2023/02/27

25.北総石仏 白井Ⅲ

折立・熊野神社から16号線を千葉方向へ行けば200m程で、西白井駅入口のT字路交差点です。北総鉄道西白井駅まで約2.5kmです。駅に戻る場合は右折した広い道を600m程で白井循環バス・七次台小学校バス停が利用できます。 今回の白井シリーズは一筆書きのように連ねて書き進んでみます。アクセスに関してはGoogle地図等で適当なバス・鉄道などをご利用ください。 25-1.木(所沢)の16号馬頭塚 16号沿いに西白井駅入口信号から約500mで向かいに交番のある信号に出会います。X字で道路が交差しています。交差点で右折すれば右側すぐに金網で囲まれた墓地になっています。馬頭塚は墓地のはずれに移されていました。右折すぐに金網越しで写真のように見えます。中に入ってみましょう。下の写真で後列5基、前列4基に並んでいます。まず、後列左端は明治40年(1907)「出征軍馬頭観音之塔」となっています。この地は江戸時代から中野牧・印西牧に囲まれ馬と身近に暮らしていた情景が浮かび上がります。日露戦争に供出された軍馬もさぞ多かったろうと思います。尚、この馬頭尊は道標でもあり、「西ハ中水戸道」などと刻まれています。次が文化九年(1812)馬頭観音刻像です。その隣の黒い駒形石仏は昭和6年牛頭観世音です。あまり見かけませんが、牛さんにも大変お世話になっていた時代だから感謝の気持でしょう。 その隣は「木青年團」で建てた「白井ヲ経テ木下方面」等が刻まれた昭和6年道標です。後列右端は低くて見辛いですが、年不明の庚申講中で建てた庚申道標です。 前列左端は墓標につき割愛。次が昭和15年コンクリート製角柱の馬頭観音文字塔、享保十五年(1730)像剥落石仏、年不明文字馬頭となっています。 25-2.白井交番裏の石仏 16号馬頭塚の交差点信号を渡りX字道路を北進してすぐ右手に集会所(薬師堂公民館)のある空き地となっています。おくの壁際に石仏が無造作に転がっています。真中の首まで埋まっているのは安永七年(1778)十九夜塔、隣は元文四年(1739)地藏塔です。墓碑も転がっているので要注意です。この写真の左並びには市内でも古い寛文十二年(1672)が無造作に置かれています。市内の石仏界でも一番の旧家なんですが環境がぱっとしないせいでしょうか、ちょっと不遇な扱いですね。こちらは犬供養卒塔婆が置かれた昭和18年子安観音ですが、戦時中のためか栄養失調に見えませんか?他にも天保十二年(1841)出羽三山供養塔や明治26年馬頭観音などもあります。 25-3.木(所沢)の鷲神社下の庚申塔群 16号交差点を渡り返し次の信号まで東進します。そして信号を右折200mで角に鷲神社の鳥居と石段があります。鳥居の並びに庚申塔など30基が横に並んで勢揃いです。この写真の左に石の鳥居と鷲神社への石段が続いています。石造鳥居は左柱に宝暦九年(1759)と刻まれた明神鳥居です。鷲神社本殿と共に市有形文化財に指定されています。解説も載せておきます。解説には「23名の芳名と石工の名前が記載」と書かれていますが、それは左柱だけの記載で右柱にも27名と講中の記載があります。(初心者ですが)石仏関係者としてきちんと書いて欲しかったのは「庚申講中 同行十三人 十九夜講中 同行二十人 同行四十七人」が名を連ねているところですね。(石造物調査報告第一集)右柱側面外側に記載があるので、閑と興味のある方は確認しておかれると面白いですよ。だけど、鷲神社には十九夜関係の石仏は1基もないのはどうしてでしょうか?神仏分離で移設されてしまったのでしょうか不思議なことです。ついでといっては何ですが、これも分からない石祠なので載せておきます。いつか分かる日が来るかもしれません。御手洗(みたらし)石祠で昭和48年製であります。日本石仏事典にも載っていないし。 居並ぶ中で読み易い石造物を見ていきましょう。新しくて見やすい昭和2年三山塔(月山・羽黒山・湯殿山)ですが「大々御神楽奉奏参拝記念」とついています。「大々神楽等」の石碑を伊勢講碑ではよく見かけますが三山塔では初見です。側面に「風間を経て鎌ケ谷村ニ至ル」と道標にもなっています。この道標の手前にも昭和6年木青年團が建てた「當区ヲ経テ白井役場」道標があります。左側面は「風間ヲ経テ鎌ケ谷方面」と刻まれています。25-1.16号馬頭塚にも木青年團が建てた道標がありましたが、この道標もそのときの一連の道標でしょう。 上の写真は享和三年(1803)庚申塔ですが左側面「行とく道」右側面「松戸道」と刻まれた庚申道標です。又、台座の三猿の図柄脇にも「東 白井へ」と表示されています。行徳道は今の木下街道を指すと思われます。松戸道も鮮魚道(なまみち)と呼ばれた道と思われますが「東 白井へ」の台座との整合性からこの道標は一体どこから移されたんだろうと不思議です。あるいは別々のものの可能性が大と思えます。 こちらは享保十九年(1734)六臂合掌青面金剛ですが左手第一手がマサカリ持です。輪宝持は良く見かけますが儀軌にない形です。 上の写真左は宝暦十二年(1762)二十三夜供養塔で頭部に勢至菩薩像を頂いています。中央はこの石仏群で一番古い寛文十年(1670)庚申三猿塔です。右は明治43年文字庚申塔で実に素っ気無いですね。 上の写真は文化十三年(1816)ショケラ持六臂青面金剛です。像塔と台座は別物でしょうが面白い三猿なので拡大しておきますが、扇子持ちは諏訪神社でも見かけたような気がします。 この庚申塔群の中、右端から2番目に明治7年道祖神がありますが「道御祖神」と丁寧に刻まれていますが初見ですね。鷲神社下の石仏群はこれくらいにして、石段を登り神社境内を見てみます。右手は文政五年(1822)手水石や明治10年の御神燈・大正13年~昭和41年の伊勢両宮大々御神楽奉奏記念碑が4基並んでいます。伊勢参宮がこの地区では盛んなようですが何故「大々御神楽奉奏記念」というのか調べておく必要がありますね。宿題です。 次に境内左手、本殿社屋の左に石祠が5基・木祠1基が並んでいます。左から不明木祠、明治3年牛頭天王・延享三年(1749)天神宮・寛政九年(1797)天神宮・安永四年((1775)疱瘡神・大正3年阿夫利神社となっています。疱瘡神は興味あるものなので結構載せていますが、ご容赦。次の石仏は予想外の貴重な収穫でした。初登場かもしれません。木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)といって富士信仰(富士講)のシンボルです。天辺の日月を抱えた富士山が素晴らしいですね。像塔では県下で本碑と野田市にある丸彫り像塔(房総の石仏百選)のみの稀少石仏です。傍らに富士信仰を裏付ける石碑が付随して建っています。「小御嶽石尊大権現・大天狗・小天狗」の表示も貴重です。残念ながら造塔年不明です。以上で鷲神社を終わりにしたいところですが、入口の掲示にもあったように、社殿の造りも立派なのでちょっとだけ載せておきます。今回はこれまでとしましょう。

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