路傍や社寺の片隅にある石造物に心惹かれて。 出来ないことを数える人生でなく、出来ることを数える人生を歩みたいと思います。ホームグラウンドの房総の石仏(主に北総)を巡ります。時々Eシリーズで近県へ遠足拝観を行います。文末の地図は拡大表示ができ、マークをクリックしてごらん下さい。 このブログは筆者の備忘録のつもりで記載を始めたものです。東日本大震災前の記録も多く、現状と相違している場合もあるのでご承知願います。 10年ぶりに見直したところ、Google地図が仕様変更となって、地図のリンク切れが散見されました。分かる範囲で復旧するつもりですが、更新記事は地図再掲のものが主となります。
2009/03/18
29.北総石仏 白井Ⅴ
愛宕神社から西に向かうと七次台団地です。県道191号線バス通りを1.5km南下すれば北総線西白井駅となりますが、今回は愛宕神社から引き返してNo.26の地蔵堂(大集会所)まで戻ります。ここから集落の縁沿いに700mほど進めば宝幼稚園長楽寺のある道に出て右に切通のような坂道を登ります。
29-1長楽寺墓地向かいの馬頭塚
切通状の坂の右手に石造物調査報告に出ていない馬頭塚がありました。いつもは車で通り過ぎてしまい石段があるのに気付きませんでした。全部で10基、文字馬頭9基と馬頭観音像塔1基です。左から明治42年・昭和16年・年不明馬印付正面剥落の文字馬頭・明和三年(1766)馬頭観音刻像・元治元年(1864)・昭和18年・昭和32年・享和元年(1801)・昭和63年・大正15年となります。拡大して見ると写真中央は元治元年馬頭観世音で左が馬頭観音刻像です。この塚の後ろは潅木のなかに畜生塔婆が何本か立ててありました。ペットの供養なのでしょうか?29-2.長楽寺墓地の庚申塔
坂道を上りきる手前を左に入ると長楽寺の奥に連なる墓地となります。整備されて砂利道が明るい墓地の中を貫いています。砂利道を入ってすぐ左側に延享二年(1745)六十六部供養塔がぽつんと建っています。右上部の破損が痛々しそうですね。更に墓地を進むと右手の整備されたU家墓地の前面にぽつんと安政五年(1858)「南無阿弥陀仏」石塔が建っています。どういう謂れでしょうか気になるところです。更に進むと左に彫の良い寳永七年(1710)六臂合掌青面金剛が墓地全体をガードするように起っています。頭部に種子を二つ、アーンク(胎蔵界大日如来)とバーンク(金剛界大日如来)を頂いていて如何にも強そうです。29-3長楽寺の石仏
墓地から長楽寺まで戻り、正面の参道から入ります。参道入口に享保六年(1721)六地蔵が立っています。かなり風化していて石造物調査報告に書かれていた「おまつ おたけ・・・」など女人達の名前は読めませんでした。でも、ほとんどすべての女性名が「お」で始まる三文字銘なので語呂合わせみたいで可笑しかったですね。おせん・おたく・おさい・おつる・おつま・おくに・おかよ・おはま・おきん・おみや などなど。嘉永三年(1850)の延命地藏さんもおられます。本堂正面右手に三面大黒様がおられます。失礼ながら漫画「黒いセールスマン」を想い出させる風貌です。解説もお読みください。次に本堂左手は恵比寿さまです。大黒様の兄弟かなと思わせるほど体型が似ています。解説もご一緒にお読みください。29-4七次(ななつぎ)・天神八幡宮の庚申塔
長命寺の本堂を左に抜けると天神八幡宮脇の小道です。その小道の八幡宮に沿って庚申塔が7基ならんでいます。左から元文四年(1739)六臂ショケラ持青面金剛塔、文化八年(1811)青面金剛文字塔、安永二年(1773)六臂合掌青面金剛塔、次に文政十年(1827)青面金剛文字塔となっています。その後に天保十年(1839)文字塔、嘉永三年(1850)六臂ショケラ持青面金剛塔、寛政十二年(1800)文字塔が写真のように並んでいます。なっています。面白い三猿を載せておきますので、どの石塔が該当するでしょうか?
順番が逆になりましたが、こちらが天神八幡神社の本殿です。源頼朝の愛馬生月(いけづき)がまだ地元で八幡と呼ばれた頃、此辺りで遊んでいたとも伝えられ、その縁で後年になって生月が八幡神社に祀られ延宝五年(1677)天神社と合祀された由緒があります。八幡神社で馬を直接の祭神とする全国的にも極めて珍しい神社です。(白井郷土資料館発行「白井の伝説と文化財」より引用)
そして此鳥居に到る参道の入口には明和九年(1772)二十三夜塔が参道中央にありました。種子サクを刻んだ勢至菩薩ですが、石造物調査報告での聖観音像の記載は誤記でしょう。
さて、見た目にはつましい本社ですが境内石造物は結構意味のあるものが並んでいます。本社の両脇にならんでいる灯篭は「斎講中」いわゆる斎念仏=時念仏の信仰集団が寄進したものです。利根川流域は同時に多くの念仏講が盛行した地域で、時(斎)念仏・百堂念仏・寒念仏・夏念仏・日記念仏・各(隔)夜念仏・一億念仏・千日念仏・二千日念仏・二百日念仏・常念仏・四十八夜念仏・十四日・十五日・十六日念仏などの念仏塔が残されています。(榎本正三氏の「女人哀歓」より引用)このうち時念仏塔が最も多いようです。
写真の常夜燈は年不明ですが、写真の左棹部に「當村時斎講中」と刻まれています。日本石仏事典によると「トキに”斎”の字を当て、仏教では食事のことをさすから食事を伴った念仏講とも解せられ仏前における共同飲食に特別な意味が含まれていたかもしれない」と解説されています。又、時念仏に表示される種子像容のすべてが湯殿山本地の大日如来であるところから此地方の時念仏の源流は湯殿山(修験)に求められるとの解説もありました。一つ賢くなりました。
本社の後ろにも7基の石仏です、色々な像塔が集まっておられます。こちらは右から3基目の石仏です。頭部種子がアーンクで羽黒山供養とかかれていますから胎蔵界大日如来像でしょう。明和九年(1772)からここに座っておられたのでしょうか。右隣は下の写真ような石仏でした。今後の柏市を巡ると良く出てくると思います。文政二年(1819)の正徳太子像です。
左から2基目も明治29年(1896)の正徳太子です。ちょっと雰囲気が違いますが文政のほうが若々しいようですね。7基の中央は下の写真のような湯殿山供養塔で天保十五年(1844)です。右端には天保六年(1835)足尾山石祠がありましたが、足尾山大権現についての信仰勉強はまた別の機会としましょう。
29-5.七次の大日神社の石仏
天神八幡神社の隣がこの大日神社ですが、本当はこの大日神社がメインで天神八幡神社は居候の立場です。延宝五年(1677)に七次村の産土様(うぶすな)として勧請されたようです。秘仏石造金剛界大日如来が左右逆手の智恵印を結んでいる写真と神社の詳しい解説が「白井の文化遺産史2004」(鈴木普二男氏著)に載っています。
写真のようにこちらも盛り沢山です。入口には天保五年(1834)手水石、慶応二年(1866)石造鳥居、昭和44年明治百年記念富士塚上狛犬などが見えます。本殿左には雨囲いの中に大日如来石塔が3基、左から明治16年、天保十年(1839)、寛政五年(1793)とならんでいます。右側は文政五年(1822)大杉大明神石祠です。今まで話題にしなかったのですが、この大杉大明神は利根川流域ではポピュラーな神様ですが全国的にはローカルな神様なのでご存知でない方もおられるかも知れません。概略は大杉神社を参考にしてください。北総では疱瘡神としてのご利益から「これは大杉明神、悪魔を祓ってヨイヤサ」とアンバ囃で疫病送りをされた歴史があるようです。(榎本正三氏著「赤の民俗」)
鳥居をくぐって左側の石段を登ったところにも同じような雨囲いに天保七年(1836)妙正大明神がおられます。こちらも疱瘡神のご利益で名高い神様です。日蓮宗系の疱瘡神で千葉県市川市北方(ぼっけ)の日蓮宗妙正寺の宝暦三年(1753)妙正大明神縁起に由来するところが大きいと書かれています。造塔と同時期の天保七年(1836)「妙正池の記」「江戸名所國絵」など関係資料が著されています。(以上「赤の民俗」から房州石造文化財研究会綿貫氏論文引用を参考)
大日神社は周りには庚申塔や現代の出羽三山塔がまだまだ沢山建てられています。万延元年(1860)の文字庚申は下部の三猿がちょっと非対称なので載せておきます。
今回はこれまでとしましょう。下の地図で長楽寺先にある調整池には冬になると白鳥が飛来するそうです。絶好の散歩コースと思います。ここから北総線西白井駅へは南西に1kmほど、長楽寺の四つ角から南東へ1kmで白井駅となります。
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