。一挙に十六羅漢さんを載せてしまいましょう。Wikipedia解説をどうぞ。
今回はこれまでとしましょう。下の地図はマイナスボタンで縮尺を拡大すると他のピンも表示されます。
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