2009/05/11

36 北総石仏 白井ⅩⅡ

連休は用事があって観光がてら松本に出かけました。自転車で湧き水巡りの途中、調べもせずに寺社に立ち寄り「石仏は何処」と探しましたが「明治の廃仏毀釈でダメになりました」というお寺の方のお話でした。確かに黒くくすんだ地藏を見つけたのが精一杯でしたね。それを思うと北総は近世石仏の宝庫だと思います。閑話休題。さて、今回は前回の榎台入口庚申塚から北方へ榎台・中台方向へ向かいます。
36-1榎台のY字路 
榎台入口庚申塚の先100mで左に榎台・中台方向へ向かいます。150mほどでY字路となりますがそこに石仏が3基が迎えてくれます。左から文化八年(1811)金剛界大日如来像(多分?)、明治29年文字庚申塔(正面剥落)、天保五年(1834)香取鹿嶋◇◇と読める神碑です。何れも平塚邑中臺・竹下住民が村境に建立したようですが、残念ながら風化が進み手入れされないので寂寞とした風情です。 
  36-2.榎台・墓地の一石六地蔵 
この分岐の奥=Y字の三角デルタ地帯が榎台墓地となっています。林の中ところどころに墓所が散在しています。目的の場所は丁度墓地が尽きて径が墓地の端に沿って巡るあたりの開けた空き地です。小さな六地蔵とその中に大きな延命地藏が並んでいます。そして次の墓標のとなりの左端に一石六地蔵の角柱が立っています。まず、整列している小さな六地藏ですが、右から享保十九年(1734)、宝永四年(1707)、享保十九年、同左、元禄十年(1697)、元禄七年(1694)となっています。年代的には早いものですが荒野のような場所に良く残ってきたのは、写真にも見られるように地藏への地区民の供養・信仰が続いてきたことによるのでしょう。中央の大きな地藏は宝永五年(1708)平塚村地藏講結衆50人によるもので信仰の厚さが分かります。 左端の一石六地蔵ですが正面下部に「明治44年7月10日、堤防用土運搬作業時の休憩中崖上が崩れ4名の犠牲者が出、その菩提を弔う為能下六地蔵を建立した」と明確に刻まれています。15歳~41歳男1人女3人の働き盛りが犠牲者です。手賀村興福院(柏市手賀)、永治村延命寺(白井市平塚東区)の住職が発願人となって大正3年に建立されています。両村の村人が犠牲になったと思われますが、堤防とはどこだったのでしょうか、明治時代は利根川の大規模な改修が行われていたのであるいはその時だったかもしれません。 36-3.榎台墓地の庚申塔 
先ほどの地藏群と離れて墓地のはずれに庚申塔が3基、墓所のように祀られています。地藏群の位置からは背面しか見えないので墓標と誤認するかもしれません。何れ塔にも白井地区特有の朱が入れてあります。ヨカッタ。 左から元文元年(1736)三猿文字庚申塔、享保六年(1721)笠付文字庚申塔「奉造立庚申供養諸願成就・二世安楽」となっています。次が延享元年(1744)六手ショケラ持青面金剛塔となっています。
この青面金剛はアーモンド形の頭形をして、右手の掌は水平に法輪を受けています。出ましたよ~。 この墓地内に文字馬頭観音6基、文字猿田彦太神1基があるはずですが見当たりません、次にいきます。 
  36-4.中台集会所の子安観音塔 
墓地の東側の道路を500mほど道なりに北上します。左曲がり角が中台集会所です。夕方訪れたことと未熟な技量で石仏の写真写りは極めて悪くなっています。オマケに集会所奥は無縁墓標がつみかさなっていてちょっと不気味でした。いつもは掲載写真データを石造物調査書と照合して載せていますが、今回は中々突き合いません。どうやら多量の墓標石仏や狭小敷地内整理のためか調査書も混乱している恐れがあります。従って、分かる範囲で載せておきます。入口道路沿いに明治4年・明治5年・弘化四年(1847)の子安観音像塔が並びます。その隣は明治20年の子安像ですが上部が剥落しています。更に道沿いに明治25年の子安像が並んでいます。上の写真は手前が昭和29年の子安像塔で左が大正13年子安像です。木陰にうつっている赤色石仏は明和六年(1769)十九夜如意輪塔となっています。文化・文政の如意輪塔・享保三年の花見堂地藏は見つかりませんでした。どちらに~? ところでこの集会所の北側道路沿いに弘法大師像が勢ぞろいしています。赤い紅や綺麗な供花でこちらは大切に祀られています。子安像・十九夜塔の寂しい姿と対照的でした。民間信仰は流行り廃りがあるものと実感した次第です。この平塚地区は平塚 村大師として明治33年5月から平塚新四国八十八箇所の霊場写しを設定して例年5月に巡拝をしているそうです。延命寺から出発して約11kmを村内に置かれている大師堂を巡ります。中台集会所脇の大師堂は2・3・8・27・28・47・68・74番のお大師様が揃っておられます。いつか信心も村大師巡拝を敢行しようと目論んでいます。 
  36-5.中台堂跡墓地の十九夜塔 
中台集会所の角を回り村大師堂の前を通って200mほど西進します。写真のような階段が見える場所が堂跡墓地への入口です。村の人に訪ねないと分からないでしょう。階段を上れば下の写真のような光景が広がります。以前は薬師堂があったようですが今は荒れ果てた感じの墓地となっています。写真右手に大正14年の11番大師像が見えます。その右、ベニヤ板のお堂の中に明治39年18番丸彫大師像がおられます。つまり此処も村大師の巡礼場所となっていて11番18番66番79番87番の新四国写霊場という訳です。 写真左手には十九夜塔などが散在しています。上の写真左は文久元年(1861)子安観音塔、右が昭和7年子安観音塔で真中が安永三年(1774)十九夜塔となっています。文化八年(1811)、寛政六年(1794)の如意輪観音塔の写真を載せておきます。下の写真は昭和46年の子安観音塔ですが、立体的な彫となりますが造形的にはステロタイプな感じが残りますね。36-6.小森の庚申塚
堂跡墓地からこの庚申塚へ向かう場合は地元の人でも年配の方に聞かないとたどり着けないと思います。分かり易いのは平塚村大師六十一番の道路上からたどるか、白井第二工業団地内の朝日機材白井管理センター脇の道を北上すると良いでしょう。上の写真のように林の中にさりげなくたっています。庚申塚のほうは正面に6基と左手3基と右手に馬頭観音1基で構成されています。また、塚の左隣に二十三夜塔2基があります。 まず、庚申塔は正面の写真左から碑面剥落明治39年塔、明治8年猿田彦大神塔、大正13年文字庚申塔、嘉永元年(1848)青面金剛王塔、文久元年(1861)文字庚申塔、平成6年朱も鮮やかな文字庚申塔となります。又、左手の3基は左から文政九年(1826)正面剥離塔、文化六年(1809)青面金剛王塔、寛政四年(1792)青面金剛塔です。これだけ庚申塔があると当然お猿さんの出番です。小さな村ですと石工の楽しみでしょうかバリエーションがあって面白いですよ。右手は弘化五年(1848)のシンプルな文字馬頭観音です。 塚の隣は2基のみの建立です。享保十七年(1732)勢至菩薩で「奉供養廿三夜成就之攸」と刻まれています。種子がサクとなっています。調査書の聖観音は誤記でしょう。彫も良くシンプルで僕は好きですね。隣は明治28年の文字二十三夜塔となります。これを見ると堂跡墓地の十九夜塔と、二十三夜塔が棲み分けている図式が見えるようで興味深く感じました。今回はこれにておしまいとしましょう。次回は遠足シリーズで江戸石仏・駒込から白山根津を回ります。

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