2012/11/28

147 房総の石仏二百選 野田の石仏

浦和の石仏遠足を終わり、「房総の石仏」に戻ります。野田市は舟運の要衝であったこともあって近世は早くから開け、人口集積もすすみ石仏文化(勝手に名づけました)が豊かに残っているところです。ガイドブックの「房総の石仏百選」(正・続の2冊)にも種々の石仏がリストアップされています。
147-1 羽黒神社の摩担利神塔
野田市中里の羽黒神社に、赤痢の疫病封じを祈願したこの摩担利神塔が祀られています。農地の縁にある石鳥居の階段を上り、赤い木鳥居をくぐれば神社左に石塔石仏が点在しています。
石鳥居右にも庚申塔などが並んでいます

聞きなれない神名ですが、ガイドブックによると「孔雀経の女夜叉で行疫神」と解説があります。明治30年この地を襲った疫痢大流行の際に、周辺で14基ほど勧請されたと記載されています。
明治30年摩担利神塔・赤痢流行の八月建立です
  孔雀経は毒蛇を食す孔雀を神格化した孔雀明王を本尊として修する秘法で、諸病・三毒(貪瞋癡)消除・息災延命・請雨止雨などに祈祷されました。同曼荼羅 に二十四薬叉(やくしゃ)が描かれているそうなのでその一種かと推察しますが不明です。日本石仏事典第二版に摩担羅神(またら)の索引はありますが、記述 が見当たらずでまさに「複雑怪奇で迷路に入り込む」ようです。
境内には他に、文久二年(1862)百観音巡拝塔・天明二年(1782)大杉明神塔や重量刻印のついた力石などが置かれています。
上の写真石鳥居右に並ぶ庚申塔など8基の石仏を載せておきます。
右から明治17年馬頭観音/天保三年・十一年・嘉永四年・万延元年・文政八年庚申塔
ここの記述は漢字が多くて我ながら読みにくいですね、はんせい!!
147-2 舟形・香取神社の石見守(いわみのかみ)感恩塔
野田市のガイドブック野田紀行にものっている有名な石塔です。参道の石鳥居右手前に石祠が角柱台座にのってたっています。
鳥居右手前が石見守感恩塔です

寛政四年(1792)から房総三牧の野馬奉行として村民から善政を慕われてこの塔が建てられました。
正面には岩本仰喜殿と記されています
 岩本石見守正倫という名前ですが、どうやらその善政に感謝し信仰を怠らないように「仰喜」を神の名前として標したようなのです。(私見ですが)
裏面には造立理由が225文字で記されています
裏面は「 右仰喜殿之謂傳・・・・御慈悲双百姓相助難有仕合則来世為冥加乍恐百姓共拝禮・・・末葉至迄謹信仰不可怠・・・」と記されています。

 我が房総石造文化財研究会の機関紙第22号に、石田副会長が「生祠・石見塔と小金牧周辺の山神塔」を発表されています。それによると石見塔は柏・流山・野田で計4基が確認されていますが、単なる報恩感謝でなくて生き神様を祀る生祠であることを証明されています。
①柏市大青田円福寺・岩見大権現②野田市中里愛宕社・石見守③当社④流山市長崎天形星神社・岩本大明神 がその4基です。
①岩見大権現と記され、脇に和歌がしるされています。(No.139-2柏市円福寺 既出)
2010年10月に柏・円福寺で見たときは「岩見大権現」とは変わった石祠?と思いましたが、2年後にやっと氷解してやっぱり石仏は楽しいなと実感ですね。
当社には他に 庚申塔が石見塔の前のほうに3基並んでいます。
右手前から文化十二年庚申供養塔・寛政八年青面金剛・文政七年庚申塔
いずれもお猿さんが可愛いいですが、左の文政七年塔を載せておきます。
中央は異体字庚申塔で右は剥離されています
とりあえずここまでとしましょう。
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