今回の遠足コースには石仏としては異色な岩船地藏の拝観が入ります。では前回からの続きで都道36号保谷志木線の福祉会館入口交差点から出発します。
28E-1如意輪寺の石仏群
交差点を過ぎてまもなく右手に如意輪寺の山門が見えます。
山門の写真左端に見える白壁は戦没者慰霊地蔵尊(昭和38年)が祀られています。
その隣に小さい木堂が並んでいます。その中には後ほど解説板④番で説明される宝暦四年(1754)青面金剛塔が収められています。
山門を入り右手の墓地へ向かう手前角に三体の石仏と解説版があります。
詳しい解説が載っているのでじっくりお読みください。手前右から①番宝暦三年(1753)六十六部廻國塔、
②番元禄十四年(1701)笠付合掌型青面金剛塔、
③番寛政四年(1792)西国坂東秩父百観音巡拝塔が並んでいます。地藏を刻像している巡拝塔はなかなかお目にかかれません。
そして解説④番の青面金剛塔は先ほどの戦没者慰霊地藏の隣のお堂に祀られていた青面金剛塔です。
この石仏の斜め前には三界萬霊と表示のある安永八年(1779)地藏を主尊に六地蔵が並んでいます。
更に墓地入口の角にも石仏がお迎えです。左から享保十七年丸彫り地藏、元禄十二年(1699)延命?地藏、天保四年(1833)文字馬頭観世音がお立ち台におられます。
更に墓地に進むとさぞかし立派な墓標仏もおられるとは思いますが、石仏信人の方針によりこのあたりで如意輪寺さんはおしまいにしましょう。
28E-2宝樹院の弁財天
如意輪寺を出て泉小学校を過ぎて次の信号を右折し、次の角をまっすぐ南下すれば右手に宝樹院の参道がある。参道の右手に手水舎があり蛇口に弁才天がおられます。
剣と宝珠を持ち頭上の鳥居は弁才天のお約束ですが、彫が素朴でして失礼ながらちょっと期待はずれの気がして今はその当時の不遜な気持を反省しながら書き綴っております。
お寺の正面はこんな具合です。
本堂右の赤い幟に垣間見えるのは頭デッカチ(頭が大きくて賢明)現代の弘法大師像であります。
本堂横に六地蔵と下の写真のような宝暦八年(1758)四国西国坂東秩父巡拝塔があります。
この巡拝塔はキリーク・サ・サクの弥陀三尊を頭部に刻み正面も現當為二世安楽とご利益の期待が一心に込められているようです。
宝樹院を出て南下を続けます。
28E-3榎庚申堂の青面金剛
泉1・2丁目と本町1丁目の交差する三叉路に榎庚申堂があります。
庚申堂は新しく堂内に折鶴もあって大切にされているのが分かります。米軍空襲で向かって右の上・下手と左の下手の3本の手を失っています。青面金剛の丸彫りは珍しく、それだけに傷痍軍人ならぬ傷痍金剛に哀れを誘います。
詳しい解説はこちらをご覧ください。
28E-4岩船地藏
榎庚申堂から一つ南の角を左折し、信号を越して行くと右手に豆腐屋があります。その前の平野氏住宅のブロック塀の並びに岩船地藏が祀られています。
享保四年(1719)造立で舟形の台石に乗っています。この時期に栃木県岩舟町高勝寺の岩船山地藏念仏と称して大行列で村から村へ送られた宗教現象に由来してこの時期だけに建立されました。流行した地域・時期限定地藏であります。
詳しい説明は解説板をご覧ください。
これと似た現象は利根川流域で見られる大杉神社・アンバ様の巡回と思います。詳しいことは北総石仏で改めて調べてみようと思います。
28E-5西武柳沢駅東信号の庚申塔
岩船地藏を後に都道36号の信号に出て南下します。新青梅街道を横切り富士街道の交差点西武柳沢駅東の信号まで来ます。角に庚申塔と廻國塔が祀られているお堂があります。
正面は金属のアーチと門灯がかっこいいしお花も供えられて大切にされていますね。
右の青面金剛は笠付三面合掌型と思われますが磨耗して像容がはっきりしません。宝永六年(1709)造立です。六十六部廻國塔は享保五年(1720)で頭部にキリーク・サ・サクの弥陀三尊種子を頂いています。
28E-6富士街道の六地藏石幢
この信号を右折すれば西武柳沢駅前商店街の通りです。駅の入口を通り過ぎて商店街を通り抜ければ商店街入口アーチの先、左手踏み切りのところに六地蔵石幢があります。
踏み切りを渡る道は所沢から富士街道と交差して深大寺に向かう深大寺道で武蔵野を横切る主要道路だったそうです。
六角柱の上部に六地蔵、幢身は「東ハねりま道・・」と道標になっています。
寛政七年(1795)の造立です。当時の賑わいはどんなだったのでしょうか。
以上でひとまず、多摩の遠足を終えて西武新宿線で帰ることにしましょう。
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